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【短編小説】恋人を泡にした人魚姫

大金持ちの武器商人を父親に持つアスディスは、あるとき商売のために訪ねた土地の王子ヨアヒムに恋をする。

自分の国を持たない海の民のアスディスが豊かで自由な生活を送っている一方で、ヨアヒムは滅亡寸前の貧しい祖国に縛られて生きていた。

今まで欲しいものは何でもお金で買ってきたアスディスは、ヨアヒムの命も望めば手に入るのだと素朴に信じている。
しかしアスディスはヨアヒムとの恋の中で、人生で初めての敗北を知ることになる。


1 海の大商人の娘

 北の大陸の沿岸の暗い海を、金の獅子の船首像のついた赤塗の船が一隻、穏やかな波にのって進んでいた。
 マストの頂から舵まで贅沢な彫刻が施されたその船は、灰色の曇天の空の下で鮮やかな緋色で目立っている。

 海の大商人オグニの娘であるアスディスは、その豪華絢爛な船の主として、船尾にある一番に上等な部屋の腰掛けに座って茶を飲んでいた。

「うん、美味しい。前回の商談の人は、お土産に良いお茶を持ってきてくれたね」

 ほどよい渋みの茶を飲み干して、アスディスは天井から赤い紐で吊ったトレイに載ったポットをとって二杯目を注ぐ。

「あの大砲は貴重なものでしたから、買えることが嬉しかったのでしょう」

 側に立つ侍女のダラも、自分の分のお茶を飲んで頷いた。

 二人が話している通り、手元の陶製の茶器の中に入っているのは、半月前に終わった商談の相手が持ってきた茶葉を淹れたものである。大商人である父親の商売を手伝っている関係で、アスディスは世界中の様々な品を手に入れられる立場にいた。

(この前はこの髪飾りももらったし、最近は良いものがよく手に入って嬉しい)

 アスディスはカップを手にしたまま窓を見て、贅沢に着飾った自分の姿をガラスに映した。

 今年で十八歳になるアスディスは、茶色の髪を編んで細かい青玉を散りばめた飾り櫛を挿し、裾を金モールで縁取った青い繻子織サテンのドレスで華やかに装っている。
 アスディスは背が高く、勝ち気そうな淡褐色の瞳をしていて、特別に美人というわけではない。しかし化粧や着ているものが優れているために、見目の良い淑女に見えた。

 そうした自分の装いが素晴らしいことを確認したアスディスは、窓に映る自分から視線を外し、ガラスの外の向こう岸を眺めた。

(あそこに見える土地は貧しいけれども、私は裕福で金持ちだ)

 静かに波打つ海を挟んで見えるのは、粗末な民家がまばらに建った、やせた灰色の大地である。北の大国であるユルハイネン聖国の領土であるその土地は、もともとが恵みの少ない寒冷地であるうえに、欲深い統治者に収奪されて荒れ果てていた。

 国を持たない一族に属するアスディスは、豊かに富の満ちた船の上と、自由な海で生きてきた。だから殺風景な土地に縛られて生きる北の大陸の住民の暮らしは、なぜ人が生きているのかわからないほどに気の毒に思える。

(でもああいう貧乏な人たちから税を取り立てて、その金で物を買う偉い人が私たちのお客さんなんだよね)

 寒々しい景色から慣れた船内に視線を映して、アスディスは温かな茶をもう一杯飲んだ。

 アスディスは王女でも聖女でもないが、王にも負けないほど豊かな暮らしをしている。
 なぜそれほどまでに裕福なのかと言うと、それは父オグニの稼業が武器商人だからである。

 火薬に大砲に、銃に刀剣。
 船にはたくさんの武器が積み込まれていて、アスディスは父オグニの指示に従いながらそれを売って世界中を巡っている。
 腕の良い武器職人からのみ仕入れた武器はどれも上質なものばかりで、アスディスは常に商品を高い値で売ることができた。

 良い価値があるものを通して、商売は広がる。
 人の命は大事だからこそ、それを奪う武器にも価値が生まれる。
 だから戦争は大勢の人から命を財産を奪うと同時に、莫大な富を生み出す。

 アスディスはそうした、人の血が流れることによって発展する文化の中に身を置いているのだ。

「このお菓子もいいけど、ちょっと果物も欲しいかも」

 アスディスはトレイに載っていたナッツ入りの薄焼き菓子を手に取りながら、ごく自然にわがままを言う。

「では船員に持ってこさせましょう」

 主人と同様によく食べる侍女のダラは、外の船員に指示を出すために部屋を出た。
 合理性を重視するダラは、動きやすい男物の服を着ているが、身体の女性らしさではアスディスに勝っている。

(確か食料庫には、りんごがまだたくさんあったはずだよね)

 部屋に一人残り、アスディスは食料庫にある果物のことを考えた。
 都市から都市を移動するアスディスの船には、いつも食料が豊富に積み込まれている。
 だからアスディスは、船の上でも飢えたことはまったくなかった。

 着たい服を着て、食べたい物を食べて、欲しい物を手に入れる。
 それが海の大商人オグニの娘、アスディスの人生だった。

2 田舎の港町

「ハーフェンに到着したので、錨を下ろします」

「領主の城からの迎えの馬車は、もうアスディス様を待ってるみたいです」

 船が寄港地に着き、若い船員たちの声が勢いよく甲板から響く。

 アスディスは胸元をクリーム色のレースで飾った藍色のドレスを風に揺らし、船首楼から身を乗り出しながらその声に応えた。

「わかった。じゃあ私は船を降りるから、舷梯の準備をお願い」

 手すりの木枠を握り、船の上から到着地を見下ろせば、赤い煉瓦の屋根に白い漆喰を塗った壁が際立つハーフェンの町並みが見える。
 ハーフェンはユルハイネン聖国の中でも有数の港町であり、周囲の寒村とは違って人のにぎわいが一応はあった。

