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後から強くなれる。


レゴシリアスプレイというレゴを使いながら、頭の中にある想いを可視化するワークショップがある。

初めて参加した2年ほど前。配られるブロックはみんな同じもの。それぞれ平等に同じ数、同じ種類のレゴブロックがあって、同じテーマを与えられて同じ制限時間で作る。

それなのに、出来上がるものが全く違う(たまーーににた発想なのがあるのもそれはそれで面白い)。

それぞれ別の人間なので考えていることが違うなんて当たり前なのに、それを改めて目の前に出されて、こういうアプローチは楽しいなと感じた。

きちんと綺麗な形を作るひと。
大きく面を使うひと、そんなところにくっつけることができたのか!と新しい組み合わせをまたせてくれるひと。

そうやって人の作品を見ているうちに気づいたことがある。

私の作品って全部手のひらサイズだ。

ちまっとしているというよりも、とりあえず土台の部分が手に収まるようなかたちで、そこから横に伸びたり縦に伸びたりしている。

何回かテーマを変えてもそこは一緒。

このことについて振り返ると、やはり私は自分の人生を自分でコントロールしたいことに気づく。(人のことは正直どうでも良いけども)

新しく拾ったパーツを足すのは楽しいと思えるのだけれど、そのパーツをつけるのは自分でなければ嫌。その嫌だ!の気持ちは「いやだ!」とひっくり返って自我を出す2歳児くらいのレベル。

とはいえ、わたしは30代半ばまで「決めてもらう」ような生き方をしていた。だから何でもこれだ!と決められる知人の姿が羨ましかったし、そういう決める力は才能のように備わっているか否かだと思っていた。

本当は自分も自分で決めたいと思っていることになんとなく気づいたのは5年ほど前で、そして2年ほど前のレゴシリアスプレイのワークショップで「他人からの価値観の押し付けが嫌だと思う気持ちがある」というのを改めて「見つけた」。まだまだ第二次自我の芽生えの途中の人間。

モラハラを受け続け、自分の価値は全く見出せなかったところから、変わりたいと思って、たとえどんな小さな選択のときも「私という人間は何を良しとするのか」を自分に聞いてきた。分かったことは「決める」は才能ではなくスキル。あとから力をつけることができる。

でも「決めたい」の種が育つには、自分の意見を言える安心できる環境、それから自分が決めたことに対する責任を負うだけの気力と体力も必要で。

こどもたちの学習指導要領にある「生きる力」を育む土台づくりは、大人になってもケアし続ける必要がある。崩れない土台にするためには、作って終わりではない。

定期的に自分の想いと向き合い、必要なら1番近くにいる自分が自分の心を守る。

今からでも遅くない、少しずつ強くなれる。

そんなことを大雨が降る中、つらつらと考えた夜でした。

ここまでお読みいただきありがとうございました🐅

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