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【短編小説】狼に餌付けされた赤ずきん(前編)

田舎に住む農民の少女ヴィヴィは、穏やかで素朴な生活を送っていた。
しかしある日隣国の軍が攻めてきて、ヴィヴィは避難先の領主の城で籠城戦に巻き込まれてしまう。

敵の兵糧攻めがもたらす飢餓の中でヴィヴィは苦しみ、大勢の人々の無惨な死を目撃する。
だが自分も彼らと同じように死ぬのだと覚悟したそのとき、敵将レオカディオの気まぐれによってヴィヴィは命を救われる。


1 羊番の少女

 冷え切らない風が心地よく、薄く晴れた空の雲を淡く照らす太陽がまぶしい秋の日の午後。
 メリニョン村の南端にある丘では、村で飼育している羊が群れて草を食んでいる。

 村人の子どもであるヴィヴィは、その日もいつもと同じようにその丘の一番上に座って、羊番をしていた。
 朝に羊を放牧し、夕方に牧舎に戻すのは、メリニョン村では子どもたちに任されている日課だった。

(朝からずっと食べてばかりで、よく飽きないよね)

 食べては休んでまた食べることを繰り返す羊の黒く細長い瞳を、ヴィヴィは奇妙な気持ちで眺める。ヴィヴィは今年で十三歳になるが、毎日羊を見てきていても不思議なものは不思議だった。

(羊は可愛いんだけど、じっと見てるとわからなくなる)

 後ろで三編みにした赤色の髪を指で遊びながら、ヴィヴィは羊と自分を比べてみる。
 羊と違って毛むくじゃらではないヴィヴィの肌は日に焼けていて、毛皮の代わりに麻の服を着ている。

 しかし一方では冬に羊毛を着ることになり、羊の肉を食べることもあるヴィヴィは、羊にとって何なのだろうと考えた。
 しばらく悩んでも答えはわからず、ヴィヴィは膝を抱えて眠くなる。

 半分寝たままのヴィヴィの瞳が、羊の群れを映して追う。
 その眠気を覚ましたのは、幼馴染のテオの声だった。

「ヴィヴィ。はぐれ羊も見つかったし、もう帰るぞ」

 遠くから聞こえるテオの呼び声に、ヴィヴィは慌てて目を開けて立ち上がる。
 ヴィヴィが眠くなっていた間に、あたりは徐々に薄暗くなっていた。

「うん。わかった」

 声のした方を振り向けば、ヴィヴィと同じくらい垢抜けない服を着た黒い巻き毛の少年であるテオが、一匹の仔羊を抱えて向こうの丘から歩いてきていた。
 よく群れからはぐれる困った仔羊は、テオの腕の中では大人しくして黙っている。

 夕刻が近づき赤みを帯びた太陽がテオと羊を照らしているのを見て、ヴィヴィは服についた草の欠片や土を払った。

(確かにもう、帰るには良い時間かも)

 ヴィヴィはテオの言うことに納得すると、指笛を吹いて羊に指示を出した。

 するとまず去勢されて従順な先導役の羊が草を食むのをやめ、牧舎の方角にゆっくりと歩き出す。やがてすぐに他の羊も後を追い、羊の集団の移動が始まった。

 羊に歩調を合わせて、ヴィヴィも丘のやわらかな草の上を進む。
 後ろから合流したテオも、抱えていた仔羊を群れの中に戻し、ヴィヴィの隣に来た。

 テオの横顔はいつも土や埃で汚れているものの、鼻筋が通って格好良いとヴィヴィは思っている。
 だからヴィヴィは、その気に入っている横顔を眺めながら尋ねた。

「あの、探すの大変だった?」

 たわいないヴィヴィの質問に、テオはまったく表情を変えずただ一言だけで答えた。

「いや別に」

 テオはヴィヴィと同じ年齢だったが、今はもう声も背丈もすっかり大人っぽくなっている。
 気づけば仕事を済ませてくれているテオの側にいると、ヴィヴィは守られているようで安心した。

