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七月の静寂

引っ越し作業を始めて広くなりだしたワンルームで、コンテナに本やCDを詰め込んでいた。
元の広さを取り戻しつつある部屋の隙間から後から後から湧いて出てくる
「もっと上手く出来たかもな」
と思うことが後ろ髪を引き続けるが、刈りたての坊主頭はただでさえ薄くなり始めているから、引かれるような毛はほとんど残っていない。


一杯になったコンテナを車に押し込んだタイミングで、肌に雨がポツポツと当たり始めたので、少し休憩を取る事にした。
部屋に戻ると、玄関に少し隙間を開ける為にドアロックを立てて、殆ど効かないエアコンを一度止めて、グラスに氷とアイスコーヒーを注いでから、電子タバコを取ってからベランダへ出た。
マンションの四階なら、七月の始めの風はまだ少し涼しいと感じられるものだ。


ぼんやりと眺める階下には、今年も田園が風にそよいでいる。
紫陽花はまだ、咲いているだろうか?それとも、もう立ちながら枯れているだろうか?
荷物を新居に移す道にでも、まだ咲いているといいな、ふとそんな考えが、紫煙の切れ間に浮かぶ。
それにしても、隣の県で銃声が鳴り響いた今年の夏は、蝉も何だか大人しくて、目の前に広がる田園と、隣接する国道沿いの並木、それぞれのさざめきが聞き分けられそうなほど静かだ。
あの街から来たあいつも、この景色が好きだった。もうそれも、終わった話だ。そう、終わった話の筈なのだが、きっと俺以外には。


部屋が片付く度に生活の痕から醸し出て俺に纏わりつく、終わった話、過去の記憶、思い出、ありとあらゆる俺を取り残して片が付いた事は、なんとなく喉を滑り落ちるタバコの煙やコーヒーと同じくらい苦さが目立つ。
「もっと上手くやっていれば」
と思う。
その一方で
「本当にそれで、何か変わったのか?」
とも思う。
この五年、それなりに出来ることや新しい体験もしたが、失敗や破綻もそれなりにあった。何かが始まって、終わった。上がって、下がった。生まれて、死んだ。出会って、去った。俺だけが他人事のように留まり続けている気がして仕方がない。
誰かの肩を抱いたり、掌同士を繋げあったり、心臓の裏を触れた手も、今は自分ごとの為だけに使役されている。その手は今、所在なくスマホの液晶をなぞっている。
ニュースを見ると、銃声の詳細と、それに付随する議論が巻き上がっている。
俺には撃った男と撃たれた男、それぞれの正義が噛み合わなかった結果にしか思えなかった。
そこには凍えるような虚無感があった。
ただただ、それぞれの正義の為に執り行われた、消えない穢れだけが残ったことが、虚しかった。
綺麗事だけでは何も改善しないどころか飯も食えない事実、世界中で暴力が先鋭化しているのか、それとも俺らが疲弊して鈍くなったり臆して野放しにしているせいか、どちらなのかは解らないが、ニュースだけじゃない、俺らの生活、人と人との間、その隙間にあるインターネット、絶えず見聞に耐えない醜さがそこらじゅうにある。
銃もない、黄色人種だけの国で黒人の猿真似かよという嘲笑がヒップホップに浴びせられるこの国には、暴力も差別も貧しさもドラッグも売春も孤独も、程度の差はあれど世界中にあるのと同じ問題が、きっと俺たちが生まれる前から全てある。
手製の粗末なショットガン、それですら別に身近にない訳では無かった道具で、少し前まで国のトップだった人間が撃たれた事で、もう他人事ではなくなった。
誰かがその気になればやれるし、やられるのだ。新局面が来たのだ、それは俺たちの前進か後退かは、まだ少し解らないが。
強さだとか、正義だとか、無敵だとか、言葉の概念が変わった気がするのは、時代のせいだろうか。少なくとも、俺が教えられたそれらに在るはずの尊さとは、かけ離れたものばかり見ている気がずっとしていた。



