石井勇〈MINOU BOOKS〉が、戸倉徹・江里〈とくら家のたべるもの〉に会いに行く【前編】
この街の「文化の熱源」となっている人が、いま話してみたい熱源人に会いに行くシリーズが始まります。
初回は、福岡県うきは市吉井町と久留米市で書店〈 MINOU BOOKS 〉を展開する石井勇さんが、東京から大分県中津市耶馬渓町に移り住み、〈 とくら家のたべるもの 〉という屋号で農薬や肥料を使わず米作りを行う、戸倉徹・江里さん夫妻に会いに行きます。
取材は、戸倉さんたちが4年かけて手を加えた古民家の自宅で行いました。戸倉さんの田んぼでとれたお米を中心にした滋味あふれるお昼をごちそうになり、和気あいあいと和やかな雰囲気の中、対話は始まりました。
信用できる人
戸倉江里さん(以下、江里さん) 石井さんとの出会いは、うきはに本屋さんができたと聞いて、お客さんとして訪ねたのが最初でした。「いい本屋さんだ」と、私たちが制作していた冊子「雲与橋」を置いてもらえるようお願いしました。
石井勇さん(以下、石井さん) 来てくださる度に、お二人が買ってくださる本のセレクトが素晴らしくて。しっかり言葉を交わすより前から、「この人たちは信用できる」と勝手に思っていました(笑)。
戸倉徹さん(以下、徹さん) 今回、なぜ私たちを対話相手に選んでくれたのですか?
石井さん 僕、考え続けている人が好きなんです。今の時代、たとえちょっと間違ったとしても、考え続けるしかないんじゃないかと日々感じています。
戸倉さんたちは、もともと写真や映像を仕事とされながら、東京という都会から耶馬渓の山の中の下郷地区に移り住まれたわけで、あのような本を読んでいるお二人が暮らしの中でどんなことを考えているのか、暮らしが変化したことで考えも変わったのかをお聞きしたくなりました。
また、僕自身も昨年久留米市に2つめのお店を開いたことで、改めて地域で生業を営むことや、文化的な活動をすることについて考える機会が増えました。そこも、お二人にお話を聞きたくなった理由のひとつかもしれません。
徹さん なぜ久留米にお店を出されたんですか?
石井さん 1つ目のお店をやっている うきはという街が観光地化していくことに違和感を感じながらも、その真ん中で仕事をしている状況から一歩脱却してみたくなったんです。それを、移転というかたちではなく、もう1つお店を出すという方法に求めました。もちろん久留米という街にはもっと本屋があったほうが良いという思いも前提としてはありました。
だけど実際にやってみると、自分の甘さを痛感させられました。うきははいわば街全体がショッピングモールで、MINOU BOOKSに来てくれていたお客さんも、実際には“うきはモール”に来た人が訪れてくれていただけでした。うちの店は、いわば店子のようなものだったということを思い知らされたんです。
一方で、2店舗目を出店した久留米は人口も多く、規模も大きいし、文化施設もずっと多い街です。だけど、いざお客さんに来てもらうとなると、まずは自分の店単独の力で戦わなきゃならないことを今、改めて気づかされているというか。まだまだこれからですね。
どうすれば「生きたい」と思える世界になるか
石井さん 戸倉さんたちは、なぜ下郷地区に移り住まれたのですか?
徹さん 僕は、山の資本を使って生活をしたいという希望がありました。あと、小さなコミュニティがまだ崩壊せずに残っていて、それを維持することに熱がある人たちと一緒に活動したいとも思っていました。
都会の大きな経済の中にいると、自分の使ったお金がどこに行くのかが全く見えなくて、それが心地良くなかったんです。だけど、例えば下郷農協の売店のような小さな経済圏でお金を使うと、それがどのように流れていくかが想像できる。そんな環境で暮らしてみたいと思ったんです。
江里さん 私は若い頃、時間ができるとバックパックを背負って、日本のいわゆる僻地と言われるところに一人旅に出かけるのが好きでした。そこで地元の人に必ず言われるのが、「なんでこんな何も無いところに?」という言葉。そのたびに、大きな商業施設や企業がない地域には「何もない」のだろうか?と考えていました。特に、人と人の間にお金が介在しない、物々交換が当たり前に行われているようなところには惹かれるものがあって、いつかはこんなところで暮らしたいと考えていました。
そんなことを考えていたところに起きたのが、3.11。すごく大きなきっかけになりました。震災を通じて明らかにされた色んな社会の歪みに、実は自分自身も加担していたんじゃないかと、ショックを受けたんです。
これまで自分がやってきた雑誌の仕事も消費を煽るものが多く、私は結局そんなことしかしてこなかったんじゃないかと思うようになりました。
そんな折に、福島から東京へ避難してきた方とお会いする機会がありました。その方は養豚業を営んでいましたが、地域を救う道として原発推進の活動をされていたそうです。
子供達は都会へ仕事に出て地域からいなくなり、過疎高齢化が進む。そうした状況から脱却するために、当時100%安全だと言われていた原発誘致に賛成し、その推進に取り組まれていた。仕事があれば人が戻ってくる。そして人が戻れば地域は元気になるはずだ、と。その方は60代くらいの男性でしたが、初対面で娘ほどにも歳の離れた私の前で、話しながらポロポロと涙を流されるんです。「俺のしてきたことは、何だったんだろうね」って。
その衝撃が大きくて。私自身もまた「一体何をしていたのだろう」って。私はもう、今まで通りには生きていけないと思いました。そして、色々なことを考えました。なぜ仕事が無いと人がいなくなるのか。人がいれば仕事が生まれるのか。一極集中がもたらしていることは何か。そして私たちの生活が徹底的に分業化されていることについて。この時に考えたことが、移住後に地域の冊子を作る動機となっていきました。
