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小説 『普痛』(八)

※前回



 その日はスズキと会う約束をしていた。会おう会おうとは言っていたが、あっちのタイミングが悪く、結局、会社を辞めてから一ヶ月後の九月末の平日に会うことになった。

 スズキと落ち追うまでも、やはり鏡やガラスを避けて過ごした。

 午前中の空いた時間、また公園まで行ってみようかと思ったが彼女の顔を思い出すと行く気が萎んだ。話したくはあっても、またあの面倒なやりとりを考えると少し足が重くなった。

 また何故か今日は会えそうにもないと勝手に思った。

 昨日の別れ際にも連絡先は聞かなかった。忘れたわけではなく意図的にそうしたような気がした。連絡先を聞くことで、彼女という存在に不純物が混ざるように思えた。そうなってしまえば私の彼女の対する興味は途端に消え失せ、私という人間の輪郭を捉えるためにも彼女への興味が無くなることは非常にまずいことだと直感した。〈会える〉という選択を作らないことで彼女の純粋さを保とうと思った。それが私にとって正しいことであり、また彼女にとっても正しい気がした。


 最寄り駅近くの居酒屋が入ったビルの入口でスズキを待った。日はすっかり沈み込み、暗闇の中をサラリーマンと思われる黒い影がもぞもぞと駅に向かって歩いていた。対岸の彼らの顔が見えないことは私の顔も彼らには見えないことを表していて、昼間よりも張り詰めていた気持ちが幾分か緩んだ。

 自然と視線がスズキの働く店舗のある方へ向いた。黒い一団の流れを左から右へと追う。その中の一人が目の前の横断歩道を歩いてこないか、それを確認する作業を繰り返した。

 何度目かの作業の途中で一つの黒い影がこちらに向かってくるのを認めた。横断歩道を渡る影が車のライトに照らされ、それがスズキであるとわかった。

 開口一番、「寝てたのかよ」私の寝癖を見て笑った。


 店に入ると生ビールとコーラで乾杯した。「相変わらず酒はダメか」口に白い髭を着けるスズキに「これが俺にとっての酒」。大学時代にはよく交わしたこの手のやり取りも、もう何年もしていない気がした。スズキは残りをグイッと空けると近くの店員に今度はハイボールを頼んだ。

「で、どうだい。辞めてみて」

「どう見える?」

「顔色は良くなったよ、マジで。前はもっと、なんていうか、感情が疲れてた」

「去年の十二月か。まあ、うん、そうか。良くなって見えてんなら辞めて正解だったんだよ」

 スズキの顔面に言葉を投げる。口の白髭はとっくに消えて、今度は店員が置いていったハイボールを一口飲んでいた。その動作は、私の投げた言葉をしっかり受け止めてくれているように思えた。毎回会う度に投げる球の加減を間違えたか、と一瞬は戸惑うのだが、すぐにそれがやはり私とこいつの中では正しい力加減であったと胸を撫で下ろすのだった。だからだろう、スズキの前で『僕』が出たことはなかった。それは燿子の特異さとは異なる、スズキの人間味というか、友達感というか、何というか、そういうものがそうさせた。そういう奴なのだ。

「そっちは変わらずか」

「そうね、特に変わりは……ないな。あ、あそこ。うちの銀行の奥。あそこの焼き肉屋が潰れた」

「〈毘沙門〉?」

「そうそう」

「一年半も地元に戻ってきてなかったら、お前の方が知ってるな」

 どうでもいい話ばかりが続いた。交わす一言一言が身体に染み込み、私を酔っぱらわせた。安上がりで気持ちの良い酔いだった。吐く気配なんてこれっぽっちもしない。人は酒を飲まずとも酔えるのだ、とどこか勝ち誇ったような気持ちになった。私の酔いに同調して、店内もガヤガヤと賑やかになっていた。

 不意に騒ぎの中でも妙に輪郭のはっきりとしたバイブ音が耳に入った。音の方を見やるとスズキの目の前に置かれた携帯電話が小刻みに震えていた。背中のディスプレイに表示された何かを見ると