 国土の大半が不毛な土地であるユルハイネン聖国の民は貧しく、富裕層のほとんどは王の一族が作ったいくつかの都市だけに住んでいる。
 ハーフェンもそうした都市の一つであり、道をゆく人々の姿は比較的小綺麗な身なりをしていた。

(だけど所詮は領土が広いだけの劣等国。見ごたえのある大聖堂とか、趣味の良いお屋敷とか、そういうものはなさそうだな)

 宿や商店が立ち並ぶ町並みを見回しても印象は平凡で、特に目を惹かれるものはなかった。

 世界中の都市を見ているアスディスは目が肥えているので、田舎の港町程度では心は踊らない。
 そんな辺鄙で魅力のない街にアスディスが来たのは、父オグニの指示があったからである。

 隣国と戦争中のユルハイネン聖国に武器を売るために、ハーフェンの領主である王子ヨアヒムに会って貿易の契約を取り付けろと、オグニは手紙に書いて送ってきたのだ。
 武器を売ることに何の疑問を持たないアスディスは、父の指示に素直に従った。
 自分の暮らしのすべては父の稼業のおかげだなのだから、逆らう理由はどこにもなかった。

「アスディス様。こちらに本日の書類を入れておきました」

 侍女のダラが後ろから呼びかけて、商談に必要な書類が入った鞄をアスディスに渡す。

「うん。それじゃ行ってくる」

 アスディスは船首楼から降りて、鞄を受け取った。

 これまで苦労をしたことがないアスディスは、何事も上手くいく自信を持っている。
 だから曇りの天気でも晴れやかに勝ち誇った気分で、アスディスは船員が下ろした舷梯から地上に降り、ハーフェンに足を踏み入れた。

3 打算と恋

 耳が遠い老人が御者を務める迎えの馬車に乗って、アスディスは目的地へ行く。

 よく揺れる古い馬車から想像したとおり、ハーフェンの領主ヨアヒムのいる屋敷は、正面ファサードに施された彫刻が未熟で垢抜けない印象を与える、時代遅れの石の城だった。
 内装も金をかけているのかもしれないが趣味が悪く、聖獣を描いたタペストリーも花柄を織った絨毯もけばけばしい。

(民に重税を課した結果が、このださい場所なんだ)

 アスディスは内心馬鹿にしつつも淑女らしい笑みを浮かべて、小姓の案内に従って歴代の城主らしき人物の肖像画が飾られた廊下を歩いた。どの絵も美しく勇ましい男性が描かれていたが、実物がどうだったかはわからない。

 やがて無愛想な小姓は、アスディスを応接間らしき部屋に通した。
 腕の悪い職人が作ったに違いないその部屋は、漆喰を塗った壁には下手くそな植物の文様が描かれ、床には派手すぎる柄のタイルの敷かれていた。家具は細部の仕上げが雑な、木の椅子とテーブルだけがある。

「主を呼んでまいりますので、しばらくこちらでおくつろぎください」

 にこりともせずにお辞儀をして、小姓はアスディスを残して部屋を出る。

 アスディスは言われたとおりに、椅子に腰掛けて一休みした。
 赤い布のかかったテーブルには冷めた茶の入った陶製の茶器と、しなびた薄切りのパンに塩漬け肉やチーズが盛られた皿が置かれていた。ひしゃげた焼き菓子やつやのない果物の盛り合わせもあり、茶請けにしては豪華な品揃えである。

 何もすることがないので、アスディスはパンを一つとって塩漬け肉を載せて食べた。ライ麦でできた黒いパンは酸味が強い分、塩漬け肉の脂身のまろやかさを引き立てて、思ったよりは不味くはない。

(そうたいした食べ物ではないけど、この国としては気の利いたおもてなしなのかな)

 ぱさついたパンを食べてのどが渇いたアスディスは、カップに入っていた黒く苦い茶を飲んだ。金箔で縁取った白磁のカップはそれなりに立派な品だったが、冷えた飲み物では身体が温まらないのは残念だった。

 やがてアスディスが生地を細く巻いた形の焼き菓子の味を確かめようとしたところで、背後の扉が開いた。
 召使い以外の人間の気配を察したアスディスは、立ち上がって振り向き、現れた人物を迎えた。

「君が、武器商人のアスディスか」

 静かな響きの声が、アスディスの名前を呼ぶ。
 その人物は名乗らなかったけれども、ユルハイネン聖国の紋章が刺繍された上等な 長衣トーガを着ていたので、アスディスはすぐに彼が王子ヨアヒムだとわかった。

(思ったよりも、普通に綺麗な人だ)

 ヨアヒムは声と同じように落ち着いた雰囲気の青年で、深紫色の目を縁取るまつげは長く、鼻すじの通った整った顔立ちをしていた。
 背丈も年齢もアスディスとそれほど変わらないように見えるが、姿勢の良いヨアヒムの立ち姿は、高貴な生まれの者らしい風格がある。そして金髪を少し長めに伸ばして後ろで束ねているのも、澄んだ風貌によく似合っていた。

 建物やもてなしの様子から想定していたよりも美しいヨアヒムの姿に、アスディスは素直に感心した。ヨアヒムがこのように美形なのだから、廊下に飾ってあった歴代の肖像も嘘ではないのかもしれないとも思う。

(着ている服は普通だし、きっと趣味が悪くて駄目なのは街や屋敷を作った昔の人なんだ)

 冷静にヨアヒムの価値を値踏みしながら、アスディスはドレスの裾を上げてお辞儀をした。

「はい。厳密に言うと私は、武器商人オグニの娘のアスディスです」

 アスディスは父親の家業を手伝っているだけであり、自分の職業が武器商人だと思ったことはなかった。だからただの娘であることを強調して、挨拶をした。
 するとヨアヒムも同じように肩書ではなく父親の名前で自分の立場を語り、テーブルの方に歩いてくる。