どうしても身の回りに起こっている問題、形骸化した道徳、武器のような形に教条化した正義、その中で貧困、孤独、焦燥、挫折、放蕩、不和、不貞、依存、有りとあらゆるフラストレーションの発露が自分も他人も卑しめ傷つける俺と俺の周りの人たち、どうしても気持ちだけでは何ともならず、発露した感情は俺のものも他人のものも如何ともし難いくらい生々しく粗暴に感じられ、それが切っ掛けでスニーカーの加水分解みたいに劣化して絆が離れたり柵みが出来たりを繰り返して、文字通り自分のことで手が一杯一杯の日々の中、老いを感じ始めた体と心が俺に気付きを齎した。
本当は言いたいことが腐るほどある。
俺には俺の正義があって、それを振るいたい気持ちだって当然あるし、俺だって銃があれば捨て台詞を残して去っていった奴らや上等な口を聞いてくる奴らの頭を片っ端からブチ抜いてやりたい衝動に駆られる時はしょっちゅうある。それはみんながそうで、是正の応酬こそが衝突なのだ。どれだけ正当でも、それではあまり意味があるとは思えなくなった。
正しさや良く在る事を求めても上手くやれず、やさぐれたり自意識の中に蹲るそのやりきれなさは、俺が一番よく知っている。その結果、自意識の重力に囚われて、破滅的に生きたり、ただ死んでいないだけに感じられて仕方ない日々を送ったりする。
説教臭いことは言いたくないんだけど、これだけは書いておきたい。
俺が自暴自棄だった時、叱ってくれたり泣いてくれたお前が、今はあの時の俺と同じ、いや、今でも囚われているであろう苦しみの中にいる事が、俺はとても悲しいし、自分の無力を感じるよ。
だから、俺は正しさより、善さを追い求める事にした。
それは、一つでも何か良いものを遺す事だ。
肉体も精神も代謝され続ける消耗品なのだから、補い、労わる必要がある。
感情の機微に呼応し、抑えつけず、かといって野放しにせず、何かしら昇華させる必要がある。
絶え難い自分の衝動をなんとかする為、再び紙とペン、大体はワープロを執るようになって、それからも得る物より失うものが多過ぎた四年が過ぎようとする夏に、ようやく俺の衝動が熟れ、人に見せられるくらいには受肉し始めた。



紫陽花を見たいとで思い出したが、そろそろ今年の分を咲き誇って立ったまま枯れていく彼らを、ドライフラワーと言って笑い話にする奴らが出てくる。
身内にもいるが、その時の気分次第でそれは大らかにもガサツにも聞こえる。
俺たちが生きているのはそういう世界で、俺は誰かの身勝手、理不尽、悪意、そう言うものに吹かれて、絶えず弱々しく揺れる自分にも怒りを燃やして生きている。
その一方で、誰かの言葉、思いやり、馬鹿話、リリックや物語のおかげで救われて生きている。
言葉も気持ちも金も力も全て必要な、一人で何かをしなければいけない一方で、独りでは生きていけないそんな世界。であれば、金を稼ぐにしても、前を向いて生きるにしても、もう少し誰かに思いを馳せて生きるしか、善を築く事は出来ないだろう。
誰かに救われたなら、俺もそうするのが道義だとずっと思っていたから、そろそろ始める時だ。
だから、俺は仕事と生き方の両方を擦り合わせて、何かもう少しマシなものを積み上げようとしている。
今後もきっと、同じような苦しみはついて回るだろうし、喰うに困る事だって今以上に増えるだろう。
同じことも繰り返すかもしれないし、また誰かとぶつかって、離れる事だってあるだろう。
次に倒れたら、もう立ち上がれないかもしれない。
だから何だ?俺は俺の持ち得る可能性を全部使い切るんだ。
死ぬためじゃないぜ、俺は生き切るんだよ。
俺は変わったんじゃない、改めたんだ。
人が変われるなんて、初めから思っちゃいない。
ただ、自己と外界に作用する言動って奴と、それを受容する感情って奴の舵取りを、もう少し慎重にやるようにしただけだ。
当分の間、俺の思想、哲学、感情、意思表示、全ては紙の上で物語として発露させる。
未来なんて都合良くは来ない。過去も変えられない。その中間に絶えず存在する、結果論と期待論という高低差のある世界にしか生きられない。
そして、俺たちは過去の上にしか立って歩けない。
であれば、いつまでも抱き締めている訳にもいかないし、無視するのも違うだろう。
だから俺は、この部屋を去る。
必要な物は全て持っているし、別にどこかへ消えるわけじゃない。



これから出会う奴、去って行った奴、そして今一緒にいる奴らに、もう少し言っておく。
もし、何もかもが解らなくなった時、見えなくなった時、聞こえなくなった時。
オオヤケアキヒロっていう、後ろ向きな夢想家の書いた小説に、耳を傾けてみな。
きっとお前が立つべき所に立ち帰るくらいの役には立てるはずだ。
俺は結構、綺麗事って奴を大事にしてるぜ。
友達と喰う飯、仕事の合間の煙草、隙間を埋めるの音楽やゲーム、孤独を忘れるためのセックスくらいには、少なくとも、な。
なあ、それこそカッコつけずに聞かせてくれよ、無しじゃ生きていけねえだろ?
そんなものだけは、まだ幾らか持っている。
知れてる名前だが、必要ならいつでも、俺の名を呼んでくれ。



ふと、目の前が明るくなった。
俄雨が止んで、雲の切れ目から光が差し込んだ。その隙に、荷物を新居に移す事にした。
車に乗って、細い道を抜けると、交差点で紫陽花が揺れていた。
目の前の歩道を過ぎ行く人々を見れば、パパとママの間で子供が二人の手をしっかり握っている。
数人の若者が談笑しながら自転車を漕いでいる。
暑さにうんざりしたスーツ姿の男女もいる。動いている風景を見た時、俺の心は何だか軽くなった。


曲がり角を曲がって国道に出る道で、俺は彼らを追い越した。

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