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木澤佐登志『失われた未来を求めて』/『荘子』/ルイス・キャロル 『鏡の国のアリス』

KAZE

☆mediopos2662  2022.3.1

荘子に胡蝶の夢の話がある

荘子が胡蝶を夢見ているのか
それとも胡蝶が荘子を夢見ているのか
真実はどちらであるかわからない

ふつう知られているのは
そこまでの話になっているが
そこからが重要なところで
いわゆる「物化」の話で終わっている

それは荘子と胡蝶が
同じ(斉同)であるというのではなく
どちらかが真実であるともいえず
それぞれが異なっていながら
互いに「他」なるものへと
世界とともに変容しているということである
それを「物化」という

言葉を換えていえば
世界そのものの多元性であり
並行世界であるともいえる

映画『マトリックス』では
ネオはレッドピル(赤い薬)によって覚醒し
マトリックスの真実の世界を知ることになり
支配者が洗脳のために構築した仮想世界は
打破されることとなるのだが
世界は映画に描かれたような二元的世界ではない
覚醒した世界が真実の世界であるとはかぎらないのだ

ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』では
アリスは夢から覚めたあと
「自分はチェスのキングが夢見ている幻に過ぎないのか、
それともキングは自分の夢の産物でしかないのか自問」する

そして物語は
「でね、きみはだれの夢だったって思うかな?」
という一行で終わる

「常識」や「社会通念」は「現実」に対する
さまざまなお決まりの「答え」を用意し
それを揺るがすような「問い」を排除するが
「真実の答え」を求めるとき
世界は真と偽の二元論的世界になってしまう

真実の現実世界がここにあって
夢の世界は幻であるとはならず
もちろんその逆でもない

重要なのは「解答ではなく、
己にしか立てられない問いを提起すること」
「与えられた解答や目的にむかって生きるのではなく、
みずからの生をひとつの「謎」として生きること
「何者にもならない者になること」なのだ

「真実の答え」を求めるのはいいとしても
少なくともそれを政治やメディアや教育で与えられるような
「答え」としてとらえることは避けたほうがよさそうだ
それらを「信じ」た先にあるものは
きわめて偏狭な「現実世界」とされるものにすぎないのだから

■木澤 佐登志『失われた未来を求めて』
 (大和書房 2022/1)
■『荘子 全現代語訳(上)』
 (池田 知久 訳・解説 (講談社学術文庫 講談社 2017/5)
■ルイス・キャロル 『鏡の国のアリス』
 (河合 祥一郎 訳 角川文庫 KADOKAWA 2010/2)

(『荘子 全現代語訳(上)』〜「内篇 斉物論 第二」より)

「かつて荘周(・・・)は、夢の中で胡蝶となった。ひらひらと舞う胡蝶であった。己の心にぴたりと適うのに満足しきって、荘周であることを忘れていた。ふっと目が覚めると、きょろきょろと見回す荘周である。荘周が夢見て胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢見て荘周となったのか、真実のほどは分からない。だからと言って、荘周と胡蝶は同じ物ではない、両者の間にはきっと違いがある。物化(ある物が他の物へと転生すること)とは、これを言うのである。」

(木澤 佐登志『失われた未来を求めて』より)

「映画『マトリックス』がボードリヤールの著作『シミュラークルとシミュレーション』を参照していることは比較的よく知られている。映画冒頭、主人公のネオは中身がくり抜かれた同書からハッカープログラムを取り出す。また、完成作品ではカットされたシーンの中で、モーフィアスはネオに向かって、「おまえは夢の世界で生きてきたのだ、ネオよ。ボードリヤールの洞察にあるとおり、おまえが人生を送ってきたのは、領土ではなく、地図の内部なのだ」と告げる。

 ボードリヤールは同書の冒頭で、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの寓話的掌編「学問の厳密さについて」に言及している。それは帝国の地図作成者が、詳細な地図を作ろうとして、ついに帝国の領土全体をぴったりと覆う縮尺一分の一の地図を作成するという話だが、ボードリヤールはこの寓話を反転させ、現代のポストモダン社会にあっては領土が地図に先行するのでも、従うのでもなく、地図こそ領土に先行すると指摘した。今や地図そのものが領土を生み出す。シミュラークルの先行。

 ボードリヤールに従えば、地図=モデル=シミュラークルに先立つものはなく、それゆえ私たちは、現実世界との接触を完全に絶たれていることになる。注意しておくべきは、彼が提示しているのは、単なる現実と人工(シミュラークル)からなる二項対立の世界モデルではない、という点だ。記号、広告、商品など、ポストモダン社会に氾濫する情報のオーバーフローによって現実はすでに置き換えられており、現実の体験とシミュレーションを区別すること自体が不可能であり無意味であるような認識論的地平、言い換えれば、現実性の完全な喪失をこそボードリヤールは論じているのである。
 
 ところが、アメリカの文学者ディーノ・フェルーガがいみじくも指摘しているように、モーフィアスがレッドピルによってネオを「現実という砂漠」(・・・)に迎え入れるとき、AIによってプログラミングされたシミュレーションからの絶対的な脱出が可能であることが示唆されている。かくして、『マトリックス』はボードリヤールの議論と異なり、現実界へのアクセス=帰還を至上命題とする、現実/虚構、真実/偽といった古典的(プラトン的)な二項対立モデルへと回帰する。その際、虚構と現実を橋渡しするのは、言うまでもなくレッドピルというガジェットであり、「真実」によって覚醒した「現実界の英雄」−−−−救世主−−−−たるネオによって、支配者が洗脳のために構築した仮想世界は打破されることとなる。

(・・・)

 だが、レッドピルに導かれた世界が真実の世界であるという保証はどこにもない。『鏡の国のアリス』では、アリスは夢から覚めたあと、自分はチェスのキングが夢見ている幻に過ぎないのか、それともキングは自分の夢の産物でしかないのか自問する。アリスは覚醒することによって、懐疑を手にする。いま認識しているこの世界が現実化それとも夢みられた反世界か、どこまでも決定不能のまま宙づりにされる。物語の最後の一行の不穏さ。「でね、きみはだれの夢だったって思うかな?」

(・・・)

 結局、ドラッグストアで手に入るような「答え」など存在しない。「常識」や「社会通念」の上に胡座をかき、道徳やら幸福やらについての高説を垂れる安物のレッドピルは、今では書店でも叩き売りされている始末だ。だがそうした、人々の生き方を「善導」するレッドピルの著者らはその実、自分の足元が今にもグラつくのではないかと常に小心翼々としている。」

「並行世界へ思いを馳せること、それは言うまでもなくユートピアへの憧憬とも無関係ではないだろう。キャロルの『鏡の国のアリス』には、何者も名前を持たない、ある種ユートピア的とも言える不思議な森のエピソードが出てくる。名前を持たない(忘れてしまった)アリスと鹿は仲睦まじく一一緒に森を歩いていく。しかし、森から出た途端、自身の「鹿」というアイデンティティを思い出した鹿は、人間であるアリスを振りほどいて逃げ出してしまう。名前やアイデンティティの一切から解放された楽園と、そこからの追放。

 解答ではなく、己にしか立てられない問いを提起すること。与えられた解答や目的にむかって生きるのではなく、みずからの生をひとつの「謎」として生きること。何者にもならない者になること。類型的なアイデンティティから逃れ、こうもありえたというもうひとつの人生を、わが複数の人生を生きること。現実には足を踏み入れなかった薔薇園に、追悼の中の足音が木霊するように。」

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