「そうか。僕はユルハイネン聖国の国王チャールトの息子のヨアヒムだ」

 その言葉に誇りはなく、微笑みには自虐的な影があったので、ヨアヒムが父であるチャールトを尊敬していないことはすぐにわかった。

「それで武器商人の娘の君は、この国に武器を売りに来たんだな」

 武器の売買に興味がないことを隠さない態度で、ヨアヒムはさっさと向かいの席に着いて本題に入る。
 アスディスはヨアヒムがなぜ斜に構えているのか考えながら、鞄を開けて仕入れた商品を書いてまとめた書類を取り出した。

「ご必要だと思った商品は、用意してまいりました。でも買うか買わないか決めるのは、あなた方です」

 羊皮紙を閉じた薄い冊子をヨアヒムに渡して、アスディスは再び椅子に座る。

 ヨアヒムは冊子をテーブルに置き、一頁ずつめくった。

「今のこの国には弓や剣しかないが、確かにこれだけの銃や火薬があれば、オルキデア帝国に多少の抵抗はできるかもしれない」

 関心がなさそうなわりにしっかりと目を通して、ヨアヒムは忌々しそうに冊子を閉じた。
 オルキデア帝国は大陸の南に位置する大国であり、ユルハイネン聖国とは何十年も前から戦争をしている。

「だがどうせ最後はこの国が負ける。だから本当は講和でも降伏でも何でもして、こんな戦争は終わらせるべきなんだ」

 端正な顔をしかめて、ヨアヒムが毒づく。

 初対面の人間に言ってもしょうがない愚痴を言うのはどうかと思うのだが、アスディスは不思議とヨアヒムに好感を持った。ヨアヒムには今までで会ってきた顧客とは違う、独特の人間らしさがあるような気がした。

「殿下は、戦に勝つ気がないのですか?」

「そもそも勝てるわけがない。この国がどれだけ貧弱か、君も少しは知ってるだろ」

 食べ損ねていた焼き菓子に手を伸ばして、アスディスは尋ねる。
 ヨアヒムはアスディスの質問を不躾で理解がない人間の発言と受け止めたようで、苛立ちを忍ばせた様子で問い返した。

(この人はちゃんと自分の国のことをわかっているから、怒っているんだ)

 改めてユルハイネン聖国の農村の様子を思い出したアスディスは、ヨアヒムが戦争に何の希望も見出していないのも当然かもしれないと思った。

「確かに荒れ地の農民の暮らしは、過酷に見えました」

 さくさくと焼き菓子を食みながら、アスディスはユルハイネン聖国への認識を正直に語った。薄く伸ばした生地を巻いてきつね色に焼いたその菓子は、甘く軽い口当たりが悪くはない。

 一方でヨアヒムは、菓子にもパンにも手を付けなかった。ヨアヒムは上部の尖ったアーチ状の窓から外を眺め、厳しい言葉で自国の状況を咎めた。

「この街の港では、民が必死に育てて収穫した穀物が外国へ売られていく。城壁の外には飢える民がいるのに、小麦を売って武器を買うなんて馬鹿のすることじゃないのか?」

 苦悩に満ちたヨアヒムの視線の先には、高台の城から見下ろしたハーフェンの街と海がある。
 売るものがなければ貿易はできず、ハーフェンという街では民から収奪した穀物を売った金で商品が買われる。

 ヨアヒムは民の苦しみから目をそらさずに生きているからこそ、人々の犠牲の上に成り立っている王族としての自分の立場を憎んでいるようだった。
 その国を想う生真面目さは、自分の国というものを持たずに海で生きてきたアスディスがまったく知らないものであった。彼の気持ちがわからず、遠く隔てられているからこそ、アスディスはヨアヒムに惹かれた。

「じゃあ武器を買うのは、やめますか?」

 商品を売るという自分の役割を忘れて、アスディスはヨアヒムの意思を尊重する。
 しかしヨアヒムは自分の考えを押し通せる人物ではないからこそ、アスディスの前に座っていた。

「父上が国王である限り、それもできない」

 苦い表情で顔を伏せ、ヨアヒムは首を小さく横に振る。
 ヨアヒムのその答えには、優れた為政者とは言えない父チャールトへの屈折した感情が込められていた。
 民の苦境を知らずに戦争を続ける暗君である国王を口では批判していても、ただの王子でしかないヨアヒムには王を殺して成り代わる度胸はないのだ。

(でも私、この人に何かしてあげたいかもしれない)

 気に入ったドレスを手に入れたくなるのと同じ感覚で、アスディスはヨアヒムの感謝の言葉が聞きたくなる。
 だからアスディスは、あまり持ち合わせてはいない知恵を絞って、ヨアヒムに恩を売る方法を考えた。

「では私が、殿下の望みを少々叶えるために力をお貸ししましょうか」

「と、言うと?」

 アスディスが無責任に手助けを申し出ると、ヨアヒムは伏せていた目を上げた。
 綺麗な深紫色の瞳に見つめられて照れつつ、アスディスは売買する武器をまとめた冊子を開いて、思いついたことを説明した。

「例えば売買の契約書では、これらの商品の値段にこの値段より五割増の値段がついていたことにしましょう。でも実際の取引は、最初の値段ままで行います。そうすれば余ったお金の分、食料を売らずに民に残すことができませんか」

 アスディスの提案は、裏金を作る手段を利用したものである。だからアスディスは、人を騙してごまかす方法は断られるかもしれないと思った。
 しかしヨアヒムは、アスディスの思いつきを否定せずに受け止めた。

「確かにどちらにしろ負けるのなら、銃や火薬よりも穀物が多く残った方がいいかもしれないな」

 大粒の宝石付きの指輪をはめたアスディスの手によって開かれた冊子を眺めて、ヨアヒムは考え込む。

 そしてしばらく黙っていた後、ヨアヒムは静かな声でアスディスに尋ねた。

「その嘘、君が手伝ってくれるのか」

 不正な書類で父親を騙すことは、個人の倫理に反する行為ではなかったらしく、ヨアヒムは真っ直ぐな眼差しをアスディスに向けている。
 そうなると感謝の言葉以上のものが欲しくなって、アスディスは軽率に冗談を言った。

