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視点研究家 / 場の随筆家 / 365日手帳と読書。日常の小さな積み重ねを楽しんで暮ら…

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視点研究家 / 場の随筆家 / 365日手帳と読書。日常の小さな積み重ねを楽しんで暮らしてます。東村山の百才で心身を整えるWSを毎月開催。

マガジン

  • 自分の言語化

    自分の言葉をつくっていくための過程。

  • 本、漫画、アニメ、映画メモ

    観たり読んだりのメモ。

  • 感覚を整える

    身体や心とは別の、体感覚に関する知識や体験のまとめです。

  • 我が家について

    家について。暮らしについて。

  • 子育て

    子どもたちを見ていて思うこと

最近の記事

気兼ねなく焼肉にいける友

焼肉食べに行きましょう、と軽やかに約束ができる相手がどれだけいるだろうか。大学生の頃は数名いた気がする。大人になり、結婚し、子どももいる今、近くでふらっと焼肉に行ける友人が珍しくなった。 台湾好きの共通項で繋がったあみさんという人がいる。彼女とはかれこれ7年の付き合いになる。台湾原住民の文化を学びながら、彼らのクリエイティブを持ち帰り日本で伝えている。彼女がどこかで店を開くとなったら、できる限り駆けつけている。必ず、素敵なものを持ち帰ってくれるからだ。 私といえば、2歳か

    • 自分を愛するということ

      いかに自分を愛せるかが夢や目標を実現したり、より自分らしい生き方のある時間を過ごすための真理であると考えている。 これはパートナーシップを仕事にしていた時期、あるいは妻と結婚してからなのか。 私の中の課題でありつつ、少しずつ育んできたテーマでもある。最近ではますます、土台として力強いものになってきた。 輝いているときの自分だけではなく、それこそ闇や病みまでごそっと愛する。自分はこんなに活躍してるよ、こんなに元気だよ、こんなに素敵だよ、そんなことは示さなくてよくて、あなたが

      • 疲れた顔をした娘を見ていて

        いつもだったら帰宅した私に「パパ遊ぼう」と言う長女が、ひとりで黙々としまじろうのワークをやっているのを見て、少しだけ異変を感じていた。 ひとまずごはんを食べることにして、妻に献立を聞く。グリルに魚があることはわかったが、スープがあるのを忘れていたことを伝えながら、次女の歯磨きに手を焼いている。 ソファでひとり佇みながら、歯を磨いているのか磨いていないのか、わからない速度で手を動かしながら焦点を定めず呆然とする娘を見ていて、口にした魚の骨が引っ掛かるのを感じた。ハムとベーコ

        • ピザと映画

          ご近所のピザ屋さんに多くて週1で通っている。 妻と在宅で仕事をする日は必ず予約してテイクアウトする。 そのピザ屋さんの気さくさ、お手頃価格、具をふんだんに使ったピザに魅了されてしまうのだ。 店には素朴さと自由さがある。ナポリピッツァを主としているが、ナポリピッツァはタバスコを使わない。しかしそこではアメリカンピザのノリで、タバスコを豊富に置いている。おつまみのスタイルもアメリカかイタリアか、よくわからない。やりたいことをやる、自由なピザ屋さんだ。そしてお客様の声をよく聴き、

        気兼ねなく焼肉にいける友

        マガジン

        • 自分の言語化
          96本
        • 本、漫画、アニメ、映画メモ
          12本
        • 感覚を整える
          9本
        • 我が家について
          22本
        • 子育て
          3本
        • 小説
          11本

        記事

          10%しか力出してないでしょ?と言われて

          先日、noteの記事を見た友人から、「10%しか力出してないでしょ?」と言われて、書き手としては非常に考えさせる言葉であった。 特に最近では脱力こそ本領発揮の真髄であると考えている。 それを思えば、私からすると力が抜けているのは非常に喜ばしいことなのであるけれど、読み手に「力を抜く」すなわち「手を抜いている」と捉えられてしまうのは少しちがうような気がしている。 この件に関しては2つのことが混在しているように思う。 力まずに自然体で書こう 手を抜いているのではないか

          10%しか力出してないでしょ?と言われて

          トトロに包まれて

          個人はすでにその存在自体が素晴らしいのだけれど、自分のすごさに気づいている人は少ない。自分もそのひとりだ。 自分らしさを取り戻し本来自分が持っている力を発揮できたとき、驚愕の力を発揮することがある。それを知りつつもうまくコントロールできていないのが正直なところだ。 貢献できることがあるのは幸せなことだ。お皿を運ぶ、家に来た人を招くといった一見シンプルなことも、自分に役割があることでうれしくなる。ささやかな貢献をさせてもらえるのは、ありがたいことだ。 人が自分の力を発揮す

          トトロに包まれて

          映画とカレーと私。

          1回目となる「映画とカレーと私。」を開催した。 場所は下北沢のK2シモキタエキマエシネマ 映画は『偶然と想像』 カレーは無添加薬膳スープカレーCOSMOS メンバーは画家のゆっこ氏、ハラカドのコミュニティマネージャーのあやな氏、Webデザイナーのちか氏。 ◇ ちか氏はポンコツということで知られていた。 前もってそのような情報を元々の知り合いであるゆっこ氏から聞く。おそらく今日は道に迷ったり、遅れてくることを予想していた。 10分前に到着するということで連絡をいただいた

