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小説 『普痛』(九)

※前回


 私は燿子について一つ勘違いをしていた。
 それは彼女が、存外、私の想像していたよりもずっと普通の女性であったことだった。燿子と初めて会った時、私は、私の世界が良い意味で壊れていくのを感じていた。そしてそれは彼女に会う度におとずれるものだと思っていた。しかし、一度、二度と会う度に彼女と交わす会話の一つ一つがどれも凡庸であることに気づいた。今日はいい天気だ、缶コーヒーが美味しかった、昨日見た刑事ドラマはアンフェアだ、本当にどうでもいい話ばかりだった。
 私から話題を提供することはほとんどなかった。『僕』でない私の会話ベタは今に始まったことではないが、それを差し引いても私から話題を提供することに抵抗があった。話題を提供することで私という異邦人が彼女を訪ね、私が燿子に期待するナニかを変えてしまうことを恐れていた。しかし、彼女が次から次へと何食わぬ顔で会話を続けるから、私の考えなど、まるで全て見透かされているような気分になって、結局私は彼女からナニかを受け取っている感覚を覚えた。その実態は目に見えず、感じるという言葉を使ってしまうと嘘のように聞こえるが、そのナニかが確実に彼女と会う度に私の心臓を打ち鳴らし続けた。
 それはやはり、彼女が私にとっては普通であって普通でないことの証明であった。

 その日は出会ってから初めて雨が降った。会う日、とは言っても別に彼女と約束を交わしていたわけではなかった。彼女と会った日からそうだった。
 何となく毎日、あの公園に足を運び、そこに彼女がいる。私が先に着いている場合も彼女はやはり同じようにただ私が公園にいただけだと思っただろう。だから、今日、公園に向かう義理は私にも彼女にもなかった。
 カーテン越しに見る雨は柔かな線を無数につけていた。影が張り付く度に両手に巻いた包帯がズキズキと傷んだ気がして視線を逸らした。
 着替えると尻ポケットに二人分の缶コーヒー代だけを入れて家を出る。前に使われた日を自分でも思い出せないコンビニ傘はバリバリと音を鳴らした。

 雨の日の散歩も発見がいくつかあるものだと思った。この町の排水溝は弱く、この程度の雨でもアスファルトに薄い水の膜を張り、歩く度に靴を浸した。
 新築の住宅地横は流石に水はけが良く、味気ないコンクリート道に潤いを与えているだけに留まった。
 首をもたれさせた向日葵の一郡は相も変わらずであったが、明日にはその背筋をピンとしているかもしれなかった。雨は公園までのほんの数分の道のりも、私の服の色も随分と変えた。

