で、あなたは結局「何」が書きたいの?

書くことを仕事にしようと考えると、曖昧であることや趣味の範疇であったりといったことが通じなくなってくる。

明確に「あなたは何を書く人なの?」に対する返答が必要だ。

このご時世、「何でも書きます!」は極少であろう。

さらに○○に詳しい、では通じない世の中になってきた。

下手すると、ある分野の専門家として活動している人を情報量でAIが上回ってしまう。

もしかすると既に、○○のことはあの人に聞こう、と周りから信頼されていた安定ポジションが、既にAIに奪われているかもしれないのだ。

正直、それは並のレベルでの話なので全般的にとは言えない。
AIに仕事を奪われるような専門家は、一定のレベルで留まってしまっていたに過ぎない。突き抜けるレベルの人たちは、唯一無二のポジションを継続している。

私のまわりにいるオタクたちは、AIの台頭などものともしていない。効率的に作業ができるツールを手に入れた!と喜ぶだけだ。

さて、あえてAIの話を出した。
これからする話の前置きとしてふさわしいと思ったからだ。
「あなたは何を書く人なの?」について、掘り下げていく。

「何」にあてはまるもの

多くの人は「何」にあてはまるものを市場カテゴリーで考えるのではないだろうか。恋愛、お金、ガジェット系、投資、暮らし、なんでもいいのだけれど、ネットに触れる者たちであればものの数秒で飛び込んでくるあれだ。

私であれば、身体や心に関することを書く人、となるかもしれない。
確かに、私もこの数日間で書くことを仕事にしようと考えたときには、市場カテゴリーが頭をよぎった。

しかし考えてみてほしい。
たとえばイベントの交流会に行って編集者の方とご挨拶ができた際に、「私は○○の活動をしていて、身体や心に関することを書いているライターなのです」と言ったところで、仕事の話に繋がるだろうか。

自身の人としての魅力うんぬんの話を割愛するが、可能性として仕事に繋がることは考えにくい。

ここで冒頭の話に繋がるのだが、身体や心の広い範囲での話であれば、AIに書かせた方がいいかもしれないのだ。

「あなたは何を書く人なの?」で問われていることは、「何しか書けないの?」や「何を書きたくて仕方ないの?」あるいは「何のことなら誰にも負けないの?」あたりが含まれている。

つまり「あなたは何を書く人なの?」への返答で「身体や心に関することです」といった言葉の選択は、その時点で死活問題となる。

「何」の中身を言葉にするには、自分からほとばしる偏愛や渇望、生命力、決意、断固として譲れないもの、主義主張が、にじみ出ていることが前提となる。

それは前時代的な「血の滲むような」といったニュアンスとは異なり、要するに「自分の純粋性を理解し、表現できてますか?」ということなのであろうと解釈する。

「身体や心に関することです」と言い切ってしまう危うさをご理解いただけただろうか。実際には私も、口をすべらせてそう言ってしまいそうだ。


「書きたい」と「書ける」の狭間

以前、専門家としてWebメディア執筆の仕事をいただけたときは「書ける」から仕事をしていた。

いや、そもそも書けていたか怪しい。なにせ敏腕の編集者さんが、いい感じにまとめてくれるからだ。直しのほうが多かった記事もあった。

書けるから価値となり、世に貢献できる。
そう信じていた。
CANをまずつくること、同時にCANを増やし深くしていくことこそ、求められていた命題だった。

「書ける」とは、文章自体のうまさもあれば、的確に根拠を持ってこれること、読者の気持ちになれること、読みやすいものに仕上げられること、様々な要素が組み合わさって「書ける」になっていくものと思う。

ただ、今ならわかるが、変態と言えるほど渇望をもったオタクな文章に、「書ける」は負ける。

CANの時代の崩壊である。
書きたくて、書きたくて、仕方ない衝動にCANは打ちのめされる。

文章として正しいかはともかく、他にやることがあったはずなのに引き寄せられ、次が読みたくて仕方ない文章に出会ったことは誰もがあるだろう。

「書きたい」と本人が自覚することすら通り越して、自動書記とでも言うべき筆の荒ぶりが、躍動が、読み手の心を揺さぶり続ける。

「書きたい」になる前の情熱は、既に読者に届いているのかもしれない。
なぜなら言葉は数多ある熱を具象化する方法のうちのひとつにすぎないからだ。情熱の爆発がすでに波になって、読者に届いているはずだ。

だからこそ「書きたい」が大切なのだ。
その衝動を身にまとい、まだ名前も知らない誰かへ紡いでいく。
ひとり、またひとりと紡がれた強固な想いが、やがて本になる。
ある人間から生まれた情熱というバトンが本を編む者に導かれ、いつのまにか本人よりも世に出したい気持ちが芽生えてくるのである。

まだ駆け出しの素人がわかったような口を聞くなと言われるかもしれない。
しかし私は、今ライターとして道を歩むのであれば、最低限「私が書きたいもの」をいつでも取り出せる鞘におさめておく必要がある。

当たり前のことしか言っていないが、この当たり前を疎かにすることがどれだけ未熟であるかはわかっているつもりだ。というより、当たり前にしか本質は宿っていないのだ。

私はどうやら、自分の純粋なる気持ちを解き放ち、具象化し、その光を鞘におさめるだけでなく他者を導き温かい循環をもたらしながら活動している人たちのことを書きたいらしい。なんとなく方向性が見えてきたので、「書きたい」の源泉に辿り着くべく、ノートに書き続けている今月である。

あなたは「何」を書きたいだろうか。





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