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ある板前の死より~⑨自死へ(認知の歪み)~

 自死の理由というのは、本人が思い詰めている程、周りは深刻に考えないような事柄であることが多い。

 だから、何故そんな理由で?となるのだが、それは本人だけがわかることであり、本人の価値観なのかもしれないが、意外にそれは時代の価値観でしかなかったり、科学(又は医療)の発達で解決できる問題であったりする。

 以上をベースに、今回(自死へ)のお話は、今(現在)を基準に考えないで、12年前の時代背景で読んでいただきたい。当然、DNA検査などは、まだ市民のものではない時代である。

【自死へ(認知の歪み)】

 あれ程の大声を出したのに、ご近所が警察や救急に通報することはなかったようだ。郊外の店舗である。

 どれくらい倒れていたのだろうか?中学生たちの下校の声が遠くに聞こえた。もう夕刻の雰囲気が周囲に滲んでいる。

 テロテロテロン♪
 テロテロテロン♪

 店舗の固定電話がcallし始めた。

 疲労仕切った身体をゆっくり起き上がらせて、カウンター端のレジ近くにある電話に向かう。グニャリの視界は元に戻っている。

 「はい…割烹…」

 「一体何してたのあなた?携帯は繋がらないし!どうして長い間、隠してたの?あの子から聞いたけど、あなたね…」

 義母のカン高い声が、受話器の向こうからヤンヤヤンヤと聞こえた。どうやら、妻と義母が連絡を取り合えたようで、おおよその経緯を聞いた義母からのクレームだった。もちろん、義母は妻側の弁護に立つ。

 もう何を言っているのかわからないし、店主に聞く力も残ってはいないが、連絡があったことに、店主は一瞬だけ、安堵の思いが広がった。

 しかし、義母は勢いに任せて、余計なことまで口走ってしまう。

 「来年から保育園なのに、あなたで大丈夫なの?こんなんじゃ、あの人(板前)なら良かったのにって思うわよ!本当に誰の子だと思ってんの!しっかりしてくださいね」

 普段ならライバルを立てた叱咤激励の類いだろうが、今の店主には、冗談にさえならない。が、義母は妻の居なくなった店主の孤独・後悔・苦しみ、そして店の売り上げの落ち込みからくる不安と焦りが、精神の限界に到達したことを知らない。

 「あいつ、帰って来るって言ってました?」

 「知らないわよ。自分で聞きなさい!」ブツッ!

 もちろん、聞けようはずはない。電話は当然繋がりはしないからだ。何度かけても、何度かけても…

 いよいよ夕方の開店の時間になろうとしていたが、ホールバイトの男の子は、休みを取っていたので、今日の夜の営業は一人の予定だった。仕込みが出来ていないことと、妻に対して何が悪かったのか?という思いが、グルグルと頭の中を回り出したことで、もう仕込みはおろか、開店作業も難しいだろう。

 この負の思考サイクルには何度も陥っていたが、何とか今日まで、乗り切って来た。しかし、今日のは大きかった。もう、暖簾もあげる気にはなれない。

 店主は真っ暗な店内で、虚脱したように、真ん中のカウンター席に座っている。そして、店主はさっきの義母との会話から、一つのワードを見つけてしまう。

それは、

「誰の子だと思ってんの…」

という一言。

「俺の子じゃないか!」
「俺の子じゃないのか?」

 どうしてそういう思考(認知)になるのかわからないが?精神的に追い詰められると、人は物事を正確に判断出来なくなる。いびつに解釈する傾向があるのだ。しかも、悪い方向に…

 うつの状態によっては、何気ないあなたの一言が、相手に思わぬ致命傷を与える場合もあるのだ…


今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この作品は、食べログコメントを元に、一部実話で作られていますが、ストーリーはフィクションです。