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なんとなくテレビを見ながら:「記憶」「戦争」「ナショナリズム」


このあいだ、なんとなくテレビを見ながら思ったことを書きます

大学院を修了し、学生の身分がなくなって4カ月が経ちました。昨年度末からはインドやバングラデシュに行っていたため、あまり区切りや修了した感を味合わずに時が過ぎてしまっている感覚もあります。

毎日もう無理かもなと思いながら論文を書いていた時間も、もはやすごく前のことのようです。大学院では「ナショナリズム」を理論的なテーマに据えて執筆しました。バングラデシュのナショナリズムの現在地を問い、何がそうさせているのかということを理論適用して書きました。

もうあの時間はいつのことだったかと思うほどなのですが、やっぱり一応研究の端くれみたいなことをしていたんだなと思ったことがあったので、垂れ流すようにシェアしたいと思います。

G7サミットin 広島中継で感じた「捉えどころのない感動」


やや時間が経ってしまいましたが、先日G7で各国首脳が原爆資料館を訪問するかという中継をチラ見しました。広島で、G7にて初の献花が行われたとのこと。

それをみていると、どこかじわっとこみ上げる感動を自覚しました。確かに各国首脳が献花をして佇んでいる姿は、感情的に高ぶらせる何かがあります。亡くなった祖先、その先に生きている私たち。日本人であることに対する意識的な感覚。そういったものが根底にうごめいているような感じがしました。良い悪いということではなく、そういった気持ちを自覚しました。

加えて個人的には、そういえば中学生の時にここに行ったなあとじわじわ思い出しました。あの時ほんと何もわからないままあの場所へ行っていました。私にとっては、移動で新幹線やフェリーに乗れるワクワクの方が頭の中のほとんどを占めていたなということも恥ずかしながら思い出しました。

原爆資料館は言わずもがな世界的に貴重だし、時代と空間を超えて伝えるべき内容を持っています。一方で、それでもなお、そこは「犠牲者としての日本人」の戦争の歴史を語っている場所です。

これが、グローバルな記憶構成体に組み込まれる時、不協和音を起こすこと、または相手にとっては不協和音に聞こえていることはやっぱりあるだろうと思います。

これは韓国の林志弦が提唱した「犠牲者意識ナショナリズム」そのものであると思います。

犠牲者意識ナショナリズムと戦争の記憶


犠牲者意識ナショナリズムは、国家のために殉教した存在が民主化され、国民化することで強い民族的な結束が生まれることとざっくり定義されます。

もっと正確にいえば、「犠牲となった前世代の経験と地位を次世代が世襲し、それによって現在の自分たちの民族主義に道徳的正当性と政治的アリバイを持たせる記憶政治の理念的形態」です(林 2022、p.365)。

逆に再度噛み砕けば、兵士や英雄以外の普通の人々の死も全て殉教として扱い、人々の死が民族のために捧げた犠牲だというロジックが作られ、今、生きている我々(民族)は彼らの犠牲があってこそ存在しているのだ、という意識です。

そのため、各民族がそれぞれ犠牲者としての立場を主張します。しかし、実際ほとんどは犠牲者でありながら、同時に加害者でもあることが多く、そこには、アンダーソンがいうように「特有の記憶喪失」がおこります。

民族の記憶が作り直される際(民族の歴史は忘れているとされ、再び思い起こされる)、その物語はより民族の結束を高める形に変化していく。だから、皆がそれぞれ自分を犠牲者だと主張し合うことになるのです。すると、それを各民族の中で語っている時にはいいけれど、それが一旦グローバルな中でぶつかり合うと、矛盾と主張の違いが顕在化してきます。

例えば、私が東南アジアに同じような資料館があって訪れるとしたら、きっとそこには他民族の視点の戦争の記憶が入り混じるはずです。そこでは、日本の加害に目を向けざるを得なくなります。日本の一般的な戦争の語りでは見なくてもよかった世界に直面し、矛盾に出会うことになります。

犠牲者意識としての戦争の語り自体が悪いとは思いません。それもまた主観的な戦争や記憶を伝える大事なものであると思います。

犠牲者の記憶とどう向き合うか

大事なのは、そこに向き合う意識の変化だと思います。各民族の語りが主張しあうだけではこれからも和音は生まれません。主観的な民族の記憶がそこに存在していること、自らもまた自民族の記憶の中に生きているという冷静さを持つことが大事なのではないでしょうか。(献花をみてじわっとくるのには、きっと私もまた犠牲者意識ナショナリズムが作ってきた歴史に馴染んでいるからだろう。)

でも一方で、そこで苦しみを感じ、犠牲になった人々には私と同じように家族や友人がいて、痛みを感じながら亡くなった同じ人間の存在であることを想像することも、それ以上に大事だと思います。それが他者と自分を認め、過去を乗り超えた連帯を作り出す一つの方法だと、現時点では思っています。

林が語る「犠牲者意識ナショナリズムを犠牲にする」とは、こういうことなのではないか、という個人的な解釈です。

そして、これはジュマ・ネットの活動にも結構ヒントを与えてくれる考え方なんじゃないかと思っています。


なんとなくセンシティブで、賛否両論もありそうで、感動の雰囲気に水を差すようかもしれないなと思ってなかなか書けなかったのですが、これが自身のアップデートのベースラインになることを期待して書き残しておきます。

人によってはちょっと偏っているように見えるかもしれませんが、ご容赦くださればいいなと思います。私は左利きでして、どうしても左に寄っていく性があるのかもしれません。(こういう余計な一言が良くないのかもしれません笑)

参考文献

林志弦(2022)『犠牲者意識ナショナリズム 国境を超える「記憶」の戦争』 澤田克己訳、東洋経済新報社 [Lim, Jie Hyun (2021), 희생자의식 민족주의 (Victimhood Nationalis m),Seoul: Humanist Publishing Group]。

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