紫式部に近づきたい 平安時代の葵祭と賀茂斎院
葵祭は賀茂祭
賀茂祭は、参加する人が葵を身につけるので、葵祭ともいいます。その起源は奈良時代ですが、平安時代に入ると、内親王の中から選ばれた賀茂斎院が祭に奉仕しました。平安時代の文学作品にも、賀茂祭の行列を見物する場面が描かれています。
紫式部や清少納言の時代の斎院は、村上天皇の皇女、選子内親王です。円融天皇から後一条天皇までの五代、50年余りの長きにわたって斎院をつとめたので、大斎院と呼ばれていました。その後、後鳥羽天皇の皇女礼子内親王を最後に、斎院はいなくなりましたが、賀茂祭は続きます。
しかし、応仁の乱(1467年)により中断、江戸時代の元禄七年(1694)に再興、明治維新で中断、明治一七年(1684)に再興、第二次世界大戦により行列が中断(1943年~)、昭和二八年(1953)に復活、昭和三一年(1956)からは斎王代が行列に加わります。最近では、令和二~四年(2020~22)にコロナにより行列が中止、今年(2023)復活と、なんども中断しては復活して、現代まで続いています。祭見物ができるって幸せ。
葵祭「どんな祭?」|【京都市公式】京都観光Navi (kyoto.travel)
祭!!!
平安時代は、祭といえば賀茂祭のこと。祭の前の浮き立つ気分が伝わってくる、『堤中納言物語*』の「ほどほどの懸想」を読んでみましょう。
*堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり)=平安後期の短編物語集。
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賀茂祭のころは、すべてが目新しくあか抜けて見えるのだろうか、下々の人が住む小さな家の半蔀も、葵などをさして、気分がよさそうである。
成人前の少女たちは、衵や袴も清々しく、いろいろな物忌札を付けて着飾って、ほかの人に負けまいと互いに張り合っているようすで行ったり来たりするのは、だれの目にもおもしろいが、ましてや同じ年頃の小舎人や随身たちが、とくに気に掛けるのは至極当然のことである。
それぞれに相手をきめて、軽く声をかけるのも、なかなか思いどおりにはいかないだろうよと、それらの様子をながめているうち‥‥、どこのお邸につとめているのだろうか、薄紫色の着物に、髪はふくらはぎまでの長さ、髪の格好も容姿も、すべてがとても美しい少女を、頭中将にお仕えする小舎人童が、すごくかわいいと思って、たくさん実がついた梅の枝に、葵を付けて手渡して、
梅が枝に深くぞたのむおしなべてかざす葵のねも見てしがな
(実のなる梅の枝にこの恋が実るよう深く頼みをかけているよ。皆がかざしている葵のように、逢ふ日にあって共寝したいな)
と言うと、
しめのなかの葵にかかるゆふかづらくれどねながきものと知らなむ
(この逢ふ日に、かざした葵に物忌のしるしの木綿蔓がからみつくけれど、木綿の糸を繰るように、あなたが来るとしても、ふたりが共寝をするまでには長い時間が必要だとわかっていただきたいわ)
と突き放した返事をするのも洒落ている。「ああ、聞きたくない」といって、走り寄って笏で軽くたたいたので、「そうよ、その木でできた笏の、嘆き(なげ木)の森のはがゆいこと」など、ちょうどお似合いのふたりなので、お互いに気に入ったように見える。その後、いつも逢いに行っては語り合った。
童というと、現代の人は幼い子どもを連想しますが、当時の童は、現代でいうティーンエイジャー、つまり13~19歳ぐらいの少年少女です。それにしてはずいぶん粋なやりとりをしていますね。当時の賀茂祭は神事、その行列に参加するので、潔斎のために物忌札を付けているのですが、ナンパしてもいいのだろうか。
そういえば、葵祭から話がそれますが、『堤中納言物語』の掲出部分が入試問題集に採られていて、授業で解説をしたことがあります。授業が終わった後、真剣な表情で質問にきた男子がいました。「女の子は断ったのに、どうして二人はつきあうんですか?」うーん。みなさんなら、どのように答えますか?