「はい。でもその代わりに、私に口づけをしてくださいって言ったらどうします」

 アスディスはそこまで本気ではなかった。ただ好意が伝わって、返事がもらえればそれで良い気持ちの方が強かった。
 しかしヨアヒムは民に対しては誠実である反面、恋愛については特にこだわりがないのか、簡単にテーブルに身を乗り出してアスディスの額に口づけをした。

「こんなことが、対価になるのだな」

 淡いぬくもりをアスディスの額に残して、ヨアヒムが顔を近づけたままささやく。

 それは意外な反応だったけれども、アスディスは嫌ではなかった。
 だからアスディスは、今度は自分からヨアヒムのくちびるに口づけをした。短いけれども、熱を込めた口づけである。

「私があなたのことを、気に入ったから」

 気づけばアスディスは、敬語を使うのをやめていた。

 こうしてアスディスは望んだ通りに、ヨアヒムと過ごす時間を手に入れた。

4 海鳥のおとぎ話

 金貨の入った飾り袋と引き換えに、船から木箱に詰め込まれた大量の銃や麻布に包まれた大砲が降ろされる。
 ヨアヒムには実際よりも値段を高く記した書類が渡され、食料を売らずに残すための取引は予定通りに進んだ。

 しかし武器商人の娘としてやることを全て済ませても、アスディスは理由をつけてハーフェンでの滞在を引き伸ばした。
 目的はもちろん、ヨアヒムと恋をすることである。

「出港はしてないけど、初めての船の乗り心地はどうかな?」

 自分の船の甲板に堂々と立ち、裾に白百合の花の刺繍を施した赤いドレスの上に厚手のショールを羽織ったアスディスが後ろを振り返る。

 顔を向けた先には平民に変装して野暮ったい生地の上着を着たヨアヒムがいて、船の畳まれた帆や鎖の巻き上げ機を眺めていた。

「まあ、悪くはないな」

 ヨアヒムは慣れない場所を前にしつつ、興味深げに頷く。

 人払いをしたので、近くに船員たちはいない。

 今日は一年中が冬のように暗い気候のハーフェンしては珍しく、空が青く晴れた日だった。
 だからアスディスは、港町の領主をしていながら一度も船に乗ったことがないヨアヒムを、港に泊めている自分の船に招待したのだ。

「晴れれば、ここの海も綺麗なんだね。普段は灰色ばかりなのに」

 アスディスは潮風になびいた前髪を手で抑えつつ、昨日の暗く淀んだ海とは違う、ほの青く透き通った今日の海を横目で見る。
 するとヨアヒムもアスディスの隣に並び、まぶしそうに目をすがめて海の方を向いた。

「そうだな。こんなふうに海が光る日には、海鳥の伝説を思い出す」

「海鳥の伝説って?」

 ヨアヒムの穏やかな横顔を見つめて、アスディスが聞き返す。
 港町にしては船の少ない海を眺めたまま、ヨアヒムは静かに口を開いた。

「人間の王子に恋をして、翼を捨てて人間の少女になった海鳥のおとぎ話だ」

 淡々とした口ぶりで、ヨアヒムはある一つの昔話について話し始める。

(おとぎ話なら、幸せに終わるはずだよね)

 アスディスは本の読み聞かせを聞く気持ちで、童心に返って耳を傾けた。期待しているのは、幸せな恋物語である。
 しかし続く言葉は、ヨアヒムの表情の朗らかさに反して明るくはない。

「人間になった海鳥は、その美しさで憧れの王子の心を射止めた。それから愛し合った二人はめでたく結ばれて、城で幸せに暮らした。だがある日、山よりも高い津波が城を襲って二人は死ぬ。海鳥は水に溺れて死ぬはずのない存在だったが、翼を捨てたから逃げられなかったんだ」

 硬質なヨアヒムの声が語ったのは、昔話らしい理不尽な悲劇だった。

「えっ、それで終わりなの?」

 あまりにも救いがない結末に、アスディスは思わず不満の声を上げた。

「これで終わりの話だが」

 何がおかしいのかわからないと言った様子で、ヨアヒムが怪訝そうな顔をしてアスディスを見た。
 思っていた話と違ったアスディスは、肩をすくめて率直な感想を伝えた。

「何だか、悲しい話だね」 

「そうだな。王子なんかのために自由な翼を捨てて、わざわざ不自由な地上に来るなんて海鳥も馬鹿なことをした」

 アスディスがつまらなそうにしていると、ヨアヒムがそっと革の手袋をはめた手でアスディスの背に触れる。
 どうやらヨアヒムは、海鳥と王子をアスディスと自分に例えているようだった。

 ささやかなヨアヒムの愛情表現ではもの足りず、アスディスは今度は自分からヨアヒムにじゃれてまとわりついた。

「その理屈だと、私も馬鹿ってこと?」

 頭をヨアヒムの肩に預け、アスディスは冗談っぽく文句を言う。
 そのアスディスの顔を横から覗き込み、ヨアヒムはわざと冷たく笑って間違いを正した。

「君は僕なんかのためには、何も捨ててはいないじゃないか」

 思慮深い深紫色の瞳で、ヨアヒムはアスディスの本質を見抜いていた。
 恋人同士のように睦み合うことを楽しんでいても、アスディスはいつかは船に乗ってこの地を去っていく人間である。
 そして自分を卑下してごまかすヨアヒムもまた、武器商人の娘の戯れの要求に付き合っているだけなのだ。

(だけど私にだって、本気の気持ちはあるんだけどな)

 軽い女だと言われて面白くなかったアスディスは、意外と薄いヨアヒムの肩を掴み、海を背にして真っ直ぐに向き合った。

「何も捨ててなくても、好きは好きだよ。神様にだって、少しは誓える」

 あえて口づけはせずに、アスディスは勝ち気な淡褐色の瞳でヨアヒムを見据えた。

 アスディスは海神に雷神に、大小様々な神が登場する神話を信じて生きているので、些細なことでも神に誓うことができる。
 しかしヨアヒムはアスディスとは違う、唯一絶対の神への信仰を持っていた。

