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LOVE LIFE


少し前に、観に行くのをずっと楽しみにしていた「ウーマン・トーキング」を、夫と一緒に観に行った。
素晴らしい映画に私は胸を打たれ、泣きじゃくり、映画が終わっても涙が止まらず、その足で受付でパンフレットを買った。パンフレットを買ったのは何十年ぶりだったと思う。

本当はもう一度観に行こうと思っていたし、同じ劇場で「ぼくたちの哲学教室」を観るのも楽しみにしていたのに
突然の、手術・入院となってしまった。


私は今まで、夫と映画を観た後「そのために音楽があるのかもしれないね。だから人はうたうのだろうか」というような話を何度もしたことがある。

この映画を観終わった後
「人はこういうときに、うたうのかもしれない。」と
強く思った。
ミュージカルは好きな方ではないし、突然うたい出すシーンが気になってその作品があまり好きではなくなったこともある。(そういう場合は大抵その他の理由も色々あるけれど)

でも、こういうときに、人はうたをうたうのかもしれない。
この映画を観て心底感じたのだ。だからうたがあるんだって。
祈りと同じようだけど違う。とても似ているけど違うんだって。

人によっては、うたでも祈りでもない場合もあると思う。

大体、どうにもならないとき、どうにかしたいとき、
耐えて、捨てて、絶望と希望を持って、
人はうたや祈り以外に何か出来ることなんてあるんだろうか。

実際のどうにもならないとき、まだあの家にいたときの私自身には「話し合える」相手はいなかったし、耐える以外に方法が分からなかったから
勿論うたや祈りどころではなかった。
私の好きな音楽や、かけている音は「その気持ち悪い騒音を今すぐ消せ」というように、一瞬で木端微塵で、暴力の前ではなんの慰めにもならなかったし、身の安全を守るのに家でヘッドフォンやイヤホンも使えなかった。
そもそも【認識していなければ】耐える必要もない。
分からないまま生きながらえていくだけだ。


この映画は素晴らしい。

原作の小説を、実在するコミュニティを基にすすむストーリー、
それはとても直視出来るようなものではないが、観る人に再体験をさせるような表現シーンは極力なく。
画も音楽や衣装も素晴らしい。
監督のインタビューにもあったが、女性の壮大な映画があっても良いじゃないかと。確かに当たり前にあって良いんだと思った。それを細かいところまで感じられる映画である。
それぞれの意見を聴き、正直にぶつかり、分からないことも、認識して認識し合って前にすすんでいく。今出来うる限り尊厳を守る。守り合う。
うんざりすることがどんなにあっても絶望しても。
彼女たちのやり方で直視していく。

いつもどこでも、どうしたらそういられるんだろうと、
私はいつも思っているから。
夫とは年がら年中そんなことばかり話し合っているが、
それは相手が、違う人間だという実感がないとあかんのだ。
実感。「そうだな、違う人間だな」って納得していないと、
そしてその納得をなるだけ日常の中で小さくても繰り返し見つけていかないと。夫婦とか親子とか、ファミリー、コミュニティってものは直ぐに尊厳を守れなくなる。

私はこの映画を観た何日か後、
そうか、だからうたうのか!だからうたなのか!
と、謎の納得と共に
おくりたい人、おくりたいうたが浮かび、直前に迫っていたイベントで自分がペラペラと喋る姿が突然、浮かんできた。
そのイベントは、いつもお世話になっている方々の毎年やっている特別なイベントで。自然いっぱいの中、うちの家族はいつも有難く、密に関わらせてもらっており、今年は特にがっつりと音響系を夫が担っていたこともあって、私のその突然の伝えたいものを実現させてもらう運びとなった。
(本当に有難いことです。いつも有難うございます。)

大好きな大好きな人がいて、その人は私達家族全員にいつもとても愛情をかけてくださる人で、つらいときに彼女の顔を見て何度安堵したか分からないし、何度抱き合って泣いたか分からない。
彼女のあたたかいごはんに私は何度も何度も救われた。
そんな大好きな人と話していたら、今回はそのイベントに来れないことが分かった。そのイベントが始まったときから、彼女がいないときがなかったので、今年はじめてのことだった。
だから私は出来ることを考えた。伝えられるものを。
それがおこがましくも、少しの言葉と、うただった。

瞬間的に出てきた、自分が喋っているその自分のイメージ、言葉・かたちを、私はとにかくその場でここに打ち込んだ。
そうして一度出して、保存した。

数ヶ月経ち、それをこうして残しておくことにしたので、
私がそのとき喋らせてもらったものを、ぼかさなあかんところはぼかし、省いたものを残します。

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ちょっとだけ、うちの話をさせてもらいます。
うちはかなり特殊で、私は越してきてもうすぐ10年になりますが、世間でいうところの実家はありません。
自分と母親の関係で悩み、家族の在り方その他諸々、絶賛今も勉強中です。
夫とは知り合って直ぐからずっと遠距離で、何と、一緒に住むようになったのがほんとにここ数年前です。
それまでは月に1、2回こっちに帰ってくる、それ以外はずっと東京で仕事をしていたので、パートナーになってから7年くらいは単身赴任生活を続けていました。
その間に次男が生まれ、長男も色々あったりしながら、
今は元気に高校生です。
子どもたちには本当にたくさん協力してもらいました。ほんまに有難う。