 それからヴィヴィとテオは、何も言葉を交わさずに羊を連れて牧舎への道のりを歩いた。
 夕暮れが近づく草原で聞こえるのは、羊の首につけた鈴の音と、時折発される鳴き声だけである。

 テオは無口で、ヴィヴィの方は話すことは嫌いでなくても、毎日話すだけの話題がない。
 だがお互いに黙っていても平気な時間も、幼馴染らしくてヴィヴィは好きだった。

2 大人たちと子供

 牧舎に羊を入れたヴィヴィとテオは、真っ赤な夕焼けに照らされた草原を、お互いの家の方へと戻る。
 途中までは二人とも同じ道を通ることになるが、先に到着するのは牧舎にほど近いヴィヴィの家だった。
 ヴィヴィの家は土壁に藁葺屋根の平屋であるが、村の中ではまだ大きく立派な方である。

「じゃあ、また明日……」

 ヴィヴィは自分の家の前で、何も言わずに立っているテオと別れようとした。
 しかし別れの挨拶を言おうとしたところで立て付けの悪い木製のドアが開き、家の中から赤ら顔のヴィヴィの父親が出てくる。

「ヴィヴィは今、帰ってきたのか」

「うん、父さん」

 ヴィヴィは返事をすると、ドアの向こうをちらりと見た。中では村の男が何人か集まっていて、酒盛りをしているようだった。

 幼馴染の父親を前にして、テオは黙って軽く会釈する。
 もうすでに酔っ払っている様子のヴィヴィの父親は、テオを見るとだみ声で手招きした。

「おいで。お前の父親も、こっちの家に来ている」

 テオとテオの父親がヴィヴィの家に来るのは、めずらしいことではない。

「はい。ありがとうございます」

 礼儀正しくお礼を言って、テオはヴィヴィと一緒に家の中に入った。
 部屋には大きな天板の木の机が置かれていて、その周りを酒飲みの男達が囲んでいた。竈の近くにはヴィヴィの姉と同じ村に住んでいる叔母が座っており、普段より気持ち豪華な豆のスープを煮込んでいる。

「ほら、あんたたちの分だよ」

「温まったところだから、食べなさい」

 女同士の世間話の最中だった姉と叔母は、ヴィヴィとテオを見るとお椀にスープをよそって切り分けたパンと一緒に渡す。
 椅子の数が足りないので、ヴィヴィとテオはむしろを敷いた床に座ってそれを食べた。

 やわらかな頬に硬いパンを含んで、ヴィヴィはちびちびとスープを飲む。

 熱く温められたスープは不味くも美味しくもなく、二人の間に会話はない。
 子供たちが黙っている横で、大人たちは熱心に話し合っていた。

「オルキデアの軍がこのメリニョン村に迫っているっていうのは、本当なのかねぇ」

「ここは他よりは豊かな土地だからな。オルキデアが狙っていても、おかしくはないさ」

「本当に敵が来たら、やはりゲンベルクの城に逃げ込むことになるのかい?」

 大人の男たちの会話に耳を傾けてみると、どうやら彼らは異国との戦争について話し合っているようだった。
 しかし話題は物騒でも、表情が真剣というわけでもない親たちの会話では、本当に危険が近いのかどうか、ヴィヴィにはわからない。

(ゲンベルクの城ってあの、おじいさんの領主がいるところ?)

 敵が来たらゲンベルク城に逃げ込むという言葉が、ヴィヴィの耳に妙に残る。
 ヴィヴィはゲンベルク城に住む老いた領主を、遠くから見たことがある。彼は優しく思いやりのある領主として住民たちには好かれているが、敵と戦って勝つ力があるようには見えなかった。
 だからいざというときのことを考えて、ヴィヴィは少し不安になる。