「君と僕じゃ、信じる神が違うだろ」

 力なく微笑んだヨアヒムはアスディスの腰に手を回し、耳元にささやいてそのまま編み上げた茶色の髪にキスをした。
 よく晴れているのでそう寒くはなかったけれども、それでも抱きしめられれば温かくてほっとする。

(違うからこそ、好きになるのに)

 アスディスは何かを言ってもまた否定される気がしたので、黙って心の中でつぶやいた。
 船の手すりの向こうでは波が打ち寄せては引く音がして、さらに遠くからは街の喧騒が聞こえる。

 ヨアヒムには自分の国があり、アスディスには帰る土地もない。

 しかしだからこそアスディスは行きたいところにはどこだって行けるし、食べたいものは全部食べられると信じている。
 その確信を裏切られたことがないアスディスは、望めばヨアヒムもそのうち手に入るはずだと、根拠もなく思っていた。

5 敵の急襲

 最初は些細な欲であっても今は少しでは物足りず、アスディスはヨアヒムとまだまだ長く過ごしたかった。

 しかしハーフェンは特別に面白いものはない街なので、何週間も滞在していれば船員たちも不平を言う。
 さすがにアスディスも滞在を引き伸ばす理由が尽きてきて、これからどうするべきか迷っていたある夜。

 船の自室のベッドに座り本を読んでいたアスディスは、どこかで大砲が撃たれたような音を聞いた。
 一度くらいならそのまま気にせずに過ごすこともできるくらいの音なのだが、それが断続的に何度も続くので、アスディスも流石に不思議に思う。

(一体、この音は何だろう)

 異変を感じ寝間着のまま部屋の外に出てみると、ちょうど侍女のダラが梯子を降りてきたところだった。

「アスディス様」

 甲板から聞こえてくる船員たちの声や足音は慌ただしい雰囲気であったが、ダラは特に焦った様子もなく、悠々といつもの男物の服で床に降り立つ。
 だからアスディスも特にうろたえることなく、余裕を持って状況を確認した。

「ずっと大砲みたいな音がしてるけど、これは何?」

「大砲みたいじゃなくて、大砲ですね。どうもオルキデアの軍が陸路で現れ、ハーフェンの攻撃を始めたようです」

「オルキデアの軍が、そんなに急に?」

 あっさりとしたダラの報告の内容に、アスディスは少し驚く。

 確かに、ユルハイネン聖国はオルキデア帝国と戦争中であり、この港町のハーフェンも戦争に巻き込まれる可能性はあった。戦争の影が迫っているからこそ、武器商人の娘であるアスディスもこの街にいる。
 しかしオルキデア帝国の軍が東の大聖女を祀る神殿を攻略したという話はあっても、直近でハーフェンに迫るという噂はまったく聞かなかったのだ。

 状況を把握できていないアスディスの疑問に、ダラは堂々と落ち着いて手短に答える。

「オルキデアの軍を率いている将軍が結構有能であるらしくて、越えるのが難しい山を越えて来たという話です」

 移動が難しい急峻な地形があれば、その方面の守備は手薄になる。どうやらハーフェンはそうした思い込みの隙をつかれた結果、急な攻撃に直面しているようだった。

「じゃあこの街に、勝ち目はないんだ」

 襲来した敵が有能だと聞いたアスディスは、ヨアヒムの戦争に対する諦めぶりを思い出し、敗北を確信する。
 ダラもアスディスの意見に即座に同意し、頷いた。

「おそらく負けるでしょうね。だから本当に陥落する前に、この船も早めに出港させますよ」

 賢く有能な侍女であるダラは、冷静に次の行動を考えていた。ダラが出港させるというなら、本当にすぐに出港する準備は進んでいるのだろう。
 アスディスはそれほど頭の回転が早くはないので、船を出すなら自分が何をしなくてはならないのかを両手を握りしめて考えた。

「この街から去るなら私、ヨアヒムも一緒じゃなきゃ嫌なんだけど」

 思ったことがそのまま、アスディスの口をついて出る。
 自分の都合しか考えないアスディスがまず思ったのは、ハーフェンが陥落するならヨアヒムを連れて行けるということである。

 それどころかアスディスは、ハーフェンの危機はヨアヒムを自分のものにするためには好都合だとも思っていた。
 アスディスにとっては戦争の犠牲になる民の命はどうでもいいものであり、大事なのは自分が好意を抱いた存在だけだった。

「領主で王子ですよ。普通、来ますか?」

 常識的に物事を考えるダラは、露骨にアスディスを馬鹿にした表情で首を傾げる。
 アスディスはダラの反応が普通なのかもしれないとも思ったが、それは認めずに勢いでごまかした。

「最初から負けるってわかってる戦なんだから、ヨアヒムが頑張る必要はないでしょ。今から屋敷に行くから、とにかく急いで馬車を呼んで」

 ばっさりとそう言い捨てると、アスディスは自室に戻って扉を閉め、出かけるために寝間着から着替え始めた。

 扉を締める寸前のダラは納得していない顔をしていたが、やがて仕方がなさげな返事が廊下から聞こえて、梯子を登り去る音がする。

 自室で一人になったアスディスは、これから着る黒い絹のドレスをクローゼットから出し、すべてはヨアヒムのためなのだと自分を正当化した。

(ハーフェンに残ったってどうせろくな目に合わないんだから、絶対に私と一緒に来てくれるはず)

 勝てない戦だからこそ、ヨアヒムは武器を揃えて戦う道を捨てて、アスディスの提案した不正な方法で食料を残した。
 負け戦のために好き好んで死ぬ人間は、アスディスの理解では存在しない。ヨアヒムが差し出された手を拒絶することは、アスディスにはあまり想像できない。

 服も指輪も失いたくないように、菓子を横取りされたくないように、アスディスはヨアヒムと離れたくない。
 だから破壊と殺戮の危険がどれほど近くに差し迫っていたとしても、アスディスはヨアヒムに会うために戦火の中を出かけた。

