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紫式部に近づきたい 平安時代の葵祭と賀茂斎院

 今年(2023)は、久しぶりに葵祭が開催されるというので、くらしき古典部のメンバーと新幹線に乗って見物に行くことにしました。10人以上集まると京都御苑の観覧席の団体申し込みができるというので、席を確保。楽しみだなあ。ウキウキ気分で古典作品に描かれた葵祭のことを、いろいろ紹介したいと思います。

葵祭は賀茂祭

賀茂祭草紙(模本) 東京国立博物館蔵 ColBase

賀茂祭は、参加する人が葵を身につけるので、葵祭ともいいます。その起源は奈良時代ですが、平安時代に入ると、内親王の中から選ばれた賀茂斎院が祭に奉仕しました。平安時代の文学作品にも、賀茂祭の行列を見物する場面が描かれています。

紫式部や清少納言の時代の斎院は、村上天皇の皇女、選子内親王です。円融天皇から後一条天皇までの五代、50年余りの長きにわたって斎院をつとめたので、大斎院と呼ばれていました。その後、後鳥羽天皇の皇女礼子内親王を最後に、斎院はいなくなりましたが、賀茂祭は続きます。

しかし、応仁の乱(1467年)により中断、江戸時代の元禄七年(1694)に再興、明治維新で中断、明治一七年(1684)に再興、第二次世界大戦により行列が中断(1943年~)、昭和二八年(1953)に復活、昭和三一年(1956)からは斎王代が行列に加わります。最近では、令和二~四年(2020~22)にコロナにより行列が中止、今年(2023)復活と、なんども中断しては復活して、現代まで続いています。祭見物ができるって幸せ。

葵祭「どんな祭?」|【京都市公式】京都観光Navi (kyoto.travel)

祭!!!

平安時代は、といえば賀茂祭のこと。祭の前の浮き立つ気分が伝わってくる、『堤中納言物語*』の「ほどほどの懸想」を読んでみましょう。
*堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり)=平安後期の短編物語集。

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 賀茂祭のころは、すべてが目新しくあか抜けて見えるのだろうか、下々の人が住む小さな家の半蔀はじとみも、葵などをさして、気分がよさそうである。
 成人前の少女たちは、あこめや袴も清々しく、いろいろな物忌札を付けて着飾って、ほかの人に負けまいと互いに張り合っているようすで行ったり来たりするのは、だれの目にもおもしろいが、ましてや同じ年頃の小舎人や随身たちが、とくに気に掛けるのは至極当然のことである。
 それぞれに相手をきめて、軽く声をかけるのも、なかなか思いどおりにはいかないだろうよと、それらの様子をながめているうち‥‥、どこのお邸につとめているのだろうか、薄紫色の着物に、髪はふくらはぎまでの長さ、髪の格好も容姿も、すべてがとても美しい少女を、頭中将にお仕えする小舎人童が、すごくかわいいと思って、たくさん実がついた梅の枝に、葵を付けて手渡して、
 梅が枝に深くぞたのむおしなべてかざす葵のねも見てしがな
のなる梅の枝にこの恋が実るよう深く頼みをかけているよ。皆がかざしているのように、逢ふ日にあって共寝したいな)
と言うと、
 しめのなかの葵にかかるゆふかづらくれどねながきものと知らなむ
(この逢ふ日に、かざしたに物忌のしるしの木綿蔓がからみつくけれど、木綿の糸を繰るように、あなたが来るとしても、ふたりが共寝をするまでには長い時間が必要だとわかっていただきたいわ)
と突き放した返事をするのも洒落ている。「ああ、聞きたくない」といって、走り寄って笏で軽くたたいたので、「そうよ、その木でできた笏の、嘆き(なげ木)の森のはがゆいこと」など、ちょうどお似合いのふたりなので、お互いに気に入ったように見える。その後、いつも逢いに行っては語り合った。

 祭のころは、なべて今めかしう見ゆるにやあらむ、あやしき小家の半蔀も、葵などかざして、心地よげなり。
 童べの、衵、袴清げにて、さまざまの物忌ども付け、化粧して、われも劣らじと挑みたるけしきどもにて、行きちがふはをかしく見ゆるを、ましてそのきはの小舎人、随身などは、ことに思ひとがむるも、ことわりなり。
 とりどり思ひ分けつつ、物言ひたはぶるるも、何ばかり、はかばかしきことならじかしと、あまた見ゆる中に、いづくのにかあらむ、薄色着たる、髪はぎばかりある、かしらつき、やうだい、なにも、いとをかしげなるを、頭中将の御小舎人童、思ふさまなりとて、いみじくなりたる梅の枝に、葵をかざして取らすとて、
  梅が枝に深くぞたのむおしなべてかざす葵のねも見てしがな
と言へば、
  しめのなかの葵にかかるゆふかづらくれどねながきものと知らなむ
と、おし放ちていらふも、されたり。「あな聞きにくや」とて、笏して走り打ちたれば、「そよ、そのなげきの森の、もどかしければぞかし」など、ほどほどにつけては、かたみに、いたしなど思ふべかめり。その後、常に行き逢ひつつも語らふ。