「テオは、戦争になったらどうする?」

 もうすでにスープの器を空にしているテオに、ヴィヴィは何気なく尋ねた。
 テオはしばらく考えた後に、ぽつりとつぶやいた。

「そんなこと、わからん」

 その答えにヴィヴィは、テオがわからないなら自分が悩んでも無駄だと思い、考えるのをやめる。

 大人たちの酒盛りはにぎやかで、日が落ちても蝋燭に火が灯されて続く。
 だからヴィヴィとテオが何もしなくても、周囲の時間はただ意味もなく過ぎていった。

3 燃える炎

 ヴィヴィは戦争の話は忘れて、日常に戻った。いつもと同じように寝て起きて、テオと一緒に羊を丘に連れて行き、夕方には帰る生活を送る。
 しかし記憶の片隅に追いやっても、実際に起きている戦争が消えるわけではない。
 だからオルキデア帝国の侵略はある日の夜に突然、ヴィヴィの日常を壊して目の前に現れた。

(どうして私は、死んでないんだろう)

 敵の兵士が来て去った家の中で、ヴィヴィは寝台代わりの藁の塊に埋もれて、毛布を被って隠れていた。

 窓から差し込む月の光が影を落とす床には、斬り殺された姉と父親の死体が転がっていて、敷かれたむしろには地が染み込む。
 かまどに置かれていた鍋や、パンや豆が入っていた木箱は荒らされ、食べることができるものはすべて敵に奪われていた。

 ヴィヴィが十三歳になるまで毎日過ごしてきた家は、オルキデア帝国の兵士によって略奪され、武器らしい武器を持たない姉や父親はほとんど抵抗もできずに殺された。
 身体が小さく部屋の隅で隠れていたヴィヴィだけが、敵に見つからず生き残ったのだ。

(逃げた方がいいのかな。それともじっとしていた方がいいのかな)

 何をすればいいのかわからず、ヴィヴィは身動きができずに藁の隙間から姉と父の死体を見ていた。目が半分開いたまままの二人の死体は、見知らぬ人間のようで怖い。

 しばらくそのまま隠れていると、誰かが家の中に入ってくる気配がする。
 また敵の兵士が戻ってきたのかもしれないと、ヴィヴィは目をかたく閉じて身体を強張らせた。
 しかし聞こえてきたのは、よく知っているテオの声だった。

「ヴィヴィは、いないのか」

 テオは二つの死体の前で足を止めて、ヴィヴィを探しているようだった。

「私はここだよ」

 勢いよく藁と毛布をはねのけて、ヴィヴィは立ち上がる。
 藁まみれのヴィヴィを見ると、テオはめずらしくほっとした表情になった。

「どうもないのか」

「父さんと姉さんは死んじゃったけど、私は何もされてないよ」

 テオに無事を確認されて、ヴィヴィは現実感のないまま、妙に早口で答えた。家族の死をまともに受け止めれば、何もできなくなる気がして考えられない。

 表面上は普段どおりに振る舞うヴィヴィを気遣うように、テオは壁に掛けてあった毛皮の上着をヴィヴィの肩に被せた。

「そうか。俺の家族はゲンベルクの城に逃げた。俺たちもそっちへ行こう」

「あの城へ行けば、助かるの」

「わからんが、他に行ける場所はない」

 城へ逃げようと提案するテオを、ヴィヴィはすがるように見つめる。

 寝間着姿のヴィヴィに上着を着せると、テオはヴィヴィの腕を掴んでドアの向こうへ連れ出した。
 テオは自分の選択に自信を持っていないように見えたが、ヴィヴィはテオがいるだけで安心した。

 外に広がる暗い丘陵では、家があったはずのいくつかの場所が炎に包まれている。その赤く燃え盛る炎は、襲撃者である異国の兵士と、彼らから逃げる村人を、黒い影として浮かび上がらせていた。
 ヴィヴィは冷えた夜の空気を深く吸い込んで、目の前で起きている悲劇を見つめようとした。

