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息子と初めてバスに乗った日のこと

 先日、3歳の息子と初めてバスに乗った。湖のある大きな公園を目指し、片道15分の2人旅。冷え込んだ朝の空気は午後になってもさほど緩まず、「何もこんな日にバスに乗らなくても」と思いもしたけれど、今日を逃せばもうずっと、一緒にバスに乗ることはない気がした。

 ズボンを2枚重ねし、帽子の上にさらにジャンパーのフードを被せ、マスクをつけて靴を履かせ終わると、乗る予定にしていたバスには全然間に合わない時間になっていた。次のバスは30分後。家で時間をつぶすと、また乗り遅れそうなので、バス停の周りをとぼとぼと散歩をすることにした。

 家を出る前、「今日は初めてバスに乗るんだけど、お母さん、抱っこはできないからね。自分の足でかっこよーく歩いてね」と2度ほど念押ししたら、息子は黙ってうんうんと頷いた。私はとりあえず、彼の「うん」という返事を信じてみようと思い、いざ外へ。

 想像以上に風が冷たい。息子の手をとり歩きながら、「やっぱりやめておこうか」という考えが何度も押し寄せてきた。しかし、バスが通るたびに「お母さん、あれに乗る?」と聞く彼の、帽子とマスクの間からこちらを見る小さな目が、大きな期待に満ちていて。これは裏切れないな、と思った。

 待ち焦がれたバスには、ほとんど人が乗っていなかった。息子を窓側の席に乗せ、シートベルトの代わりに片手を伸ばし、彼の身体が前にずり落ちないよう支えることにした。停留所ごとに人が降り、気づけば私と息子、2人だけになっていた。

 目的地の公園にたどり着き、すべり台で少し遊んだ後、ウサギやミーアキャットにあいさつし、亀を探しに湖へ向かった。暖かい季節、石の上で場所を奪い合うように日光浴していた亀たちは、もうどこにもいなかった。命が絶えた後そうなってしまったのかわからないが、小さな魚が湖の表面で凍っていた。車で何度も来たことがあるはずなのに、息子と2人でバスに乗り訪れた公園は、初めて来た、見知らぬ世界のような気がした。

 「おうちに帰りたい」。バスから降りて40分も経たない頃、息子がつぶやいた。私も同じ気持ちだった。早くバスに乗らないと、もう家に帰れなくなってしまうかもしれない…。そんな心もとなさが湧き上がってきたのはなぜだろう?何年暮らしたとしても、ここが私にとって異国だからだろうか?一人で出歩く時はそんなこと、もうほとんど感じなくなっていたのに。

 帰りのバスに乗るや否や、息子は目を閉じ、ぐっすり寝入ってしまった。私は妙にほっとした。買い物や用事を終えたらしき女性たちや、学校帰りの学生たちが、一人、またひとりバスに乗り込んでくる。馴染みの街並みが近づき降車ボタンを押した私は、眠った息子を抱きかかえ、心もとなさを置き去りにして、バスからそっと飛び降りた。

 目を覚まし、「トイレに行く〜!」と言いながら私の手をひっぱって、家とは反対の方向へ行こうとする寝ぼけ眼の息子に、「家はあっちだから!」と声を荒げて怒り出した時。私はすっかり、いつもの母親オンマの顔に戻っていた。

 その日の夜、布団の中で「バス、ちょっと怖かった」と言う彼に、私は小さな嘘をついた。「お母さんも」と言う代わりに、「そっか。お母さんは一緒に乗れて楽しかったよ」と告げたのだ。

 お母さんは一人なら平気なのに、君と一緒に外へ出ると、はやくあったかいおうちに帰りたくなるんだよ。自分より小さな、でも未来ある大きな命を預かっているんだと思うと、時々すごく怖いなあ、守ってあげられるかなと泣きたくなることがあるんだよ。

 私のそんな気持ちに息子が気づくはずはないと思っていたけれど、そうじゃないのかもしれない。私が「息子のために」と思ってやろうとしたことが、本当は私のためであることに、彼はいつも、薄々気づいているのかもしれない。

 毎日最低限のお世話しかしていない母親の私が、罪滅ぼしのために仕事を休み、保育園を休ませてまでバスに乗せようとしたことは、結局彼にとって良い経験になったんだろうか。1日経ってもそんな思いが消えずにいた時、保育園の先生からメッセージが届いた。

「きのうは良い時間を過ごされたようですね。今日はとっても機嫌がいいですよ」

 1歳半から毎日、息子の成長を一緒に見届けてきてくれた先生が言うのだから、きっとそうなんだろう。私は今日も明日も粛々と、その時の自分にできることを息子にやってあげればそれでいいのかもしれない。心もとなさも、一緒に抱えながら。

 世界が今よりもう少し落ち着いたら、今度は2人で電車に乗って、飛行機に乗って、高速バスに乗って、日本の家に帰ろう。私が小さい頃に遊んだ海や川、動物園や水族館、遊園地や映画館にも行ってみよう。

 君が「お母さん」と呼んで手をつないでくれる時代が、終わってしまうその前に。

  

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