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中山英之『1/1000000000』

☆mediopos-2250  2021.1.13

我思う
ゆえに世界あり

ポエジーとは
そんな夢みる力のことなのかもしれない

本書の著者である建築家の中山英之は
「そこにいる人々が、我思うたびに世界あり!
と思えるような建築が作りたい」と言う

夢見る建築家の書いた言葉は
この頑固なまでの物質世界のなかで
さまざまな困難を前にしながら
見果てぬ夢のように
みずからの想像した世界を
つくりあげようとするポエジーに満ちている

世界を変えたいと
ひとは望み
世界は変わらない
変えられない
そう人は嘆く

そしてその嘆きを
世界のせいにしたり
権力者のせいにしたりするばかりで
みずからのポエジーを省みることはない

著者によれば
ハイデガーは
「世界はこういうものかしら?」
と考えてみた瞬間
それが世界なのだといっているという

そうであれば
世界は人の数だけある
しかもひとりにひとつだけじゃなく
思い描いた数だけ世界がある

もちろんこの物質世界を変えるのは困難で
しかもこの世界にはたくさんの人がいる

けれどそんななかで
どれほどの想像力を広げようとしているだろうか
じぶんの世界を思い描くことないままに
変わらない変えることはできないと
世界を嘆き批判を繰り返すのは貧しく悲しい

無限のポエジーは可能だ
世界は与えられるのではなく
世界は創るものだからだ
そのことを人は忘れがちなのではないか
現代物理学もその多世界について
示唆を与えてくれたりもする

たとえ今どんな閉塞状態にいるとしても
世界を想像する力がなければ
どんな世界も現れる可能性はないだろう

我思う
ゆえに世界あり
そんな夢みる力を
だれもがもてますように

■中山英之『1/1000000000』(現代建築家コンセプト・シリーズ25 LIXIL出版 2018.3)

(「世界があらわれる」より)

「ある空き地の草刈り業者が、敷地の中心に棒を立ててヤギをつないでおくアイデアを思いつきました。刈った草の始末も要らないこの画期的な方法では「紐の長さが肝心」なのだそうです。それにしても、動物が何かを食べている姿には、有無を言わさぬものがあります。街中で食べ物としての土地を目撃してしまうことは、つまり物事を立体的に捉える2つめの視点を得ることでもある、というのは大げさかもしれませんが、私たちが土地として知っていたものが、同時にぜんぜん知らないほかの何かでもあることを、ヤギのいる空き地は少しだけ、見えるようにしています。
建築の、どんなものにでもなれるかもしれなかった地面を、土地や敷地に変えてしまうはたらきを、僕はときどきうらめしく感じてしまうことがあります。
以前僕は、建物すべてを地面から離した住宅を設計したことがあります。そういう設計を建築界でよくピロティと呼びます。ピロティは、誰もが広場のように使える場所です。だからこの言葉はどこか、自由を重んじる精神を謳いあげるような響きがあります。
とはいっても、私たちの設計した「ピロティ」は高さが50センチしかありませんでした。だからこの空間は、人間のための場所ではありません。そのかわりこの「ピロティ」には草が伸び広がり、猫が横切り、風が吹き抜けていきます。だからこれは、地面をただの地面のままにしておくためのピロティです。家を支える華奢な柱にヤギをつないでおくかどうかはさておいて、その場所をどんなふうに捉えるのか、という自由さを、建築が摘み取ってしまわないようにしておきたかったのです。
あなたが「こうかもしれない」と思った瞬間、世界は何度でも新しくあらわれる。
そんなことを言った哲学者の話をしました。その人は、名前をマルティン・ハイデガーと言います。
この哲学者は、世界というものを、とても独特な方法で理解しようとした人です。
そのことを考える前に、ヤーコブ・フォン・ユクスキュルという生物学者の書いた、『生物から見た世界』という有名な本について少し話します。

この本では、「環世界」という聞き慣れない概念が扱われています。
建築や私たちの生活にとって、とても大きな影響を持っている重力ですが、小さな蟻は10階から落ちても平気です。彼らにとっては重力よりも、たとえば水滴の表面張力のほうがずっと怖ろしい存在です。ひとたびその力に取り込まれてしまったら、彼らは身動きがとれなくなってしまいます。こんなふうに、私たちにとって世界はひとつのように思われがちですが、それぞれの生物にとってその捉え方はまったく異なります。それぞれの種にはそれぞれに異なる世界がある。そのことをユクスキュルは生き物ごとに「環世界」がある、というふうに言ったのです。
ハイデガーは、このユクスキュル流の、つまり主体の数だけ、別々に、同時に存在する「世界」のうち、動物の世界を「世界に乏しい」と呼びました。では、乏しくない世界、つまり、私たち人間にとっての「世界」とは何でしょう?
ハイデガーが現れたのは2つの世界大戦のあいだの時代です。それは、もしもまた同じような大戦が起きたら世界はどうなってしまうのだろうといった、潜在的な、そして新しい不安を、人類が初めて感じるようになった時代です。自分や自分の身のまわりだけではなく、もしかしたらこの世界が丸ごと消失してしまうかもしれないというような、大きな不安。それらがつくり話ではない切実さをもって感じられる時代の始まり。あるいは、社会の産業化に伴って、人間の営みが組織化され、分業が進み、自分自身を、もっとずっと大きなシステムの部品のように感じてしまうといった、それまでには存在しなかった新しい虚無感のようなものに、人類が出会ってしまった時代でもあります。

あれ? と思います。
なんだかいまと同じですよね。

だからなのか、私たちの時代にあってぜんぜん変わっていない、この新しい不安のようなものに出会ってしまった人間を励まそうとしたハイデガーの言葉は、現代の私たちにもぐっと響くものがあるように思えるのです。
「我思うゆえに我あり」と言ったのはルネ・デカルトですよね。一方ハイデガーが言おうとしたのは、こういうことでした。

我思うたびに世界あり。

デカルトのように、世界を不変の入れ物のように捉えて、そこに自分の存在を対峙させるようなイメージでは、ちっぽけなひとりの人間に世界は変えられません。人々はこの新しい不安を乗り超えることができない。
けれども、ハイデガーは違います。

「世界はこういうものかしら?」

とあなたが考えてみた瞬間、それが世界だというのです。
なんて素敵な考え方なのでしょう。だって、そこにいる人間の数だけ世界はある、ということなのですから。もっと言うと、自分の一生のなかでも、何度でも世界はつくり変えられる、ということなのですから。

建築は、とても強い入れ物です。
ある特定の世界に、人間を閉じ込めてしまう入れ物でもある。
でも僕は、そこにいる人々が、我思うたびに世界あり!と思えるような建築が作りたい。
そういう建築は、感じる私たちのほうから、世界をいつでも新しくつくり変えることができるかもしれないと、大げさかもしれませんが、僕は信じているのです。
この本では、どうすればそんなことができるのかについて、いろいろ考えたことを書いてきました。」

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