 しかしテオが黙ってヴィヴィの腕を引っ張って、城の方へと走り出す。

 炎とは違うくすんだ赤の、結っていないヴィヴィの赤髪が背中ではねる。

 異変に気づいた羊が鳴き声を上げている牧舎の前も、親切な老夫婦の住む家が燃えている横も通り過ぎ、ヴィヴィは老いた領主の住むゲンベルク城へと向かった。

4 城壁の内側で

 あたりで一番高い丘に建てられたゲンベルク城は、深い堀と高い城壁に囲まれていて、中に入るには跳ね橋を通る必要があった。
 ヴィヴィとテオが城内に逃げ込んでほどなくして、跳ね橋は上げられ城門は閉ざされる。
 逃げ遅れた人々がどうなったのかを、ヴィヴィはあまり考えたくはなかった。

 城壁の内側には灰色の石を積んで造られた大城塔キープがあって、避難することができたそれほど多くはない人々は、まずは中庭に留め置かれる。

 星も月も明るい空の下、着の身着のままの逃げてきた村人たちは、ある者は黙って地面に座り込み、ある者は興奮して話し続けていた。
 端から端まで歩くには時間がかかりそうな広さの中庭には他に、粗末な鎖帷子を着て弓や剣を持ち、持ち場へと走る城の兵士たちもいる。

 慌ただしくもあり静かでもある城壁の内側で、ヴィヴィは倉庫か何からしい建物の冷たい石の壁にもたれて、膝を抱えて座っていた。

(そのうちちゃんと、中に入れてもらえるんだろうか)

 今夜一晩くらいは秋だから大丈夫でも、毎日外で寝泊まりするのは寒いだろうとヴィヴィは思う。
 考えると怖いことが多すぎるので、ヴィヴィは毛皮の上着を被って寝ようとした。しかしひどく疲れているのに頭は冴えていて、目をつむっても眠れない。

 地面も壁もあるはずなのに、ぐるぐるとどこかに落ちていくように気持ちが悪い。
 ヴィヴィが眠れないならせめてどうでもよいことを考えようとしていると、テオの声が聞こえてきた。

「ヴィヴィ」

 ヴィヴィの名前を呼ぶテオの声は、ぶっきらぼうだけどどこか優しい。
 羊番をしているときにいつも聞いているテオの呼びかけに、ヴィヴィは実はすべてが夢であることを期待した。

 しかし目を開ければそこは見慣れない城の中庭で、テオも普段とは違う心配そうな顔でヴィヴィの顔を覗き込んでいる。

「ほら、水もらってきたぞ」

 テオはどこからか木製の杯に入った水をもらっていて、ヴィヴィに差し出した。

「いろいろ、ありがとう」

 親切な幼馴染の気遣いに、ヴィヴィはお礼を言って杯を受け取った。少しだけ飲んだ水は、よくわからないけれども美味しいはずだと思う。
 そのうちに水を口にしたことで気分が落ち着いたヴィヴィは、ずっとテオが側にいてくれることが悪い気がして、改めて事情を聞いた。

「テオの家は、皆生きてるんでしょ。そっちにいなくてもいいの」

「皆いるからこそ、俺がいなくても困らん」

 そう言って、テオはそっとかたい手のひらでヴィヴィの頭を撫でた。
 家族を殺されたヴィヴィに同情して、テオは優しくしてくれている。テオに触れられて、ヴィヴィは自分がそれほどまでに可哀想に見えているのだと実感した。

 普段のヴィヴィなら、テオに心配をかけたくはなくて平気なふりをしたのかもしれない。だが今のヴィヴィはとても心細かったので、テオの肩に身体を預けてうなずいた。

(テオがいてくれて、本当によかった)

 ヴィヴィは何も言えないほどに、テオの存在に感謝した。気づけば、目には涙が浮かんでいた。
 嗚咽をもらすヴィヴィのか細い身体を、テオは無言で上着ごと抱き寄せる。

 その力強いぬくもりの中で、ヴィヴィは目を閉じた。
 戦争の異様な雰囲気も、心を凍えさせる寒さも遠ざかり、やがてヴィヴィは今度は本当に眠りについた。

5 飢餓と死

 村を略奪し尽くしたオルキデア帝国の軍が次に始めたのは、ゲンベルク城を包囲し兵糧攻めにすることだった。

 オルキデア帝国の攻撃は秋の刈り入れ前に始まったので、城内は食料の備蓄に乏しい。そこに逃げてきた村民も流入したので、ゲンベルク城はすぐに飢えに苦しんだ。
 気の良い領主は身分を問わず、城にいる者すべてに食料を分け与えたので、食料がなくなるのも早かった。

