短編小説 |RUMOUR2/6

EXPANSION

1924年の春が過ぎ、ジメジメと雨が降り始めた頃、N県の山奥にある病院では奇妙な噂が瞬く間に広がっていった。フサが赴任してから数ヶ月が経ち、彼女自身もこの地の不可解な雰囲気に少しずつ慣れ始めていた。しかし、その「慣れ」は同時に、彼女の中に新たな不安の種を植え付けていった。

患者たちの間で、突然未知の言語を話し始める者が現れ始めたのは、梅雨の中頃のことだった。最初に気づいたのは、呼吸器内科に入院していた老人だった。ある朝、いつものように回診に訪れたフサは、その老人が意味不明な言葉を呟いているのを耳にした。

フサは最初、老人が譫妄状態にあるのではないかと考えた。しかし、その言葉には奇妙な規則性があり、なんとなくお経のようにも聞こえた。そして、その日のうちに同じ病棟の別の患者も同様の言葉を話し始めた。

当初は一時的な症状だと思われたが、やがてその言語を話す時間が長くなり、元の言葉を忘れてしまう患者も現れ始めた。医師たちは困惑し、様々な検査を行ったが、原因を特定することはできなかった。

フサは自分自身にも変化が現れ始めていることに気づいた。夜間に奇妙な幻覚を見るようになったのだ。病院の廊下を歩いていると、壁から木の枝が生え、天井から根が垂れ下がってくるような光景を目にすることがあった。そして、時折、風や木の枝が擦れる音のような理解できない言葉が口をついて出てくるようになった。

フサは恐怖に震えながらも、これらの現象を誰にも相談できずにいた。同僚たちは皆、当たり前のように「山神様」の話をし、患者たちの変化を受け入れているように見えたからだ。

同時に、病院スタッフの間でも奇妙な行動が見られるようになった。夜勤時、同僚たちが無意識のうちに「山神様いらっしゃい」と唱えながら病棟を歩き回る姿を目撃するようになったのだ。彼らの目は虚ろで、まるで何かに憑依されているかのようだった。

フサは自分がこの奇妙な現象の渦中にいることを痛感していた。しかし、逃げ出すこともできず、ただ日々の業務をこなすことで精一杯だった。唯一していた父との手紙のやり取りも、なかなか返事は返ってこない。そんな中、彼女の体にも少しずつ変化が現れ始めた。指先が木の枝のように硬くなり、皮膚に樹皮のような模様が浮かび上がることがあった。

7月に入ると、病院の周辺の自然にも異変が起き始めた。木々が異常な速さで成長し、病院の建物を覆い始めたのだ。窓から外を見ると、まるで深い森の中にいるかのような光景が広がっていた。

そしてある夜、フサは病棟の窓から見える山々が再び動き出すのを目撃する。巨大な人の形に変化した山の輪郭が、病院に向かって歩み寄ってくる。恐怖に震えるフサだったが、この時、もう既に安堵感の方が恐怖心を上回っていたのだ。「ようやく、山神様の元へいける…」フサはそう呟き、涙を流すことしか出来なかった。

その夜を境に、フサの意識は徐々に曖昧になっていった。彼女は自分が何者なのか、どこにいるのかさえ分からなくなっていった。そして、ある朝、フサの姿は病院から消えていた。

病院では、フサの失踪をめぐって新たな噂が広がった。「山神様に選ばれた」「山の精霊になった」など、様々な憶測が飛び交った。しかし、誰も真相を知ることはなかった。

フサの失踪後も、病院では奇妙な現象が続いていた。患者たちは未知の言語を話し続け、医療スタッフも徐々にその言葉を理解し始めていた。病院の周りの森はさらに深く、濃くなっていき、外部との接触はますます減っていった。

そして、新たな噂が病院の外にも広がり始めた。「あの病院に行くと、山神様に選ばれて消えてしまう」「病院の人々は皆、山の精霊になっていく」といった噂が、周辺の町村にまで伝わっていった。

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