『生』配信になぜ人は時間を費やすのか
人は皆「生」が好き?
我々人間という生き物はなんでも「生」と付いたものに、魅力を感じるのかもしれない。「生」配信や「生」放送、「生」ビールから現「ナマ」、さらにはイケない「生」まで、魅了されている人間はこの世にごまんといる。
そこで今回、そのなかでもYouTubeやtwitchなどの動画配信サイトの「ライブ」配信になぜ人々が数万人も見てしまうのか考えたい。
ファスト〇〇や倍速でコンテンツを消費する現代人
そもそも、昨今のエンタメにおけるブームは「時短」である。「ファスト映画」を皮切りに、youtubeやアニメでの倍速視聴、さらに短時間のtiktokなども流行っており、その傾向は顕著である。
ではなぜ、そんなに生き急いでいる現代人が編集もない、終わる時間も決まっていない、中だるみのオンパレードのような配信者のライブ配信を見てしまうのか。
なぜ生配信に人が集まるのか?
実際、私もライブ配信を見ないわけではない、しかし最近見なくなってきたり、アーカイブを倍速で見たほうが時短であったり、後から見返すと別に興味を惹かれるものではなかったりすることがあるのだ。企画でもなければ、何かラジオのような言葉巧みな話術があるわけでもない、しかし、人々はそのようなライブ配信にすら集まってしまう。そんな配信の魅力は、「生」配信であるという一点のみ。
それは言い換えれば「ライブ感」とも言える。
「ライブ感」の魔力
「ライブ」には不思議な力がある。かくいう私もアーティストのライブによく行くほうであり、今やサブスクで簡単に聞ける音楽を、わざわざお金を払って見に行っている。中には心に残るライブもあり、ライブでの体験がエピソードとなって曲に厚みが増すことでより好きになったり、対してライブが酷すぎて聴かなくなったアーティストもいる。ライブ全体が素晴らしいバンドや、曲単体で「ライブ映え」するものもある。あれは、体験を買っているといえる。これは、昨今の「モノ消費」から「コト消費」の転換で説明できるであろう。
しかし、生配信はどうであろうか。一人孤独な部屋で、画面を見つめながら、自分以外の誰かの行動をおもむろに見ている。配信が終われば何もしていない自分が部屋に取り残されるだけであって、時間だけが過ぎている。これはコト消費といえるのか?私は言えないと思う。ではなぜそのようなコンテンツに人々は惹かれるのであろうか。
それこそ「ライブ感の魔力」である。
「同じ時間を共有している」
これは、アーティストのライブにもいえるであろう。画面やイヤフォン・ヘッドフォンの向こうの人々が、今目の前で、同じ時間を共有し、演奏してくれている。そして周りの人々も、それを見て盛り上がっている。それは楽しいに決まっている。
これを生配信に言い換えると、暇を持て余す私の時間を、共有してくれる配信者がいて、一緒に盛り上がってくれるコメントや、TwitterのTLなどで疑似的な集団的雰囲気、孤独感を薄れさせてくれる。「自分は一人ではない」という錯覚が心を温めてくれる。
実際には画面と自分一人であるのに。
「終わる時間が分からない永遠にも感じる時の流れ」
これまたアーティストのライブに話を移しても、大体2時間くらいが相場であり、映画やテレビ、YouTubeなども動画は時間が決まっている。3時間の映画が長いといわれる程にはシビアである。
しかし生配信はどうだろう。もちろん時間を決めて行っている配信者は居るが、長時間配信を主軸としている人の場合、終わりが決まっていないこともあるだろう、耐久配信なんて最たるものである。時間に厳しく、倍速視聴などで生き急いでいる人々が、なぜそのようなデメリットしかないものに惹かれるのか。
しかしそんなデメリットすら、生配信者は魅力に変えてしまう。
大学生などの比較的時間に余裕がある人々は、これ以上ないほど時間を持て余している。実際は有限であり、その体力なども今だけであるにもかかわらず、有限であるはずのモラトリアムをまるで無限のように感じ、気力を削がれている。度重なるタスクに追われ、忙しくしている時には、「あれやりたい」「これやりたい」と感じるのに、それが過ぎ去ると結局何もしないアレである。
この記事も例外では無い。やらなきゃいけないタスクを目の前にして、ふと浮かんだものを勢いでタスクと同等の2300字を1時間で書いている。うんうん唸りながら何時間もかけて未だ全く進んでいないタスクを優先し、このネタ案をメモに残して暇な時にやろうと思ってもこのような勢いでは書けないだろう、いや、書かない。そんなものである。
そのような「まるで悠久のような時の流れの人々」と、上にあげた「終わる時間が分からないことによる永遠にも感じる時の流れ」は、格別に相性が良いのである。
コロナ禍によるおうち時間の増加により、時間を持て余した人々の行先になったのも大きいであろう。多くの人々の生活に多大な爪痕や被害をもたらしたものも、かの業界にとっては格好の成長要素だったのだ。
おわりに
なにぶん、私も楽しんでいる人たちのことを邪魔がしたいわけではない。各々の時間の使い方は自由であるし、何について楽しいと思うかも人それぞれである。「生配信を見るのが楽しい」とも思うのも結構であるし、そのような刹那的な快楽に溺れることも至って人間らしく、素晴らしいことであり、私は好きである。しかし、人生の過渡期や岐路に立ち、時間が有限であると気づいたとき、「目を向け、思いを馳せるのはその画面であったのか」というシンプルな疑問に端を発した、まるで自省のような文章であることにご留意いただきたい。
この記事を読んだ皆さんが素敵な趣味ライフを送れることを切に願って。
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