 ほんの数週間で城の食料庫は空になり、人々はネズミや、中庭に生えている草や木の皮を食べて飢えをしのいだ。そんなものは当然人が食べるものではないので、身体の弱い老人や幼い子供から順番に下痢を起こして死んでいった。
 飢餓に耐えきれず、城壁の一番上から飛び降りて死ぬ兵士もいた。

 しかしそれでもなぜかゲンベルク城は降伏せず、オルキデア帝国の軍の包囲に耐えようとしていた。

(きっともう、この城にはネズミも草も何もないのに)

 大城塔キープの大広間の床に力なく横たわり、ヴィヴィは最後に口にした何かわからない草の葉のことを考える。
 石畳の床は冷たくて固く、天井は梁の木の向こうが見えないほどに暗かった。

 どうしようもなくお腹がすいているのに、食べれるものはどこにもなくて、身体が捩れそうなくらいに苦しい。人間は飢えれば死ぬのだということを、ヴィヴィはそのとき身を持って理解していた。
 やせ細った手足は他人のもののように思えて、ヴィヴィはもうすでに自分は半分死んでいるに違いないと思う。

(私たちが羊番をしていた羊たちは、きっと敵に食べられたんだろうな。私もお腹が痛くなる変な肉じゃなくて、最後はちゃんとしたものが食べたかった)

 略奪された家畜の未来を考え、まともな食べ物を夢見ながら、ヴィヴィは虚ろに目を開けていた。
 周囲にはヴィヴィと同じようにやせて棒切れのようになった人々が倒れていて、そのまま息を引き取っている人も少なくはない。

 いずれ自分もその死んだ人間のうちの一人になるのだと、ヴィヴィは完全に自分の人生に見切りをつけていた。
 だがヴィヴィがもう駄目だと思ったときにはいつも、幼馴染のテオの声が聞こえた。

「起きろ、ヴィヴィ」

 その日もまた、まだ生きることを諦めていないテオは、自分もすっかりやせてしまった腕で、ヴィヴィの身体を起こして話しかけた。

「逃げるぞ。城門が破られた」

 ヴィヴィと違って光を宿し続けているテオの黒い瞳が、行動するべき時を告げる。敵には殺されずにすんだ家族が皆飢えで死んでしまっても、テオは悲惨な現実に屈してはいなかった。
 しかしヴィヴィはすぐには立ち上がれず、かすれた声で投げやりな言葉をつぶやいた。

「やっと、負けたの」

 窓が少ない城内は暗く、だんだん物が見えなくなってきている目では、今が夜か昼なのかもわからない。
 だが言われてみれば辺りには、どこかざわついた雰囲気がある。ふらつきながらも立ち上がりどこかへ消えていく人影も見えたので、戦況に変化があったことをヴィヴィは肌で感じた。

「裏切って門を開けたやつがいるんだ。だからもうすぐここも敵が来る」

 テオはヴィヴィを立たせながら、ゲンベルク城が置かれている状況を説明する。
 飢えて死ぬよりは敵に殺された方がましなのかもしれないと、ヴィヴィはテオの話を聞いて思った。
 だからヴィヴィは虚ろな表情で、テオの顔を見つめた。

「じゃあ、私たちも」

「大丈夫だ。きっと助かる」

 テオはヴィヴィの抱える絶望には気づかないふりをして、ヴィヴィの手をかたく握って歩き出した。
 どこにも行きたくはないがテオと離れるのも嫌なので、ヴィヴィは手を引っ張られるままに進む。