「ああん? 何だよ。悪い、上司だ。ちょっと出てくるわ」親指で店の出入口を指すと席を立った。

 ついこの前までは私も社会人であったはずなのに、スズキの一連の動作が遠い異文化のように思えて奇妙な気がした。酔ってるせいなのか。これは気持ちの悪い酔いだった。

 十分もしないうちにスズキは戻ってきた。不機嫌そうには見えなかったがイスに携帯電話をほおりだす動作はどこか面倒くさそうだった。

「なんかあった?」

「いや全然。書類のことで取り急ぎの確認ってだけ。退勤前に確認したっつうの、ってな」

 ドカッと座るとグラス半分残っているハイボールを飲み干した。通りかけの店員のお姉さんを捕まえると「同じのを」と空けたグラスを渡した。お姉さんは「ハイボールで?」となりだけの確認をして足早に去っていった。

「お前悪くないじゃん」

「そうな」

「言ってやりゃいいのに。『退勤前に言いましたよ』って」

「いやまあ、言ったよ。そこまでストレートじゃないけどな。『あれ、言ってませんでしたっけ?』ってちょっとおとぼけた感じで」

「でもそれじゃ……」

お前のせいにされてるようなもんじゃないか、と食ってかかる前にスズキはどうどうと手で制した。「大したことじゃない」と言ったところでお姉さんが愛想よくハイボールを運んできた。

 一口飲み「お前も経験あるだろ」

 勤めていた頃の記憶の断片が頭に浮かんだ。だが、その全ての場面に私はいなかった。『僕』が誰かと話している場面だけが思い出された。

「……ああ、まあ、わかるよ」

 咄嗟に出た嘘に引っ張られるように視線は自然と不自然に下がり、冷めきった焼き鳥に墜落した。

 視界の端でスズキの手がカバンに伸びているのが判った。テーブルの上にメビウスの箱が投げ出され、視界からふっと箱が消えたかと思えばまたすぐに現れた。

「何かを被ってないと上手くやれないもんだな、社会人って」

煙を吐いたようだった。スースーとしたメンソールの臭いが鼻につく。

 私はその言葉がとても気になった。二つある心臓が両方とも握られるような、嫌な感覚だった。スズキがどんな顔をしているのか、私は確かめなければならない衝動に駆られ、顔をゆっくりと上げた。

 仮面。

 スズキの顔を半分隠していた。左半分が素顔なのに対して右半分がスズキの顔を描いたような紛い品だった。その右半分は私の見たことない気持ちの悪い笑顔で、スズキが口にタバコを運ぶと素顔の部分と連動して、唇を柔らかく、タバコを咥えたのだ。天井に向かって吐かれた煙が顔にかかった気がした。そしてその仮面が気持ちの悪い笑顔をより下品に歪めてケタケタと笑ったように思えた。

 ふいに、スズキも私の顔に『僕』を見ているのではないか、と恐ろしい想像が頭をよぎった。咄嗟に自分の顔を触るがそれが私のモノか『僕』のモノであるか、判断がつかなかった。心地の良い酔いは、いつの間にかすっかり醒めて、頭に周りの騒がしい声が濁流の如く流れ込み、呼吸することを困難にした。

 私やスズキが何かやったのだろうか。

 漠然とした考えが溺れかけの頭に浮かび、じくじくと傷んだ。

 『僕』や『仮面』に異常を感じる私やスズキがおかしいのか。普通ではないのか。いや、スズキはどこかそれを受け入れだしているのかもしれない。だから半分。仮面が半分なのかもしれない。となれば、やはり私だけがおかしいのだろう。町だけではなく、社会からも私だけが残されたのだ。隣の席で騒いでる連中も、店員のお姉さんも、駅を歩いていた黒い影も、そしてやがてはスズキも、皆、世界に融けていく。私だけがその理から逃れ、そのくせそこに戻ることを訝し気ながらも正しいと思い込んでいる。