6 淑女が銃を撃つ理由

 ダラの手配した馬車に乗ったアスディスは、混乱して逃げ惑うハーフェンの住民を横目で見つつ、ヨアヒムの元へ向う。
 肉屋も、鍛冶職人も、雑貨を売る女も、街ではどんな職業の住民も荷物をまとめて身を守れる場所を探している。

 逃げ道や手元を照らすために街のあちこちで物が燃やされていて、夜でも赤々と明るい不思議な色の空だった。
 髪を結う暇もなく飛び出してきたアスディスは、馬車の窓からその空を見上げて、困難に直面している人々に浅い同情をした。

 領主の屋敷に到着すると、いつもと同じように無愛想な小姓が出迎えたが、彼はもう半ば仕事を放棄した様子で顎でしゃくる。

「主はいつも通り寝室にいますから、どうぞお進みください」

「言われなくても、そうさせてもらうよ」

 投げやりな小姓の指示に反感を抱きつつも、アスディスは屋敷の中に早足で進んだ。

 逃げ足の早い家来が多いのか、元々人が少なかったのか、時折召使いの少年が小走りで部屋を出たり入ったりするくらいで目に入る人影は少ない。
 だから趣味の悪い絨毯の敷かれた廊下は、思ったよりも静かだった。

 やがてヨアヒムの寝室に着いたアスディスは、勢いよく扉を開けて恋した相手の名前を呼んだ。

「ヨアヒム」

 大声を出したつもりはなくとも大きい、張りのあるアスディスの声が響く。

 街の主であるはずのヨアヒムは、たった一人で取り残されたように、背板に金色の飾りのついた寝台に座っていた。
 上等な布で仕立てた 長衣トーガを脱ぎ捨て、白いシャツに革の脚衣を着たヨアヒムの姿は、いつも以上に儚く見える。

 暖炉は消え、大きく開かれた窓から風が吹き込む寒く暗い部屋で、ヨアヒムは俯いていた顔を上げアスディスを迎えた。

「やはり、君は来てくれた」

 アスディスの呼びかけに応えるヨアヒムの顔は、暗さでよく見えなかった。
 しかしその声が震えてかすれていたので、鈍感なアスディスでもすぐにヨアヒムが泣いていたことがわかった。

(ヨアヒムは責任感がないわけじゃないから、仕方がないか)

 領主らしく民を幸せにできない状況を嘆いているのだと思って、アスディスは深く考えずにヨアヒムの側に寄った。

「ハーフェンが陥落するなら、連れていけると思ったから。ヨアヒムがいてもいなくても、この街はオルキデアの軍に破れて終わるんでしょ」

 アスディスは寝台に座るヨアヒムの前に立ち、立つのを支えるつもりで腕を掴む。
 しかしヨアヒムは、寝台に腰を下ろしたまままた俯いた。

「そう。オルキデア帝国はこのユルハイネン聖国と違ってよくできた国だから、きっとこの街も見事に攻略するだろうな」

「だからヨアヒムが私と一緒に逃げても、全然問題はないんだよね」

 なかなか動き出さないヨアヒムに、アスディスは急かしたい気持ちを押し殺して話しかける。
 アスディスが腕を引っ張ってやっと、ヨアヒムは立ち上がった。
 だが口を開いて言ったその言葉は、アスディスが聞きたいものではなかった。

「アスディス。残念だけど僕は、君と一緒には行けない」

 ヨアヒムは泣きはらした後の妙に落ち着いた目でじっとアスディスを見つめて、はっきりと別れを告げた。
 決断はアスディスの知らないうちに下されていて、ヨアヒムの表情はすでに覚悟を決めている。

「それならオルキデアの捕囚になるの? あなたの妹君みたいに?」

 ヨアヒムが何を考えているのかわからないアスディスは、声を荒げて疑問をぶつけた。

 東の神殿で大聖女を務めていたヨアヒムの妹の王女は、神殿の陥落によってオルキデア帝国の捕囚となり、今は敵に丁重に扱われて生きている。
 アスディスはヨアヒムが妹と同じように、敵の支配下で敗者としての責任を全うしたいのかと思う。

 しかしヨアヒムはかぶりを振って、アスディスが示したもう一つの道も否定した。

「僕は妹と違って、生きるか死ぬかを敵に決めさせるつもりもない」

「じゃあヨアヒムは……」

 アスディスはヨアヒムに問いかけて、その先の言葉を失った。ヨアヒムの望みはわかったけれども、それを口にしたくはなかった。
 だがヨアヒムは、アスディスを最も困らせる形で、最も聞きたくない答えを口にした。

「アスディス。僕は君にここで殺してほしい」

 ヨアヒムはそう言って、寝台の上に置いてあった長銃を手にして、アスディスに差し出した。
 艷やかに磨かれた木材と金属を組み合わせて造られたその銃は、武器商人の娘であるアスディスがヨアヒムに売った商品だ。

「嫌だ。やりたくない」

 アスディスは銃を受け取らず、考えるよりも先にヨアヒムの願いを拒絶した。

 人殺しの道具を売った金で暮らしてきたアスディスであるが、人を殺したことはなかったし、また殺したいと思ったこともなかった。
 だからそもそも自分はヨアヒムが殺せるほど好きなのか、それとも殺せないほど好きなのか以前に、引金を引く行為そのものが嫌だった。

「だいたいなんで、ヨアヒムがこんなところで死ぬ必要があるの。どうせ頑張ったって守れない国なんだから、敵か誰かにあげてしまえばいいでしょ」

 馬鹿な考えを捨てさせるために、アスディスはヨアヒムに詰め寄った。

 アスディスはアスディスなりに真心をもってヨアヒムに恋をしてきたが、ヨアヒムにとっては戯れに付き合った結果に過ぎないはずだった。だからヨアヒムはアスディスを想っていないからこそ殺害を頼めるのだと、そう思って腹が立った。