 死臭に満ちた大広間にはもう動けない無数の人々が残されていて、ヴィヴィは彼らの視線と意識を背中に感じた。
 しかしそれでもテオは歩みを止めず、廊下を通り過ぎて階段を降り、二人は大城塔キープを抜け出した。

 外は夜になっていて、城壁に囲まれた中庭では、オルキデアの兵士がゲンベルク城の兵士を次々と斬って捨てている。
 またあたりでは、同時に何かが破裂するような、不気味な音が断続的に鳴り響いていた。

(これが戦争なんだ)

 地面に転がっている兵士の死体の血で足を滑らせないように気をつけながら、ヴィヴィはほんのかすかに残っていた淡い期待を手放した。
 幸いなことにすぐ近くに敵の姿はなかったが、悲鳴も歓声も聞こえたし、血の臭いもした。
 周囲で起きている殺戮に目を奪われたまま、ヴィヴィはテオの後を追った。

 やがてヴィヴィとテオは、跳ね橋とは反対側の城壁にたどり着く。敵の進入路から遠いその場所は、人影も少なく静かだった。

「外の敵が移動して、ここから外に、出られるはずなんだ……」

 テオは城壁に設けられた、あまり大きくはない扉を開けた。
 その声が不自然に息切れしていたので、ヴィヴィは不安になった。

「テオ?」

 ヴィヴィは改めて、テオを見た。
 そうしてヴィヴィはやっと、流れ矢か何かが当たったのか、テオの服の肩のあたりが血に染まっていることに気がついた。

「何で、いつの間に……」

 突然のテオの負傷に、ヴィヴィはうろたえた。どれほど深い傷なのかはわからないが、流れている血の量を考えると助かるようには見えない。

 テオは城壁にもたれるようにして倒れ込むと、黒い巻き毛の前髪の奥から立ちすくんでいるヴィヴィを見上げた。

「俺はいいから、早く逃げろ」

 精一杯に平気なふりをして、テオはヴィヴィが行くべき道を顎で指し示しす。

 一人でいたくない臆病なヴィヴィは、ずっとテオの側にいたかった。生きようとしていたテオが死んで、諦めていたヴィヴィが生き残るのは、不条理だとヴィヴィは思う。
 だがヴィヴィは誰かが行く手を決めたなら、自然とそれに従う性分を持ってもいたので、考えるよりも先に返事をしていた。

「うん。わかった」

 ヴィヴィはそう言って頷くと、きっともうすぐ死ぬのであろうテオの辛そうな顔に背を向け、言われたとおりに城壁に設けられた扉の中へと入った。
 永遠の別れになるとわかっていても、誰よりも大切な存在だからこそ、ヴィヴィにはテオの死に向き合う余裕はない。

 前へと進めば、テオと一緒に外の薄明かりが遠ざかる。

 冷たい暗闇の中では自分の動悸が妙にうるさく、足元がふらついて石の壁に触れていないと歩けない。それでもテオに生かされたはずのヴィヴィは、ざらついた床の上を一歩一歩踏み出した。

 灯りのない城壁の中の廊下を進み続けた先には、入ったときと同じように扉があって、壁の外へと繋がっている。
 だが実際にヴィヴィが扉の向こうに出てみると、そこは川から水を引き込んだ深い堀の流れの前だった。

(でも逃げろって、言われたから)

 生きるためでもなく、死ぬためでもなく。
 ヴィヴィはただ進んだ先にあった場所として、真っ暗な水の流れの中に飛び込んだ。

6 差し伸べられた手は

 濁った水に満ちた外堀は思ったよりも深く、また水の流れも速かった。
 季節はもう冬が近く、すぐに死んでしまうほどではなくても、水の中は痛くて冷たい。

 勢いよく飛び込んで沈んだヴィヴィは、水中で水を飲んでむせてもがいた。
 ヴィヴィにはもう生きる理由はそれほどないはずなのに、肺は空気を求めて呼吸をしようとする。
 しかし生きようとする身体がもがけばもがくほど、水面は遠ざかり、土混じりの苦い水を飲み込んで胸が苦しくなる。