          映画とカレーと私。

          身体から言葉につながる

          身体とのコミュニケーションを深めようとしている。 元々、内臓とのコミュニケーションが当たり前だった私は、もはやこうなることは必然であったのだろう。 内臓とのコミュニケーションというのは、たとえば食道や胃腸、肝臓や腎臓、心臓、肺などの調子を聴きながら日々を送り、できるだけ負担をかけないようにしようとするものだ。 何やら胃が膨らみすぎてるとか、ガスが溜まりすぎてるとか、消化がいつもより悪いとか、心臓が少しチクチクするとか、頭に血がのぼりにくいとか、そういうものだ。 異常が

          身体から言葉につながる

          60代と20代の狭間

          ほとんど同じことを話した。 しかし受け取られかたも出てくる言葉もちがう。 はじめましての方と立て続けに会って思う。 振り返りが主体の人と、未来が主体の人では相手から受け取る言葉の感受、自分から発せられる言葉の選択が明らかにちがう。 見ている方向がちがうだけでこうもちがうのかと驚いた。過去、現在、未来、どこを見ながら話すのか。新しいものに対してわくわくするのか、あるいは過去と比べてしまうのか、このちがいは大きい。 経験がものをいう分野においては年を重ねるごとに代わりのいな

          60代と20代の狭間

          あきるの市田んぼ部の田植えイベントに参加して気づいたこと

          雑草を抜いたばかりなのにこの9年で初めて見た謎の追い生えを果たした雑草たちと出くわして、主催者は驚くばかりであった。 田植えイベントなので参加者は田植えに来ている。 しかしこの日は抜いたはずの雑草がまた生えている現象のおかげで、雑草取りからスタートした。 私としては初めての田んぼだったこともあり、雑草取りが体験できたのはむしろありがたかった。その後の田植えも充実していた。 持っていたイメージとかなり違っていて、この田植え体験が今後の自分に大きな影響を与えそうなことはなん

          あきるの市田んぼ部の田植えイベントに参加して気づいたこと

          なりたい自分になる

          夢や目標をかがけて、それに向かって走るのもいい。でも私は何度やってもそれで成功したことはなかった。夢を叶える手帳、目標実現ノート、コーチング、願望達成メソッドetc••• ひたすら行動量を重ねていくこと、たくさんの仕事を経験すること、人を巻き込み自ら生み出す企画を形にすること、そのどれもが何かしているようでしていない、前に進むことのないラットレースに通じていた。 そもそも、あるメソッドをそのままこなして目標達成できる人は、たぶんどんな方法を用いてもそれなりの結果を出せてし

          なりたい自分になる

          東村山市の草花市とはちこくマルシェ

          大善院で開催された草花市と八国山のはちこくマルシェへ。 東村山に住んで3年目になり、徐々にどんな場があちらこちらで開催されているか把握できてきた。1年目はただ暮らし、2年目はリサーチし、3年目となる今年はひたすら参加してみるといった流れである。 草花市は、名前のとおりそれは見事な草と花に魅せられ圧巻された。 門をくぐり最初に目に入ったのは間違いなく草であった。その手入れの丁寧さに住職の人柄が現れていると思ったし、空間に洗われる感覚があった。 お見事としか言いようがなかっ

          東村山市の草花市とはちこくマルシェ

          で、あなたは結局「何」が書きたいの?

          書くことを仕事にしようと考えると、曖昧であることや趣味の範疇であったりといったことが通じなくなってくる。 明確に「あなたは何を書く人なの?」に対する返答が必要だ。 このご時世、「何でも書きます!」は極少であろう。 さらに○○に詳しい、では通じない世の中になってきた。 下手すると、ある分野の専門家として活動している人を情報量でAIが上回ってしまう。 もしかすると既に、○○のことはあの人に聞こう、と周りから信頼されていた安定ポジションが、既にAIに奪われているかもしれな

          で、あなたは結局「何」が書きたいの?

          ライターとして生きていくこと

          こんなにも文章が好きなのに、ライターへの進みを試みたことはあれど道半ばでやめていた。 5年ほど前に実際に仕事としてやってみた。 世の中が期待すること、編集者の好みで大幅に文章が編集されていくことに耐えかねた。 自分がもっとも伝えたい大切な言葉たちがすべて消されたとき、自分が伝えたいことではなく、人が読みたいことを書くのが正しいのだと勉強させられるのだった。 それではエッセイを書けばいいと思ったが、何者でもない名もなき人間のエッセイなど誰も読もうとしない。あまりに興味が惹

          ライターとして生きていくこと

          能力、やりたいこと、社会貢献

          人には自分でも気づかない卓越した力や強み、経験や知識によって蓄積してきた知恵がある。 それらをあえてその人が持つ「能力」と言ってみることにする。 そして、その人のやりたいこと、社会に貢献できること。 それら3つが最近、重なってきているのを感じたので残しておきたい。 能力について自分がもつ力をはっきりと言える人は少ない。 たとえば、片づけの魔法で知られるこんまりさんは、自分がそこまで片づけの力があると認識できていただろうか。 片づける力、片づけたいという願い(やりた

          能力、やりたいこと、社会貢献

          人のことを書きたいと思った

          ブログやnoteをそれなりに書いてきた。 著者へのインタビューや、メディア執筆も手掛けることがあった。 しかしそれらは独学で、いいのか悪いのかもわからないまま進めてきた節がある。 ところが今、野心が芽生えてしまっている。 人の魅力を伝えたいのだ。 社会的にニーズがあって、あるいはエモくて、あるいは勇気や元気がわくような、それらのことは一切関係のない、ただその人の純粋な魅力を純粋な自分の視点で綴りたいのだ。 誰かのことを書いてみると、自分の語彙力不足によってその人の魅力

          人のことを書きたいと思った