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考えさせられた話

今日もまた鍋。手軽に野菜もたっぷりとれていい。


どちらかというと煮物


ミセスを聞きながら、ふと思い出す。

どうしようもないんだけど、言葉にせずにはいられない。

軽度知的。
子どもも3人いて、落ち着きなく、突然走りだしたり大声をあげたり。
子どももおそらくなんらかを抱えているとは思う。

経済的に困窮して、今回関わることになった。

私も福祉に携わってそんなに経ってないから
世の中にこんなに生活に困ってる人がいるなんて思わなかった。

こうやって私たちが関われる人は元々どこかに繋がってた人だろうから

誰の手も借りない(誰に相談していいか分からないor困ってることに気づいてない)人はもっと沢山いて、今もなお支援の手が差し伸べられてないんだろうなって思った。


この世界を知るまではいつも不思議でたまらなかった。


なんでお金がないのに働かないんだろう?

なんで自分のこともままならないのに子どもを沢山もつんだろう?

なんで我慢ができないんだろう?

何回も言ってることなのになんで理解できないんだろう?

なんでいつも忘れるんだろう?


*
*


『そもそも、私たちはみんな発達の因子を持ってるのよ』

と、入職したての頃に聞いた。

最初は意味が分からなかった。

でも今なら分かる気がする。

そして感じたことは、普通に『性格』で片付けられてたことなんだ、と。

そして、その『性格』が社会においてサポートが必要なレベルの時

人は『診断』という形でそれに名前が下るのだ、と。


今までの人生で出会ってきた理解不能な人達は
多分何かしらあったんだろうなって思う。

その時それを理解できていたらあんなに苛つくこともなかったかもしれないし

もっと優しい、違う目で相手を見れたのかもしれないな、とも思う。


もちろん、『ハンデあるから優しくしよ』とかそーゆーことじゃなくて

普通に特性を“そんなもんなんだ”ってフラットに見ることができると
世の中はもっと優しくなるのかな、と思う。


例えば、
店で尋常じゃないくらい大声をあげて走り回っている子供がいて
親も止めはするけど、なんだか…みたいな人がいたとする。

もちろん、私はそれはいけないことだと思うし、親がきちんと注意をすべきだと思う。


ただ、周りの私たちが
『しつけのなってない親だな。あんなヤンキーみたいな親だからこんな子になるんだ』

と見た目だけで判断するのではなく

こういう、福祉の手が必要な人が世の中にはごまんといて

もしかしたら、サポートが必要な人なのかもしれないなって少し視点を変えてみることで

救われる誰かがいるのかもしれないよねって話。


私たちって障害のあるなしに関係なく
みんな一生懸命に生きて
一生懸命頑張ってる。

ただ余裕がなくなると
自分が一番不幸で
自分が一番大変な思いをしてるような気になってくる。

そうじゃない。

楽そうに見えるあの人も
何も考えてないようなあの人も

きっと一生懸命生きてる。

みんながいろんな世界を知って
それをフラットに捉えられるだけで
少しは優しい世界に近づくんじゃないかな。



私はできた人間ではないし
誰かを助けたい、なんていうゆるがない正義感みたいなのも正直よく分からない。


でも新たなる世界を知ったとき
『そーゆーものなんだ』というフラットな視点と受容力は持ち続けたいな。


…なんて思いながらケセラセラを聞いておりました。
やっぱりとってもいい曲ダヨネ!!!

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