一般的に見たら、かなり異常な状況、というか、敢えてこの言い方をすると
普通じゃない状況も多々あったと思います。今もかもしれません。


『家族は一緒にいるべきだ』『親子なんだから分かり合える』
『家族なんだから』

日本でファミリーやパートナーと一緒に生きていくとなると、
そういう呪いの言葉みたいなものを大量に浴びる機会があるんじゃないかと思います。
私も『家族はこうあるべき』という呪いのようなものに長年悩み、
これからも考え続けていくやろうなと思いながら、今ここにいます。

家で子どもに何度か話していることがあるのですが、
彼が『ズルい』って言葉を使いながら私に話をしてくれていたときに
そうか、ズルいって思うんやね、なるほど。
でもズルいって言葉は正しくないねと、私は伝えました。
だってそれを言っているときのあなたの気持ちってのは
『ぼくもそれがやりたい』って気持ちなんじゃない?
『ズルい』ではあなたが思ってる気持ちは相手に伝わらないねって。

ズルい、って言葉だと大事な自分の気持ちが隠れちゃうんですよね。
世の中ではこの話をするときに【アイメッセージを使おう】って言ったりするんですけど。
アイメッセージっていうのは
あなたはズルい!
ではなく、そういうときに
だってこうしたい!私はそれはかなしい!
って、言葉の主語を自分にする、伝え方のことなんです。
目を見てのアイ、と、自分のアイ、をかけた言葉です。

言うのは簡単なんですけどね、ほんと。
私達7年以上遠距離だったんで、コミュニケーション方法が
電話かメールのみだったんですよ。まぁFAXを送っていた時もあるし
Skypeのビデオ通話とか、コミュニケーションを取るための道具として色々使いました。とにかく電話がメインでした。
仕事もあるし離れた生活で顔も見れないけど、必死に話はする、っていう。
まぁそうするとですね、顔も見れない、でもコミュニケーションを取らないと分からないことがいっぱいある。って状況が毎日毎日あって、
相手は自分とは違う人間だから、当然分からないこと、伝わらないことがどんどん出てくる。
『ここが分からない』『あなたの言ってるここが分からない』って、
自覚もあって言えたら良いですけど、あなたと私、で話していてどこが分からないのかが分からない、これがめっちゃ大変だと思うんです。

私達ここがこれだけ違うんだね、って、目に見えてお互い知ることが出来たらどんなに楽か。でも相手は自分と似たような人間の形をしているように見えるんです。だから『何で分からないの?』ってなる。『何で分からないの?(あなたは)何で分からないの』と言ってしまう。

共働きだし家事育児は分担だって言いながら、きちんと会話もなく当たり前のように片方の負担が増えたりしたら、パートナーに対して『あなただけズルい』と思うこと、あると思うんです。
相手は相手で、自分の方がお金を稼いできてこの家を支えているのにあなたの方がズルい!って思うかもしれない。
それを口には出さないかもしれないし、言っても言っても相手が真面目にきいてくれない場合もあるかもしれない。

そこにズルいと思ってしまう気持ちがあるのは否定されるものではない。
でもそこで『ズルい』って言葉を使ってしまうと、
さっき子どもに伝えたときの場面と一緒で、
大事な自分の気持ちが隠れちゃうんですよね。
そもそも、自分の気持ちを大事と、思えていなかったら、それは考えたり言葉にするのもとてもとても難しい。
でも『私もこういう理由でしんどいよ!これはこういう風にしてくれなきゃ私は困るよ!』って言葉で伝えるの、めっちゃ大事なんです。
ほんとにね、私達それ出来るようになるのに最低でも5年かけてますし、なんなら今もアイメッセージ出来なくてよく喧嘩します。

ファミリーだけど、パートナーだけど、親子だけど、
相手は自分とは違う人間で、例え同じ言語を使っていても、
その言葉の使い方や言葉の意味はその人その人違います。
ほんとにびっくりするかもしれないですけど、全然違うんです。
似ているように見えても違うんです。

うちでは夫と、お互いの関係?状況?を国際結婚ならぬ異星人結婚って言ってます。
相手は異星からきた人なんです。
これを自分のお腹から出てきた子どもにも思えるようになるのが、
私にとってはとても重要で、とても困難なことでした。

『親子なんだから』私の場合だったら彼に対して『一緒に頑張ってきたんだから』って同志のような感覚も混ざっていたと思います。
彼は私達にとって大事な家族なのは昔も今もこれから先も変わらないけど、
ハッキリと、全然違う、ひとりの人間なんだって。
今は安心してそう思えるようになりました。

そうやって、長い間家族バラバラで生活してた私達が
今何とか同じ家の中生活してるのも、安心してそう思えるようになったのも、いろ〜〜んな方々の力をお借り出来たからなんです。

本当に、家族として一番ハードな時期に
ここにいる大好きな方々には本当にいっぱいいっぱい支えてもらいました。
子ども達は、たくさんの大人達にあたたかく見守ってもらって今があります。

いろんな家族のカタチがあると思います。
家族なんだから親子なんだから、一緒にいるばかりがすべてではなくて良いと思うんです。きっと大丈夫です。


長くなってしまいましたが、
私は、そう思います。

なので、今日ここには来れなかった大好きなその人に。
このうたをおくります。矢野顕子さんでLOVE LIFE

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、、、「少しの言葉」って。全然少しじゃないね、という、、、
今年もよく喋る夫婦です。
お世話になった皆さま、本当に有難うございました。愛を込めて。

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