『堤中納言物語』ほどほどの懸想  原文は、小学館「新編古典文学全集」による。

というと、現代の人は幼い子どもを連想しますが、当時の童は、現代でいうティーンエイジャー、つまり13~19歳ぐらいの少年少女です。それにしてはずいぶんいきなやりとりをしていますね。当時の賀茂祭は神事、その行列に参加するので、潔斎のために物忌札を付けているのですが、ナンパしてもいいのだろうか。

そういえば、葵祭から話がそれますが、『堤中納言物語』の掲出部分が入試問題集に採られていて、授業で解説をしたことがあります。授業が終わった後、真剣な表情で質問にきた男子がいました。「女の子は断ったのに、どうして二人はつきあうんですか?」うーん。みなさんなら、どのように答えますか?

このふたり、言葉のキャッチボール(比喩)がとても上手にできていると思うんですよ。

賀茂斎院の行列

平安時代の賀茂祭に際して、斎院がお出かけになるのは三回、祭の前に賀茂川の河原でみそぎをする御禊ごけい、祭の当日に賀茂神社の下社と上社に参拝、祭の翌日に前夜泊まった上社の神館から紫野にある斎院に還立かへりだち(祭のかへさ)。三回とも、多くのお供を連れたはなやかな行列を見物しようと、身分を問わず、おおぜいの老若男女が集まりました。

物語では、『源氏物語』葵巻の車争いの場面がよく知られていますが、これは御禊の時の出来事です。

雲林院のあたり

『枕草子』には、清少納言が祭のかへさの行列を雲林院のあたりで待っていたときのことが、書かれています。

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 祭のかへさはとてもおもしろい。
 昨日の祭当日はあらゆることが美しく整然としていて、広くて清々すがすがしい感じがする一条大路で、日の光が暑く、牛車に差し込んでいるのもまぶしいので、扇で顔を隠し、座りなおして長い間待つのも苦しく、汗まみれになったが、今日はとても早くに出てきて、雲林院、知足院などの前にとめている牛車などの、葵や桂の飾りが風になびいて見える。いつもは日は昇ったけれど、空はまだ曇っているのに、なんとかして声を聞きたいと目を覚まし、起き出して待っているほととぎすが、ここではたくさんいて、鳴き声を響かせているのはとてもすばらしいと思っていると、鶯が老声で、ほととぎすに似せようと勇んで鳴いているのは憎らしいけれど、またおもしろい。

 はやく来ないかと待っていると、御社みやしろのほうから赤い狩衣を着た検非違使の火長かちょうたちが連れ立って来るので、「どうなの、もういらっしゃるの」と言うと、「まだまだ」などと返事をし、御輿みこしなどを持って帰る。昨日の祭ではそれにお乗りになっていたのもすばらしく、気高いご様子で、どうしてあのような身分の低い者たちがおそばにお仕えしているのかと思うと畏れ多い気がする。
 まだ先のように言っていたけれど、斎院はまもなくかえっていらっしゃった。お供の女官たちの扇をはじめ青朽葉色の着物がおもしろく思えるが、蔵人所の人々が青色の袍に白い下襲の裾をすこしだけ帯にかけているのは、卯の花の垣根のように思えて、ほととぎすも陰にかくれてしまいそうにおもえますよ。

 昨日の祭では一台の牛車に大勢乗って、二藍ふたあいほうと同じ色の指貫を着て、あるいは狩衣などをだらしなく着て牛車の簾を取り外し、ハメを外していた若者たちが、斎院の饗応のご相伴をするので、きちんと正装をして今日はひとりずつおとなしく牛車に乗っている後ろに、かわいらしい殿上童を乗せているのもおもしろい。

 祭のかへさいとをかし。
 昨日はよろづのことうるはしくて、一条の大路のひろうきよげなるに、日の影も暑く、車にさし入りたるもまばゆければ、扇して隠し居直り久しく待つも苦しく、汗などもあえしを、今日はいととく急ぎいでて、雲林院、知足院などのもとに立てる車ども、葵、桂どももうちなびきて見ゆる。日はいでたれども空はなほうち曇りたるに、いみじういかで聞かむと目をさまし、起きゐて待たるるほととぎすの、あまたさへあるにやと鳴き響かすはいみじうめでたしと思ふに、鶯の老いたる声して、かれに似せむとををしううち添へたるこそにくけれどまたをかしけれ。