 燿子はベンチに座っていた。
 滑り台は色の補充とばかりに光沢を増し、砂場も身体を濃灰色に染めていた。公園内の全てが、私を含めて変わっていた。
 なのに彼女だけはいつも通りに座っていた。傘もささずに、背中まである黒い髪も、白のブラウスも、青のジーンズをも濡らして。
 私はその姿に見惚れた。音も、人も、モノも、声も、そして雨も、世界の全てを彼女が置き去りにして、彼女の視る世界には何も映っていないのではないかと思った。
 彼女の存在が世界の中に浮いていた。彼女の隣に行けば私にもその世界が視えるのだろうか。彼女の世界に私を視てもらえるのだろうか。そんな考えだけが私の身体を彼女の隣まで運んだ。
 傘を差しだしたところで、彼女はあらと私に気づいた。
「手どうしたの? 喧嘩でもした……の割には綺麗な顔してるけど」むむむと勝手に謎を作っては頭を抱えた。
 私は差し出した傘を一度ひっこめる形で左手を隠したが、すぐに右手にも包帯をしていることに気づき、結局は元の形に戻った。彼女には『僕』に関係すること全てを隠したかった。その一部を見られたことが酷く屈辱で、私と彼女との差をまた大きくした気がした。
「そっちこそ」発したはいいが言葉に詰まる。視線を泳がしていると彼女の胸元が目についた。ブラウスが体に張り付き、華奢な体のシルエットを浮かび上がらせた。青い痣が胸元から左肩にかけて痕をつけている。
「どうしたんだ、その痣。凄いぞ」
「えー、以外。そういうことには興味なさそうだったのに。そうなんだ」
「茶化さないでくれ」
「ちょっと派手に転んじゃっただけ。もう痛くて痛くて。泣いちゃうでしょ、こんなの」
 転んでできた痕には見えない。何かに激しく打たれたような痣だった。だが、彼女がごまかす以上、私は踏み込んだ話ができなかった。それは彼女も同じだった。彼女も私の傷について言及してこない。結局、私と彼女の間柄はその程度でしかないのだ。それはどこか残念で、彼女が私の手に届かない存在なのだと確認できて、ほっとした。
「雨なんだから、別に来なくても良いのに」
「それはお互い様」
「私は傘を持ってきてる」
 彼女はようやく自分が傘をささずにいたことを思い出したようで、雨が口に入ることなど気にする様子もなく、カッカッカと笑った。
「何で傘差さないの」
「うーん、差す必要がなかったから」
「無いワケないだろ」
 燿子は心底不思議そうに「何で?」と首をかしげた。
燿子に差し出した分、右肩は色を変えた。小さな身震いをして「何でって、風邪引くよ」
「じゃあ、雨って悪者なんだ?」
「雨が無いと畑は潤わないし、貯水だってできないから、良いことだってくらい小学生だって知ってる」
「まあた、そうやって一角度的な考えをするね、君は。君がどう思ってるかが聞きたいのよ」
 申し訳ありませんねと嘯いて「嫌いだよ。濡れるし、気分は落ちこむし、外出してもつまらないし」また一般論で返した。そのほうが彼女との会話が続く気がした。
 とは言ったものの、本当のところ、私は自分の考えというものを持っていなかった。
 彼女と出会ってから気づいた。
 雨が好きなのかどうかさえ、私には判らないのだ。
 私はそれが私の癖に依るものであっても、今までの人生において常に正しい選択をしてきたつもりでいた。大学進学も、就職も、退職も、全てが私の意識下における最適行動であると疑わなかった。唯一『僕』という存在だけが私の意志に反した異分子であり、奴だけが私の邪魔者であると思っていた。が、燿子と話すうちにそれらの思い込みが正しいモノだと思えなくなった。
 燿子が「何で」と尋ねる度に私は私の中の考えを述べることができずに、世間一般的な模範解答を答えた。この気づきは少なからず私にショックを与えたが、燿子がいつも「そちの考えを聞かせよ!」と殿様みたいに言うものだから、私は私の思考が自分のモノであることを証明する解答を探す面倒くささを面白がって、そんなことは次第にどうでも良くなっていた。
 燿子は私の答えに不満げな顔を見せると、傘から飛び出すようにベンチを立った。両手を広げ、広場の中央をくるくる回る。回るたびに柔らかくなった地面が抉れ、その小さな穴に無数の線が注がれた。
「〝やまない雨はない、明日はきっと晴れるさ〟」
 雨に打たれた、ずぶ濡れの女はそう言った。
「詩的だね」
「ステキ?」
「し・て・き。詩みたいですね、って」
「ああ、詩的ね。私さ、こんな風に歌ってるバンドマンとか? 詩人とか? 大嫌いなんだよね」
「これまた世間から刺されそうな意見だ」
だって、と燿子は翻って私の顔を見た。傘を打つ雨の音が少しだけ強くなった気がした。
「それって辛いとか、苦しいとか、悲しいとかの比喩で使ってんだからムカつくでしょ?」
「一例で使ってるんだ。皆が皆そう思ってるわけでも」
ない、と言い切る前に数分前の私の答えが違うだろと言葉をせき止めた。
 燿子に、ほらみろと笑われた気がして頭を掻く。髪の毛が嫌な濡れ方をしていて気持ち悪かった。燿子は「雨を良い者か悪者かで判断してたらつまらない」とまた手を広げて見せた。
「つまらないって……、実際楽しくなんかない」
「傘なんか差してるからだ」
「差さないと濡れるだろ」
「差してるから、中途半端な濡れ方して気持ち悪くなるんだよ。楽しめ楽しめ」
 雨がそうだそうだと言うように、傘を打つ強さを強めたり弱めたりしている気がした。無茶苦茶な論理だった。支離滅裂で、一歩間違えれば、いや間違わなくても馬鹿だ。
 しかし、燿子の目が、雨が、私に傘を捨てるのを催促した。
 雨を楽しむ。
 知らなかったような、ただ忘れていただけのような、そんな奇妙な感覚が身体を駆け巡った。彼女と初めて会った日、公園で遊ぶ子どもたちの顔が頭に浮かんだ。あの子たちも雨は楽しいんだろうか。「雨の方が泥を作るのにいいね!」とか、水たまりの中を跳ねたりして。
 それは何て美しい世界なのか。
 それらの感覚は確かな握力を持ち、私の左手から傘を手放そうとした。その力に不当なものはなく、痛む私の手を優しく包んだ。私が傘さえ捨てれば、私は彼女の世界に入れる気がした。私に見えない世界が視える気がした。

 できなかった。

 私には私の世界を捨てることができない。嘲笑して渇望した普通を捨て、彼女と笑うことができなかった。
 『僕』にはできない。
 無数の線はその尺度を長くした。
 閉ざされた公園には男が一人、傘を携え立っているだけだった。
 
 その日、私は風邪を引き、スズキは休職届けを出した。
 雨音が私を、私たちを置いていくように、遠く、遠く、吠えた。

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