 聞く耳を持たないアスディスを説得するために、ヨアヒムはそっと優しく言い聞かせるように抱き寄せた。

「この国にはそうやって、背負っていたものを投げ出した先人たちがたくさんいる」

 ヨアヒムが粗略な言葉でまとめるのは、アスディスが知らないユルハイネン聖国の歴史である。過去の為政者たちは、やはり国を捨てていたらしい。
 その積み重ねを踏まえた上で、ヨアヒムは自分の取るべき道を決めている。

「でもたまには誰かが守り続けるふりをしなければ、価値のない大義の犠牲になってきた者たちに申し訳がないだろ」

 ヨアヒムは冷えた指でアスディスの頬にふれ、自分が死ぬべき理由を語った。

 確かにアスディスが好きになったヨアヒムは、斜に構えた言動をとるくせに、こうした律儀で面倒な生真面目さを抱えた男である。
 だが恋人のように耳元でささやけば流されると思われたくはなかったので、アスディスは無駄だと思っても言い返した。

「それがヨアヒムで、殺すのが私である必要はあるの? 私はヨアヒムを殺して、この部屋を出ていきたくない」

 アスディスはヨアヒムの手を振り払い、真っ直ぐに目を見てにらむ。
 そのアスディスの行動は、ずっと何かに耐えた顔をしたヨアヒムから、さらに決定的な離別の言葉を引き出した。

「じゃあ君が、僕と一緒に死んでくれるのか」

 唐突に孤独な子供のような表情をして、ヨアヒムはアスディスの手を掴んで言った。ヨアヒムはただ孤独を埋める相手を求めていて、それはアスディスでも誰もよいはずだったが、わざわざ来たのはアスディスだった。

 ヨアヒムのその問いに、アスディスはすぐには答えられなかった。
 頷けないことは、わかっている。だが一人で死ぬことを恐れているヨアヒムを突き放すことは、アスディスにはできなかった。

(私がヨアヒムを好きでいたのは、この数週間の間だけ。でもどれだけ時間をかけてもきっと、私はヨアヒムと一緒に死ぬことはできない)

 アスディスは金色の前髪に隠れた寂しげなヨアヒムの瞳を見つめながら、彼と自分が結ばれないことをはっきりと理解する。

 アスディスは好きな人を救えるほどには強くはないが、一緒に死にたくなるほど弱くはない。
 だからいくら考えてみても、アスディスには恋人と心中する人間の気持ちがわからない。

 また強欲で何も手放すことができないアスディスは、自分の命を犠牲にするという発想を最初から持ち合わせてはいなかった。
 ヨアヒムが背負っている国は自分とは無関係で何の価値もなく、そのためには死ねのはありえない。
 特に深い理由はなくとも、アスディスはこれからも普通に生き続けたかった。

(おとぎ話の死んだ海鳥を、私は幸せだと思えない)

 アスディスはヨアヒムの背後の窓から見える夜空を眺めて、船上で聞いた海鳥の昔話を思い出す。

 翼を捨てて王子とともに死んだ海鳥のようにはアスディスはなれないし、またなりたくはなかった。アスディスは海を捨てた海鳥ではなく、ヨアヒムの手は掴めない。

 アスディスは二人で陸で死ぬのではなく、二人で海の上を飛びたいのだ。

「私はただ、好きだから一緒にいたかっただけなのに」

 やがて半分は諦めて、アスディスは顔をしかめる。涙が流れることはなかった。
 本当の意味でお互いのことを知る前に別れが訪れたことが寂しくて、もっと二人で一緒にいて好きになりたかったと思う。
 本当に愛し合うためには、明らかに時間が足りない。

 ヨアヒムはアスディスに覚悟を決めさせるために、さらに言葉を重ねた。

「僕が死んだら、指や目は持っていってくれて構わないから」

 一緒には死ねないことを態度で示したアスディスに、ヨアヒムはまた別の重い愛を伝える。

「そんなもの、私はいらない」

「生きてる僕はどこにも行けないから、その代わりだと思ってほしい」

 正直にアスディスが断ると、ヨアヒムは今度は指を絡ませて手を握ってきた。
 ヨアヒムの深紫の瞳は、遠い海の向こうを見るように、アスディスの姿を映している。

(ヨアヒムはどこにも行けずに死ぬ自分の代わりに、私に広い世界を見てほしいんだ)

 ひどくおかしな提案の裏にある切実な想いを、アスディスはそのときやっと理解する。

 ヨアヒムの前には決して外に出られない境界線があり、アスディスの前には中には入れない境界線がある。
 生まれも育ちも、信じる神も。
 何もかもが違う二人の間には、切り立つ崖がそびえている。
 しかし絶対的に隔てられているからこそ、二人はお互いの姿を見つめ合う。

 だからもしかすると最初に簡単に口づけしてくれた時点で、ヨアヒムは自由なアスディスに惹かれていたのかもしれない。アスディスはそう信じて、自惚れた。
 そして観念したアスディスは、ヨアヒムが差し出した銃を掴んだ。見たところ装填は済んでいるようだった。

「失敗して、すごく痛くても知らないよ」

 アスディスは重い長銃を構えてヨアヒムを寝台に押し倒し、シャツ越しにヨアヒムの心臓を狙った。
 ある程度は使い方も知ってはいたが、実際に人を殺すとなるとちゃんとできる自信はない。

「少しくらい痛くてもいいから、僕は最後も君の笑顔が見たい」

 もうすぐ死ぬ人間は注文が多くて、ヨアヒムは銃口を握って自分の心臓に当てながら微笑んだ。
 アスディスには、ヨアヒムが笑っていても後悔がないようには見えなかった。

(私が来るまで一人で泣いてたくせに、強がって)

 暗く冷たい部屋で一人で声を押し殺して泣いていたヨアヒムを想像すると、アスディスも胸の奥が痛む気がする。
 だがアスディスには、ヨアヒムを殺す以外の道は残されてはいない。

 ヨアヒムにとっては最初からこの恋は殺してもらうためのものであり、アスディスは恋した相手の願いによって殺人者となる。
 その事実を改めて噛み締めれば、自然と口元には諦観した笑みが浮かぶ。

