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ある板前の死より~⑧店主の見た地獄(幻覚妄想③)~

【店主の見た地獄(幻覚妄想③)】

 どれくらい時間が経っただろうか?1分、5分?いや、1時間か?

 突然、店主の眼前にニュッと、堀ごたつに逃げていたマダムが顔を出した。呆然としていた店主は、逃げていたマダムが、反撃に出て来たのか?と一瞬身構えたが、マダムは何か言っているようだった。不思議なことに、周囲の音は拾えるのに、マダムの声だけ拾えないでいた。口だけが何故かパクパク動いている。不思議な感じだった。

 そんな店主の表情を見てか、マダムは大きな声に切り替えて、「お釣りください!」と言った。そこから、声は店主の耳に入ったようで、声の大きさに驚いた店主が、柳刃9寸を畳に落とした。だが、それは落とすと同時に、金属製のキャッシュトレイと1万円札に変わった。

 「は…はい、只今」と、小さな声で応じると、トレイと万札を拾い、店主は釣を用意した。怪訝そうな顔のマダムに釣を渡すと、何か一言二言、言われたようだが、やはり耳自体が、マダムたちの声を受け入れていなかった。声だけが聞こえなかった。三人のマダムたちは無事、店を後にした。

 もう既に店主には、現実と妄想との区別がつかなくなりつつあった。幸い、マダムたちがランチの最後の客だったので、一息つけると店主は思った。

 あまりに酷い白昼夢に、店主は自らが汗だくになっていることに気付いた。いつも板場に入る前に使う手洗い場で、店主は顔を洗う。正面の鏡が偽りなき自分の顔を映す。が、それは酷い顔だった。病人いや、死人でさえ、もう少しマシな顔をしているかもしれない。僅か数ヶ月前の、あの自信に満ち溢れた顔は、思い起こすことも出来なかった。

 そして、その瞬間。「グニャリ」と鏡の中の、自分の顔が歪んだ。それはまるで、ムンクの叫びのように、あり得ない形に変形した。左目は口元辺りまでつり下がり眼球は半ば飛び出ている。顎は右の頬の位置まで伸びた。自然、左口角は左下に大きく垂れ下がった。鼻に至っては、鼻腔は豚のように捲れ、鼻筋がいびつなS字を形成していた。

 「おおぉぉー、うぉぉーぐうぉー」と激しく店主は絶叫するが、鏡の中は変わらない。店主はパニックに陥り、勝手口から飛び出そうとしたが、勝手口の扉を開けたそこには、同じくグニャリと渦を巻いた様な異世界が広がった。

 店主は絶えきれずに、その場で気絶するように倒れ込むと、そのまま意識を失った…

 店主の状態は、不眠とストレスの蓄積、長い未治療による影響の為か、既にうつの領域を越えて、急性の精神病状態になったと言えた。

 そう、店主の精神は、既に限界に到達していたのだった…

今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。m(_ _)m

この作品は、食べログコメントを元に、一部実話で作られていますが、ストーリーはフィクションです。