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「青き憤怒 赤き慈悲」


 柔い背に刺棒を挿れる度、りゅうの華奢な身体は悶え、施術台を微かに揺らす。
 額の汗を拭い、俺は慎重に輪郭線を彫る。
 もう後戻りはできない。
 深呼吸。顔料の鈍い香りで気を静めると、十年来の教えが脳裏に蘇る。

じん、邪念は敵だ。心が絵に表れる」

 師匠は姿を消し、人の背を切り刻む悪鬼へ堕ちた。
 発端は、俺の背が青く染まった日。

 一週間前。幾年も耐え忍び待ち望んだ独立の記念に、俺は自作の下絵を彫るよう願った。青き憤怒尊、不動明王。師匠の十八番を。
 心は絵に表れるという。俺は不動明王に羂索を持たせず、驕りと怒気を込めた。では師匠の心が俺に刻んだものは──。
 何も告げず師匠は去り、やがて発生した相次ぐ猟奇殺人。師匠が容疑者であると知り、俺は自らの過ちを悟った。
 青い背が、嗤うように疼いた。

 先刻。開業したての店を、見知った顔の少年が訪れた。孫煩悩な師匠から、写真と自慢話を幾度も食らっている。
 琉は俺の問いを待たず口を開いた。

「爺ちゃんが──」

 震える手が一筆箋を差し出す。辿々しい筆致には僅かな理性と、正気と狂気の狭間の愛があった。
 指先で文字を辿る。

お前 の 赤で護っ てくれ


 俺の赤──!
 動揺と共に手紙を突き返した。彫師の矜持が拒絶する。師匠への贖罪だとしても、幼子に墨など論外だ。
 だが琉は折れなかった。
 右腕を掴まれた。尋常でない握力の手から振動が伝播し、食い込んだ爪が皮膚を裂いた。
 ようやく気付いた。身震いの正体は畏れでなく怒りだ。紅潮した琉の顔は、まるで愛染明王。俺の十八番。
 俺の赤。

 琉の背が不可逆の赤で満ちる。
 慈悲を赤に託し、滅罪の祈りを込め、無垢な琉に注ぎ込んでいく。赤は怒りの色ではない、と己に言い聞かせながら。
 愛染明王が俺を睨む。
 青い背が呼応し暴れ出す。
 同時に玄関から衝撃音が響く。

「続きは後だ」

 琉は血で染めさせない。それが道を外れた俺の道。

<続く>

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