 投げやりなアスディスの微笑みを見て、寝台に倒れてアスディスを見上げるヨアヒムも笑みを深めた。

「ありがとう、アスディス」

 ヨアヒムは最後に、アスディスの茶色の長い髪をそっと撫でて、お礼を言った。

「好きだから、特別だよ」

 銀色の引金に指をかけて、アスディスは生きているヨアヒムを目に焼き付ける。
 アスディスはそのときやっと、自分が売ってきた商品がどういうものかを直視し、銃が放つ一発の重みを知った。

(好きじゃなかったら、こんなことはしない)

 そう心の中で思ったときに、アスディスの指は引金を引いた。

 鉛と銅で出来た弾丸が銃口から放たれ、そのままヨアヒムの心臓を撃ち抜く。

 アスディスは失敗しなかったようで、ヨアヒムは微笑をたたえたまま息絶えた。
 心臓を撃った傷の血しぶきは思ったよりも激しく、ヨアヒムのシャツとアスディスの黒いドレスを派手に汚していた。

(気に入ってたドレスだったけど、まあいいか)

 アスディスは上等な絹のドレスが血に汚れたことを残念に思ったが、まだ他にたくさんの服を持っているので気にしないことにする。

 そっとヨアヒムのまぶたにふれて、アスディスはその虚ろになった目を閉じさせた。大きく開けられた窓からの冷たい外気にさらされていた身体は、死ぬ前から冷えていたようだった。
 その冷たさが気の毒な気がして、アスディスは明かりの消えた夜の寝台の上でヨアヒムの細い身体を抱きしめた。

 一緒に死ぶことができないアスディスは、せめて自分の手を汚してヨアヒムを殺した。
 それが唯一、アスディスが払うことのできた犠牲だった。

 人を殺したことのなかったアスディスに、どれほどの価値があったのかはわからない。けれども、アスディスはたったひとつのものを捨てた。
 アスディスはヨアヒムを手に入れようとした代償として、後戻りのできない道を選んだのだ。

7 星空と白骨

 それからアスディスは、ヨアヒムの薬指をナイフで切って自分の船へと持ち帰った。
 アスディスが乗り込む頃には出港の準備も済んでいて、船はいずれ終わりを迎える街を後にする。

 決定的な破壊と殺戮を見ることなく、アスディスは戦火の迫るハーフェンの街から立ち去った。ハーフェンでアスディスが見ていたのはヨアヒムただ一人であり、その他は何も記憶には残らない。
 ヨアヒムが武器を買わずに残した食料が民を救ったのかどうかは、アスディスにとってはどうでも良いことなのだ。

 だからアスディスはヨアヒム以外の人間の死は気にせずに、富に囲まれた海の上の生活に戻った。

(だって私は、この生き方しか知らないから)

 甲板に設えられた宴席につき、真っ白なレースを重ねたドレスを着たアスディスは頭上に広がる満点の星空を見上げた。

 白い布の敷かれたそのテーブルには、仔羊肉のキャベツ煮や熱いバターをかけたニシン、香草入りのグリーンピースのポタージュなど、アスディスの食べたい献立しか置かれていない。
 それらは地味で素朴なハーフェンの料理とは違う、専属の料理人が丹精を尽くした色鮮やかな品々だ。

 席についているのはアスディス一人であり、向かいに置かれた椅子は空席だった。
 他に甲板にいるのは、料理を運ぶ船員と、隣に立つ侍女のダラだけである。

「このニシンの塩漬けは、買って正解でしたね」

 小皿にとったニシンをクラッカーで挟んで食べながら、ダラはアスディスに話しかけた。
 テーブルの置かれた皿の上のニシンは、刻んだゆで卵やパセリが彩りよく散らされていて華やかだ。

「そりゃ、最高級のニシンなんだから美味しいよ」

 アスディスはいてほしい人間のいない席を見つつ、とろけるように温められたニシンをフォークで口に運び、その塩気のある旨みとまろやかなバターのソースが混ざるのを堪能した。
 骨までやわらかく熟成されたニシンは、最高級品ならではの上品な香りが残る。

 今食べているアスディスの好物のニシンは、金貨を使えばいくらでも買える。
 しかしアスディスがいくら銃や火薬の代金としてもらった金貨を持っていても、一番欲しかったヨアヒムは手に入らない。

(そもそも本来はどれくらい好きだったのか、もうわからなくなっちゃったけど)

 アスディスはやわらかく熱いニシンをワインでのどに流し込み、テーブルの上に置いたヨアヒムの薬指の骨入りの飾り小箱を撫でた。
 それは螺鈿細工で白く輝く海鳥を描いた、黒い漆塗りの艷やかな小箱である。

 殺したことで愛が深まったのは事実でも、アスディスはヨアヒムの命を奪いたくはなかった。
 しかし中途半端に失うよりは、全てが失われた方が美しいのかもしれないと、アスディスはヨアヒムの体の一部を手に収めて思う。

 死にたがりのくせに死を恐れているヨアヒムを撃ち殺すのは、たしかに辛かった。
 だがこれから引き金を引いて人を殺す未来があっても、アスディスが初めて殺した人がヨアヒムである事実は変わらない。

 死んだヨアヒムはアスディスにとっての、永遠になったのだ。

(できればもう、誰も殺したくはない)

 白くやわらかなパンをちぎって、アスディスはニシンの汁と溶けたバターの混ざったところに浸した。

 アスディスが不殺を願うのは、命の重みを知ったからではなく、自分が殺した存在がヨアヒムだけである方が、より特別だからである。

 無数の星が瞬く夜空の明るさが、暗い海と食卓のアスディスをほのかに平等に照らす。

 凝っても飽きても豪華な衣食住が約束された、海の大商人の娘のアスディスの手元には、恋人であったヨアヒムの白くて綺麗な骨がある。
 だがアスディスは猟奇的な趣味を持っているわけではないので、やはり骨ではなく生きているヨアヒムがほしかった。



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