読書記録「断片的なものの社会学」
久しぶりに本を読んだ。岸政彦さんの「断片的なものの社会学」という本。takunaruというオススメの本をすれ違い通信で交換する、みたいなアプリでオススメされて、気になったから読んでみた。
社会学者である著者が論文にまとめる事をしなかった、どのように解釈すべきか分からなかった、そういった経験やインタビューの内容をまとめた本だった。
この本を読んで、物書きの友人と飲みに行った時に彼が話してくれた事を思い出した。
小説で登場するとフィクション感がマシマシになってしまう様な事柄は案外身近で起こっていたりする。例えば、もう何年も会っていなかった同級生と街中や電車で再会するとか。リアルでは意外と起こりうる。しかし、物語に登場すると何故かフィクション感を増長してしまう。
そういった嘘みたいで、割と身近にある話が沢山書いてあった。
筆者はそれらを「無意味な断片」と表現し、つらつらと書き付けていた。本当に断片なのだ。書かれる対象となった人は居るが、その先の物語は本の中には存在しない。顔も名前も知らない複数の人の人生のごく一部を取り出してきて羅列した、そんな本。
こう表現すると、面白いの??と疑問を抱くかと思うが、これが意外と面白かった。SNSを眺めている様な感覚と言ったらいいだろうか。知らない人の生活をちょっとだけ垣間見る、そんな趣があった。こんな文章に辿り着く人間ならきっと好きだよ。
筆者は本の中で「無意味な断片が集まってこの世界が出来上がっている」と言っていた。実際、個人個人がひとつなぎになっている事を認識出来るのは自分の意識だけだし、それすらも眠ると途切れる。物書きの友人との会話も、この本を読んだ事も、僕の意識の上に乗った「断片的なもの」だ。ただ、僕の意識だから僕にとっては無意味で無いだけで。当事者にならなければ「無意味な断片」でしか無いだろう。
この当事者でないというものがどうにも曲者で、冒頭の物書きの友人が語った、ありがちなのにフィクション感がマシマシになってしまう話の原因にもなっている様な気がする。他人同士の偶然の再会なんて、それこそ「無意味な断片」以上になり得ない。無意味だから見つけようともしないし、仮に目に入っていたとしても記憶には残りづらい。気付かれないから珍しく感じて、フィクション感が出やすくなってしまう。
そんな具合にひとつ疑問に思っていた事に自分なりの答えを付けながら、久しぶりの読書の余韻に浸った。