(だけどこれ以上はもう、頑張らなくてもいいのなら)

 浮かんでは消えていく泡沫を見て諦め、ヴィヴィは目を閉じて暗い水底に沈もうとした。

 だがヴィヴィが本当に意識を手放してしまう前に、誰かの手がヴィヴィの腕を掴む。
 そして何が起きているのかわからないうちに、ヴィヴィは水から身体を引っ張り上げられ、地面に投げ出された。

 ヴィヴィは身動きできないまま、息をしようとするのも忘れていた。
 何者かわからない人影は、強引にヴィヴィの濡れた身体を起こすと、背中を叩いて水を吐き出させた。
 水を吐いている間は苦しかったけれども、呼吸ができるようになるとだんだん胸が楽になる。

 ヴィヴィの息が整っていくのを見届けると、その人影はヴィヴィから手を放して立ち上がった。

(誰が、どうして私を)

 やっと周囲を見る余裕が出てきたところで、ヴィヴィはおそるおそる目の前の人間を見上げる。自分は恐ろしい敵に捕まったのかもしれないと思うと、見るのが怖かった。

 どうやら男であるらしい人影は、銀糸の刺繍が輝く黒い服を着て、赤色の飾り石のついた見事な細工の剣を携えていた。生まれて今日まで見たことがないその華やかな装いに、ヴィヴィはその男がオルキデア帝国の身分の高い人間であることを理解した。

 自分が敵と対峙しているとわかったヴィヴィは、この場から逃げるべきだと思った。
 しかしその男の顔があまりにも綺麗なので、ヴィヴィはまた息ができなくなりそうになる。

(夜の月みたいに、綺麗な人だ)

 死にかけた直後のぼんやりとした思考の乏しい語彙で、ヴィヴィは男の美しさを喩えた。
 男の背中まで伸ばして束ねた黒髪はしなやかに細く滑らかで、見る者を竦ませる力を持った瞳は、山の端から昇る満月のような金色をしていた。

 優しげな表情を浮かべた顔は白くまばゆく、村の教会に置かれてた神や聖女の偶像の美しさに似た、目鼻立ちが整った完璧な相貌をその男は持っている。
 しかし微笑みに残酷さがにじみ出ていたので、ヴィヴィは男が悪い人間であることをすぐに理解した。

(私はこれから、何をされるんだろう)

 見知らぬ大人に見下されたヴィヴィは、自分の未来を考えて震えた。水に濡れた身体にぼろ布のような服が張り付き、風が冷たくて寒かった。

 ヴィヴィが何も言えずに黙っていると、やがて男が仕方がなさそうに口を開いた。

「せっかく冷たい水の中を頑張って助けてあげたんだから、俺は君のお礼が聞きたいな」

 明るく剽軽ひょうきんな声色で、男はヴィヴィに恩着せがましく話しかける。
 確かに男は、ヴィヴィと同じように水に濡れていた。
 助けてほしいと頼んだ覚えはないものの、ヴィヴィは男が怖いので感謝の言葉を述べようとした。

「……っ」

 しかし飢えて死にそうだった上に、溺れて体力を奪われたヴィヴィは声を出すこともできず、気を抜くと再び意識も遠のいた。

 わずかに残っていた力も失われて、思考の形も保てなくなる。

 ヴィヴィは段々と視界が暗くなる中、男がヴィヴィのやせて軽くなった身体をそっと抱き上げるのを感じた。

「また今度ちゃんと、聞かせてよ」

 そう耳元でささやいた男の声の優しさに、ヴィヴィは安堵と恐怖が入り混じった感情を抱く。
 男はヴィヴィに暴力は振るわないのかもしれない。しかしもっと悪いことをされる予感が、ヴィヴィにはあった。

(私は助かったの? それとも……)