このふたり、言葉のキャッチボール(比喩)がとても上手にできていると思うんですよ。
賀茂斎院の行列
平安時代の賀茂祭に際して、斎院がお出かけになるのは三回、祭の前に賀茂川の河原でみそぎをする御禊、祭の当日に賀茂神社の下社と上社に参拝、祭の翌日に前夜泊まった上社の神館から紫野にある斎院に還立(祭のかへさ)。三回とも、多くのお供を連れたはなやかな行列を見物しようと、身分を問わず、おおぜいの老若男女が集まりました。
物語では、『源氏物語』葵巻の車争いの場面がよく知られていますが、これは御禊の時の出来事です。
雲林院のあたり
『枕草子』には、清少納言が祭のかへさの行列を雲林院のあたりで待っていたときのことが、書かれています。
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祭のかへさはとてもおもしろい。
昨日の祭当日はあらゆることが美しく整然としていて、広くて清々しい感じがする一条大路で、日の光が暑く、牛車に差し込んでいるのもまぶしいので、扇で顔を隠し、座りなおして長い間待つのも苦しく、汗まみれになったが、今日はとても早くに出てきて、雲林院、知足院などの前にとめている牛車などの、葵や桂の飾りが風になびいて見える。いつもは日は昇ったけれど、空はまだ曇っているのに、なんとかして声を聞きたいと目を覚まし、起き出して待っているほととぎすが、ここではたくさんいて、鳴き声を響かせているのはとてもすばらしいと思っていると、鶯が老声で、ほととぎすに似せようと勇んで鳴いているのは小憎らしいけれど、またおもしろい。
はやく来ないかと待っていると、御社のほうから赤い狩衣を着た検非違使の火長たちが連れ立って来るので、「どうなの、もういらっしゃるの」と言うと、「まだまだ」などと返事をし、御輿などを持って帰る。昨日の祭ではそれにお乗りになっていたのもすばらしく、気高いご様子で、どうしてあのような身分の低い者たちがおそばにお仕えしているのかと思うと畏れ多い気がする。
まだ先のように言っていたけれど、斎院はまもなくかえっていらっしゃった。お供の女官たちの扇をはじめ青朽葉色の着物がおもしろく思えるが、蔵人所の人々が青色の袍に白い下襲の裾をすこしだけ帯にかけているのは、卯の花の垣根のように思えて、ほととぎすも陰にかくれてしまいそうにおもえますよ。
昨日の祭では一台の牛車に大勢乗って、二藍の袍と同じ色の指貫を着て、あるいは狩衣などをだらしなく着て牛車の簾を取り外し、ハメを外していた若者たちが、斎院の饗応のご相伴をするので、きちんと正装をして今日はひとりずつおとなしく牛車に乗っている後ろに、かわいらしい殿上童を乗せているのもおもしろい。
祭の当日
現代語訳で太字にした部分は、祭の当日の様子です。祭の当日は、一条大路で待っていると日が差してとても暑い、そして、見物に来た若い君達が一台の牛車におおぜいで乗って(たぶん酒なども飲んでいて)、着物も乱れてグタグタになっていたようです。でも、清少納言はこんな君達たちに、目くじらを立てているわけではありません。だって、この文章の前にはこのようにあります。
「行幸はすばらしいけれど、君達が牛車にいい感じでぎゅうぎゅう詰めに乗って、道を北や南に走らせることがないのが残念。そのような車が、周りの車を押しのけて、とまるのはドキドキするの」(行幸はめでたきものの、君達車などのこのましう乗りこぼれて、かみしも走らせなどするがなきぞくちをしき。さやうなる車のおし分けて立ちなどするこそ心ときめきはすれ)
祭のかへさ
また清少納言は、鳥の中では鶯よりもほととぎすが好きと『枕草子』のあちこちに書き残しています。昔の風流人は、だれよりもはやく初音、シーズン最初の鳴き声、を聞こうと早起きをし、耳を澄ましていました。そのようすは和歌にも好んで詠まれています。雲林院や斎院の御所がある紫野は当時の内裏(現在の二条城のあたり)から離れた郊外にあるので、ほととぎすがたくさんいたのでしょう。鶯の老声というのもあまりな言い方ですが、鶯は春告げ鳥、初音から3ヶ月以上経っているので、声が老けているのでしょうか。鶯の老声も和歌に詠まれています。
ほととぎすの声を聞きながら、斎院の帰りを待つ。あれ、もしかして清少納言は、連日の祭見物でしょうか?
京都市情報局>源氏物語ゆかりの地説明板
2023葵祭ツアー!
昔と現在では、内裏の場所も変わっていますが、今回は、京都御苑の観覧席で行列を見物し、そのあと旧雲林院のあたりをぶらぶら、大徳寺で昼食というプランです。今宮神社に歴代斎院が祀られているというので、足をのばすかも。その時は、おやつにあぶり餅♡
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