 いつしかと待つに、御社の方より赤衣うち着たる者どもなどの連れ立ちて来るを、「いかにぞ。ことなりぬや」と言へば、「まだ無期むご」などいらへ、御輿など持て帰る。かれに奉りておはしますらむもめでたく、け高く、いかでさる下衆げすなどの近くさぶらふにかとぞおそろしき。
 はるかげに言ひつれどほどなくかへらせ給ふ。扇よりはじめ青朽葉どものいとをかしう見ゆるに、所の衆の青色に白襲をけしきばかり引きかけたるは、卯の花の垣根近うおぼえて、ほととぎすも陰に隠れぬべくぞ見ゆるかし。

 昨日は車一つにあまた乗りて、二藍の同じ指貫、あるは狩衣など乱れて簾解きおろし、ものぐるほしきまで見えし君達の、斎院の垣下ゑんがにとて、日の装束うるはしうして、今日は一人づつさうざうしく乗りたるしりに、をかしげなる殿上童乗せたるもをかし。

 『枕草子』見物は 原文は、小学館「新編古典文学全集」による。

祭の当日

現代語訳で太字にした部分は、祭の当日の様子です。祭の当日は、一条大路で待っていると日が差してとても暑い、そして、見物に来た若い君達が一台の牛車におおぜいで乗って(たぶん酒なども飲んでいて)、着物も乱れてグタグタになっていたようです。でも、清少納言はこんな君達たちに、目くじらを立てているわけではありません。だって、この文章の前にはこのようにあります。

「行幸はすばらしいけれど、君達が牛車にいい感じでぎゅうぎゅう詰めに乗って、道を北や南に走らせることがないのが残念。そのような車が、周りの車を押しのけて、とまるのはドキドキするの」(行幸はめでたきものの、君達車などのこのましう乗りこぼれて、かみしも走らせなどするがなきぞくちをしき。さやうなる車のおし分けて立ちなどするこそ心ときめきはすれ

祭のかへさ

また清少納言は、鳥の中では鶯よりもほととぎすが好きと『枕草子』のあちこちに書き残しています。昔の風流人は、だれよりもはやく初音はつね、シーズン最初の鳴き声、を聞こうと早起きをし、耳を澄ましていました。そのようすは和歌にも好んで詠まれています。雲林院や斎院の御所がある紫野は当時の内裏(現在の二条城のあたり)から離れた郊外にあるので、ほととぎすがたくさんいたのでしょう。鶯の老声おいごえというのもあまりな言い方ですが、鶯は春告げ鳥、初音から3ヶ月以上経っているので、声が老けているのでしょうか。鶯の老声も和歌に詠まれています。

ほととぎすの声を聞きながら、斎院の帰りを待つ。あれ、もしかして清少納言は、連日の祭見物でしょうか?

源氏物語ゆかりの地説明板 平安京跡外(部分)に加筆

京都市情報局>源氏物語ゆかりの地説明板

2023葵祭ツアー!

昔と現在では、内裏の場所も変わっていますが、今回は、京都御苑の観覧席で行列を見物し、そのあと旧雲林院のあたりをぶらぶら、大徳寺で昼食というプランです。今宮神社に歴代斎院が祀られているというので、足をのばすかも。その時は、おやつにあぶり餅♡

檪谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)

さいいん【斎院】
 京都の上賀茂かみがも下鴨しもがも社(賀茂かもわけいかずち 神社・賀茂かも御祖みおや 神社)に奉仕した皇女また女王のこと。正しくは賀茂かも大神おおかみの斎王いつきのみこという。斎院とは斎王の居所からきた名。山城国(京都府)愛宕郡紫野(京都市北区)にその居所のあったことから紫野院とも称した。(中略)天皇即位ののち未婚の内親王のうちより卜定ぼくじょう 、もし内親王のいない場合は、女王のうちより卜定し、宮城内の便宜のところ(雅楽寮や宮内省など)を、うらないにより初斎院を定めて、禊祓みそぎはらえ をすませたのちに、そこに入らしめ、3年間の潔斎生活ののちさらに吉日を選んで河水に臨んで禊祓をしたあと、紫野の斎院に入らせた。それより4月の賀茂祭に奉仕した。
 古くは、祭り前のうまの日またはひつじの日に賀茂斎院の禊の儀が行われ、祭り当日は勅使以下とともに賀茂社に参向した。

出典 日本大百科全書(ニッポニカ)


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