「おい、どうした。酒飲んでないだろ?」

 スズキがこちらを覗きこんでいた。

「平気か?」

 私は一度だけ目頭を押すと顔を上げた。そこに先の仮面は無かった。

「吐くか?」

「ああ、いや、大丈夫だ。ちょっとしたコーラ酔いかな」

スズキは「何だよ」と笑うとまたタバコを一吸いして煙を吐いた。上に向かった煙は店内の煙と混ざり合ってやがてその境界を無くした。


 店内の賑わいがまだ冷めないうちにスズキの終電が近いという理由で店を後にした。熱気にまみれた体を夜風がさらった。通りを歩く人影も少ない。暗闇に怪しく浮かぶネオンが夜の人間の入れ替わりを案内しているようだった。

 駅の改札まで見送った。構内では酔っぱらったサラリーマンらが今日一日の締めの押し問答に興じていた。私とスズキも周りからはそう見えているのかもしれなかった。

 すっかり酒気をおびたスズキはしかし足取りは乱さずに階段を下っていった。背中が完全に見えなくなるまでその場に立った。気づけば先ほどのサラリーマンの一団も二つに分裂していて既に片方が改札をくぐり、ご機嫌だった構内もすっかりなりを潜めていた。最後の一人になるのが嫌で慌てて構内から出た。


 家までは裏道を通って帰った。あえて誰も通らないような道を歩いてみたくなった。自動販売機で缶コーヒーを買ったが泥水を飲んでいるような味がした。

 足音が反響して遅れて耳に入ってくる。そのせいか、誰かが後ろから着けてくる錯覚を覚えた。しばらく歩いては止まり、後ろを振り返る。これらの動作を繰り返した。繰り返しながら、私は、私が私であることを疑った。疑うことだけがやはり私にできる正しい行動のような気がしてならなかった。こんなことを考えたのは居酒屋での一件が私をそうさせたに違いなかった。

 今この瞬間に、私が私であることを保証してくれるものは何一つ無い。既に私という人格は『僕』という人格になり替わっており、私が発狂して自殺しないように『僕』が『私』という人格を演じていないと誰が言えるだろうか。他ならぬ私が断言できないのだから、誰にもできない。先程の会合も私とスズキの偽物同士が偽物の会話を楽しんだだけにすぎないのではないか、とさえ疑えてしまえた。最悪の疑いでさえも私の癖は〈その疑いは正しいのだ〉と耳元で囁いた。

 逃げるように空を仰いだ。星も、月も、無かった。人工物である街灯だけが今にも消えそうな明かりで、暗闇に私を浮かび上がらせた。

 誰もいない通りの地面にそいつは静かに降り立った。

 私と同じ背格好をしただけの目も鼻も口も耳も全てが塗りつぶされた黒い塊。私はこの化物の正体を知っている。

 化物は無い口を動かして話しかけてきた。

『あんまりスズキに心配かけない方がいいよ。ただでさえ仕事を辞めたことを気に掛けてくれてるんだから』

――関係ない。

『そんなことはない。大事な友達だ。心配もするだろ』

――お前の友達じゃない。私の友人だ。

『君は酷いことを言う。とても同じ人間とは思えない』

――お前は俺じゃない!

 化物に向かって地面に拳を振り下ろした。

 一層濃い液体が影から流れた。どす黒い血にこいつが化物であることの証明を得た気がして、何度も殴った。化物は何か喋ろうとしたが関係なかった。殴って殴って殴って殴って殴って殴って、殴った。


 息が上がる頃、殴り続けた黒い塊は輪郭を消して、いくつもの黒いシミを地面に残しているだけだった。いつの間にか私の横にあった街灯も明かりを消していた。明かりが消えたはずなのに両目はやけに冴え、暗闇を歩くことに何の不安も面倒くささも感じなかった。それどころか数メートル先々にある街灯の明かりが煩わしかった。アスファルトを楕円形にくり抜くそれを避けて歩いた。

 時々、民家の垣根に体がぶつかった。ぶつかっていないはずの手が痛んだ。

 手を手で撫でるとヌルヌルとした感触がまとわりついた。気持ち悪い化物の血だった。早く洗ってしまいたくて歩く歩幅を大きくする。

 身体がしっとりとした夜の空気を切った。遠く、住宅地越しに空を見る。

 星も、月も空からはじき出されていた。

 街灯の無い田舎道が私の存在を宵闇の中へと運んだ。

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