ファウンデーションコースで出会ったわたしを支えるもの
イギリス時代の思い出話の続き。時系列にとらわれず思いつくままに書くことにした。楽しかった語学学校を終え夏休みは日本に一時帰国。9月には次なる目的地、大学付属のファウンデーションコースに向かった。ウェールズのAberystwyth(アベリストウィス・ウェールズ語なので舌をかみそうになる)大学にあるファウンデーションコースに入学した。これはイギリスの大学が3年生で基礎課程がないので同等の教育制度でない国から大学入学を希望する留学生が入らなくてはならない準備コースだ。
ほとんどの留学生は高校卒業後に入学するが英語ができなかったわたしは語学学校を経て1年後に入学した。語学学校の細やかな指導のおかげで英語スキルは伸び今思えば一番うぬぼれていたのがこの時期だ。まわりの学生の英語レベルが低く感じ授業にあまり身が入らなかった。母数の多い国出身の学生は母語で話していたりと士気も下がった。また2年目だからかホームシックなのかわからない何かが胸につかえて落ち込みがちな日々を送った。アベリストウィス大学は海辺の街の小高い丘の上に位置しており海を見下ろす景色が美しかった。しかしそんな絶景を堪能する余裕がないほど若く敏感な心は常に傷つき恐れ、時に過ちをおかしぐるぐるしていた。すでに遠い彼方へおいてきてしまったあの瑞々しいくすぐったい感情は今もどこかにあるのだろうか。
この1年間でわたしが得たものは3つある。1つ目は今の夫に出会ったこと。同じコースメイトとして顔を合わせた彼は語学留学として来ていたのだが、小さい大学ゆえファウンデーションコースと一緒の授業になっておりレベル別にわけられたクラスですべて同じ上位クラスに入れられた。メンバーはほぼ固定されていてドイツ人、中国人、韓国人の女の子、ポーランド人の女性、私と彼。中国、韓国の友人は同じ国から来たグループがあり、ドイツ人の友人はともに留学している他学部の彼氏、ポーランド人の女性は夫と子どもとイギリスに移住してきたため、特に所属しているグループがなかった私たちは仲良くなるのが自然だったとのちに夫が語っていた。そんなことはちっとも考えていなかった。何故ならばわたしは当時うまくいっていなかった遠距離恋愛の渦中にありほかは何も考えられなくなっていたから。
自然消滅的した失恋と彼と付き合い始めたのはどっちが先だったのか。まだ出会って1か月ほどの10月の終わりだった。もちろん簡単に次の人と心を入れ替えられるわけもなく、ただ1人で過ごすにはあまりにも辛く孤独だった。そしてあまりにも若く傲慢だったわたしは彼をたくさん傷つけてしまいそれにまた傷ついた。こんなんではもちろん勉強どころではなく授業は時々ずる休みした。それでもついていけるような緩いコース内容にもやる気をそがれた。常にどちらかの寮に泊まり1人で過ごす時間はほとんどなくなっていた。満たされ守られていたけれど、自分の核となる何かが必要だった。それが2つめの出会い。ボランティアだった。
イギリスはボランティアが盛んな国で、大学のボランティアサークルに入り興味の持てるものに単発で参加した。イギリス人の大学生とは英語で気おくれし共通の話題も見つからずコミュニケーションが難しかったが、ボランティアを通じて知り合った人々は問題なかった。小学生の絵画教室に参加したり、学校に行ってないティーンエイジャー達の演劇レッスンに参加したり。ハンディキャップのある子ども達へのアート関連のイベントなど多様で詳細を忘れてしまうほどだ。イギリスの子ども達は不思議と排他的でなく特に珍しがるわけでもなく不良なティーンエイジャーも含め対等に話しかけてくれた。またボランティアサークルの合宿ではどのようにセルフエスティームをあげるかのゲームをしたりとフラットに自分と向き合うすべを学ぶ。授業以上にこれからの生き方の指針になる何かを得た。ボランティアはまさにわたしを救ってくれたのだった。
3つめはCritical thinkingに出会ったこと。ロジックとは何か、論理的とは何か、クリティカルになるとは何かを丁寧にわかりやすく教えてくれた。プレミス(前提)が間違っていても論理が正しい場合、またプレミスが正しくても論理が間違ってる場合があるということ。論理には正確さ以外の指標があると気づかせてくれた。スペインにも住んでいたことがある背が高く柔術が得意でショートカットなイギリス人の先生はこう述べた。
イギリスでもかなりリベラルな思想の持主であったと思う。この言葉はコロンブスの卵のようにわたしの中にあった学びとは何かという前提を覆した。最近ブリュッセルの補習校で知り合った息子の友人のお父さんはイギリス出身で大学で教えているのだが「日本人はクリティカルシンキングができない生徒が多いんだ」とぼやいていたのを思い出す。あれが20歳でなければわたしの中にこんなに響かなかったかもしれない。この学びは後の大学での学びの支えになり、わたしの思考の一部になった。夫にもイギリス人のように考えるねとよく言われる。わたしは何人なのか。。
夫との関係は当時から想像もつかないくらい落ち着くと同時にいまだに学生然が抜けないことに驚くこともある。いつかこの街を家族で訪れたらふいにすべてを思い出して泣いてしまうかもれない。それは決して悲しい涙ではなく。