分業化にはメリットがあります。だけどそれが行き過ぎると、いろんなことが他人事になってしまう可能性を大きく孕んでいるのではないでしょうか。「それは私の仕事じゃない」「私はそこに住んでいない」。そうしてどんどん繋がりが希薄になってしまう。
今の社会で暮らしていくにはお金が必要で、それを否定するつもりは全くありません。でも介在するものがお金だけではない世界の美しさも失いたくない。きれいごとかもしれないけど、そんなきれいごとを言いながら、 自分が生きたいと思える世界がどんな世界か、考え続けていきたい。私はそこから始めてみるしかありませんでした。
徹さん 移住先を探すとき、二人で色んな場所を見て回りましたが、下郷に来た時にはパッと「ここだ」という確信があったよね。
江里さん そうだね。条件に照らして頭で探しているときは全然見つからなかったのに、ここは気持ちいい場所だね、と直感に従ってみたら、そこには全部したいことが出来る環境が準備されていたんです。それが13年前のことです。
下郷で始めた文化活動と、その変化
石井さん お二人は、下郷地区の方たちと「下郷村」という地域団体を作って、様々な活動をしてこられました。その一つとして、地域の暮らしの様子を記録し、情報を発信する「雲与橋」という冊子を作られていました。うちの店にも設置させてもらいましたよね。
江里さん 移住先で本を作ることは決めていました。それで、いざ引っ越して来てみると、定住促進のための国の補助金があるから、それを使って作りましょうと言ってもらえて。さらには、一緒に作ることになるメンバーまで揃っていました。
編集長として携わらせていただいた「雲与橋」は、地域にとっては定住促進という名目がありましたが、わたしにとってはもう一つ、テーマがありました。
裏表紙に「いのちき」という、この辺りの方言が書かれています。「生計。暮らしていくということ。お金を稼ぐという意味だけではなく、家族や自分を養う生活全般」を意味する言葉です。
自分を生かすための仕事は、誰かに雇われて働くことに限りません。そこには、自分が暮らす場所に存在するいろんなものとの関係性——例えばその土地の自然や風土だったり、地域の行事やお祭りに参加することだったり——とも関わりがあるものだと思います。
ここに移住してきたとき、地域の人によく「あんた、どげぇしち”いのちき”すんのんでぇ(あなたは、どうやって生計を/生活を立てていくのですか)」と問われました。その問いには、単に「あなたは何の仕事をするのか」という事実確認以上の、「あなたはこれからどのように生きていくつもりなのか」という意思表示みたいなものまで含まれているように感じました。この「いのちき」のなかに、3.11の時に生まれた多くの問いに応えるものが見つけられるかも、と思ったんです。
それもあって、紙面を制作する時には敢えて、地域にある「いのちき」をただ綴ることに専念しました。小さな地域から狼煙を上げるような気持ちでしたね。また、表紙のタイトルの下には、副タイトルで「○○○人のいのちき」と表記してあります。これは発刊当時の下郷地区の人口で、毎号変わっています。高齢者が多い地域なので人口はどんどん減っていますが、定住者は増えています。冊子は10年間で合計8冊作って、2023年の春に出したものが最後の号になりました。
石井さん 映画祭もされていましたよね?
徹さん そうそう。下郷は長らく有機農業に取り組んできた歴史もあるような素敵な場所なのに、地元の人たちにはその自覚があまり無いように感じました。そこで、改めてここに住む人たちが共通認識を持てる場があればと思って、イベントを立ち上げることにしたんです。
だけど、いざ食の安全に関わる社会派な映画を上映してみても、来てくれるお客さんの多くは地元の人ではなく、他のエリアからやってくる関心の高い人たちばかりでした。そこで少し方向性を変え、二部構成にして例えばチャップリンやキートンの無声映画を活弁士付きで上映してみたりすると、こっちは人気でした。やっぱり楽しい方が良いんですね(笑)。これまで映画祭は6回やって、いまはお休みしています。
僕らは地元のみんなに、この地域には今でも幸せに暮らしていくのに十分な資源があることを実感して欲しいと思っていました。そのためには、どれだけビジョンを共有し、語り合えるかが肝。「雲与橋」や映画祭といった活動を通じて、地域の人たちの間にそうした土壌を少しは育むことが出来たんじゃないかと思います。
石井さん そうは言っても、お二人が思い描かれていたビジョンと、地域の人たちによる自己認識のあいだに、ギャップはありませんでしたか?
徹さん ギャップというよりも、当時の僕たちは、イメージだけで語ってしまっていたことがあまりにも多かったと感じています。
あの頃は、このコミュニティが長い時間と労力をかけて作られ、成立していることを分かったつもりになっていただけで、深く思い至ることまでは出来ていませんでした。それは僕たちが幼かったんだと思うし、そういう大切なことは、ここに住んでいるうちに少しずつ理解出来るようになっていきました。
例えば、田んぼで米を作り始めると、最初の一年は「この作物は自分が作った」と思ってしまう。ところが何年も携わっているうちに、このお米はこれまで先人が培ってくれた土の地力や水が実らせているものであって、自分の働きなんて本当にささやかなものであるということが分かってくるんです。
そんな風にして僕たちの活動も徐々に、頭で考えるよりも自分たちの生活そのものを通じて理解し・考えたことを実践していくような方向へと、シフトしていったんです。
【後編記事へ続きます→】
text:浅野佳子、三好剛平
photo:橘ちひろ
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