 男の腕に抱かれたヴィヴィは仔羊のように無力で抵抗もできず、どこにも逃げられない存在である。
 疲れ切ったヴィヴィはやがて、意識を完全に失った。

7 天国と地獄とその狭間

 長い眠りの中で、ヴィヴィは夢を見ていた。
 それはオルキデア帝国の攻撃によって永遠に失われた、小麦の刈り入れが終わったことを祝う村の収穫祭の夢である。

 夕闇に赤く音を立てて燃える焚き木を囲んで、大人はエールを飲み、子供は麦の粥をもらう。

 その宴席の目立つところにある立派な椅子には、一番最後に刈り取られた麦束を編んで作った人形が置かれていた。
 王の姿を模した服を着た藁の人形は、しばらくはお守りとして大切に保存され、新しい季節を迎えたときに燃やされる。

(皆が幸せそうな、にぎやかな夜)

 炎から離れたところに座り、ほのかに甘い麦の粥を飲みながら、ヴィヴィは疲れて一息をつく。
 酒を飲む男たちの中には父親がいて、若い男女の集まりには姉もいる。
 そしてヴィヴィの隣には、いつもと同じようにテオがいた。

(だけどこれは、夢だから)

 夢だとわかっている夢の中で、ヴィヴィは泣きたい気持ちになる。
 ヴィヴィはテオの名前を呼んで、ぶっきらぼうだけれども真面目なあの眼差しで、こちらを見てほしかった。
 しかし何か言ったら夢から覚めてしまいそうな気がして、ヴィヴィは口をつぐむ。

 言葉を交わさなくても、顔が見えなくても、ヴィヴィは少しでも長くテオの側にいたかった。
 だがヴィヴィが見る夢の中のテオは、すべてが夢だとは知らないので、そっとヴィヴィの名前を呼んでくれた。

「ヴィヴィ」

 きっと現実ではもう聞くことはないテオの声が、ヴィヴィの耳に心地よく響く。

 そのときヴィヴィは眠りから覚めて、目を開けて初めて見る格子梁の天井を見上げていた。

(ここはどこだろう)

 ヴィヴィは自分のいる場所がわからなかった。だが自分が藁よりも上等な素材でできた寝台に横たわり、肌触りのなめらかな寝具に包まれていることは理解した。
 寝台の温かくやわらかな寝心地に、眠気を覚ますことができないヴィヴィは、瞬きをして再び目を閉じる。

 記憶のない間に食事も与えられていたのか、お腹もすいてはいなかった。
 もしかしたら自分は、天国にいるのかもしれないと期待する。
 しかしほど近くでおそらく天使ではない誰かが会話をしていることに気づき、ヴィヴィは慌てて考えを改めた。

「慰み者にするには、この娘は幼すぎやしませんか」

「別にそういうのじゃないんだ、サムエル」

 サムエルという名前らしい少年の質問に、相手の男が砕けた調子で返事をする。答えているのはおそらく、あのヴィヴィを水堀から引き上げたオルキデア帝国の男である。
 男はヴィヴィが目を覚ましたことに気づかず、少年の質問に堂々と悪びれずに答えていた。

「俺はこう見えて慈悲深いから、小さくてか弱くて、可哀想なものが好きなんだよ」

 ヴィヴィは寝たふりをして耳を澄まし、男と少年の会話を聞く。
 男の言っていることの意味は、ヴィヴィにはなかなか飲み込めなかった。

 しかし少年には男の言葉がよくわかるようで、随分可笑しそうに笑っていた。

「彼女を可哀想な存在にしたのは、貴方ですよ。すべてを奪っておいて、生かして可愛がるなんて、貴方は本当に悪趣味ですね」

 笑いながらも少年は、男の異常な自分勝手さを指摘する。
 だが人格を疑われていても、男は妙に誇らしげにしていた。

「怯えさせるのが一番上手い人間が勝つのが、戦争だろ」

 男はおおらかな朗らかさで、冷酷な言葉を言い放つ。
 その支配者らしい言動に、ヴィヴィは自分は本当に恐ろしい敵に捕らわれているのだと実感した。

 地獄と言うには寝具は暖かく、天国と言うには人の心が怖い。ヴィヴィの新しい居場所は、そういうところであるようだった。



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