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美月

「私が世界で一番好きな花は藤の花なのよ。」

隣に座る美月が全く予兆もなく言葉を発した。

私はつい360度周りを見回してしまった。目視できるのは、電車の進路方向に沿って流れていくビルやマンションだった。

「どうしたの突然。何を見て藤の花に辿り着いたの」
私は口ごもりながらたどたどしく聞き返す。
「うん、最近何も感じないなあ。空を見ても、空だ。としか思わなくなって。その先がなくなったのよ。」向かいの窓から見える外を眺めているようで、決してそうではない様子で、美月がぽつりと言った。
 通路を挟んで向かい合わせに座る車内は、平日の夕方にしては少なく、数人の乗客のみである。真向かいに座るのは、手押し車を持ち込んだ腰の曲がったおばあさん。手押し車を持っているご老人を見かけることは時々あったけど、漠然と杖代わりなのかなと思っていた。よく見てみると、どうも収納機能もあることに今更気がついた。なるほど、収納スペースの中に買い物した物を入れているのねえ。と美月の言葉の意味を頭の片隅に気にしつつも、手押し車の新たな機能を発見したことに意識のほとんどは気を奪われていた。
「子供の頃はさ、あまりにも綺麗な夕焼けとかみるとさ、心の底から幸せだなあ。なんて世界は美しいんだろうか。あまりにも愛しくて、うわあ、全部抱きしめたいなあ。この両手でオゾン層も含めてまん丸な地球にぺたーってほっぺたもひっつけて抱きしめてあげたいって本気で思っていたのよ。それ以外何も望まないって思ってたのよ。ウケるでしょ。」美月は鼻で笑うようにして言葉を発した。
「だいぶ変わった子だね。私はそんなこと考えたこともないよ。」気でも振れたのか、それとも正気なのかわからないが、とりあえずは思ったことを返した。
「毎日毎日さ、遅刻しないように出勤してさ、ミスしないように神経を注いで仕事をやっつけてさ、休憩室で全く興味のない他人の悪口とか人の子育ての話とか社内恋愛相関図とか聞いてさ。適当に合いの手入れたり、誰も喋らないときは気まずいからどうでもいい芸能人の話振ったりしてさ。」
「うん、分かるよ。美月、気使える人だから。」話してる途中から美月の口調が強くなってくるのがわかった。
これと言った大きな出来事があったわけではないのだろう。社会生活を送る中で、一番のストレス要因は人との関係である。会社の中の所属する小さなコミュニティの中で求められることは、与えられた仕事を要求に沿って求められているであろうクオリティまで予測しながら仕上げること。期限を守るためには、自己犠牲も当たり前だ。世間では、定時退社を推進する動きが強いが、正直、「じゃあ、クオリティ下げてもいいんですか」と言いたくなる。それはたぶんどこの業界も似たりよったりだろう。
「仕事から帰る頃には、頭がぼーっとして、人にどう見られてもいいやとか思えてくる。極限まで疲れると、人のことなんて本当どうでもいいやって思えるの。」自分の様子を思い出しているのか、少し笑いながら話す。私は続きを待つ。
「その日あったことを思い出して、あーめんどくさい。あーめんどくさいと一人でぶつぶつ言いながら駅までの道を遠くを見ながら歩くの。正確には遠くのアスファルトをね。全く周りは見ないようにしてるのかな。さすがに駅辺りは人が多くなるからなんも言わないけどね。」時々自虐的に笑う。
「そんなこんなで家についてからはお風呂入るのも面倒くさいけど無理やりミッションと思ってすぐに入るの。ビールでお腹膨れるでしょ、そして寝る。気づいたら、あっという間に5年過ぎてた。」
「悲しいくらい分かる」私は返す。
「最近気づいたよ。なんも感じなくなった自分に。ネットフリックスのドラマも、面白いのかもと思って見始めるけど、途中ですぐ消すし、ご飯とか一番どうでもいいやって感じ。あんまり味も美味しく思わなくなってるし。」
「大丈夫かい」私は返す。
「大丈夫じゃないでしょう。人間の3大欲求ほぼないもん。やばいよね。」悲しそうに笑った。
 向かいのおばあさんがごそごそと動き始めたため、駅が近づいていることが分かる。美月も次の駅で降りるはずだ。
窓の外に視線を移すとビルの隙間が橙色から藍色に変化していた。
「そういやあさ、今日金曜日だよね。」思い出したように美月が言った。
「そうだよう。明日は休みだよう。」私は軽く返した。
二人の視線がガッチリと合った。
次に二人はいたずらを仕掛ける前の子供みたいにニンマリと顔を作った。
「夏の夜は長いよう。遊ぼうよみっちゃん」私はおねだりしてみる。
「いいねいいねえ。なんだか急に元気湧いてきたわよ。おかしいわねえ。焼き鳥食べたいなあ。ビールも飲みたいなあ。レバ刺しもササミの柚子胡椒のせも食べたいよう。うわあ、不思議と生きる気が湧いてきた。」美月の瞳に輝きがみえてきた。
「食べたいものないってあなたさっき言ってたよう。でも、やっぱ美味しいもの食べて、飲んで、くだらない話しましょう。それが一番元気が出るよ。」私は美月の肩に手を置いて茶化した。
「ここで降りますか。うちの近所に新しい焼き鳥屋できてさ。気になってるの。そして、その後、例のバーに行ってさ。寛ごうよ。うちに泊まりなよ。寂しいから。」最後の言葉は目を反らしながら美月は言った。これが本心なんだろうと思った。
 駅のホームに電車が滑りこんだ。プシューとドアの開く音がして私達は立ち上がる。
向かいのおばあさんもゆっくりと手押し車を支えに立ち上がる。ホームと電車の間をまたいで後ろを振り向くと、美月がおばあさんを気にして待ってあげている。ホームとの間をまたぐとき、手押し車を持ち上げて身体を支えてあげていた。
「ありがとう。優しいね、お嬢さん。若いときは本当に宝物よ。羨ましいわ。楽しんでね。」
おばあさんは別れ際に、私達に言ってくれた。
私達は、うふふと笑いあった。
「人助けした気がする。なんだかいいことした気がするよ。」美月は軽い足取りで朗らかな表情で語る。
「私、夏のこの時間帯の空、世界で一番好きかも。」
ビルの合間から見える空を見上げながら美月が呟く。
「幸せ感じてるんじゃない」質問してみた。
華奢なからだに沿ったブラウスを腕まくりしながらこちらを振り向いた。
「だね。生きれるわ」
とはっきり言った。


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