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短編小説 『ティーンエイジャーの憂鬱』(完)

※前回


 遠い。
 朝になっても、夜になっても、変わることない白い天井はどこにも続いていない潔白さだけを私に示した。
 "ココがお前の終着点だ"と。
――ピッ。ピッ。
 規則正しい無機質な機械音だけがこの部屋を病室たらしめた。この病室には他に何もない。あんなに甲斐甲斐しく世話を焼いてきた看護婦もだんだんと気持ちの悪い笑顔を作るようになり、自分の最後の時が近いことを知った。
 いつまでなのだろうか。
 そんなことでさえ老いぼれの自分には知るすべがなかった。そもそも病院側はこういう時に教えてくれるものなのか。彼らに今の私がどのように映っているかは想像に難くない。見えず、聞こえず、立つこともままならない人間にそのようなこと告げるのは酷であろうし、伝えたところで理解できないとさえ思っているかもしれない。。
 しかし、私の頭は彼らが思っているような状態ではないし、最後の瞬間まではやはり対等な人間として扱ってもらいたいと思うのだ。だからこそ、自分の最後について正直に教えてほしいし、気を使った笑顔も止めてほしかった。
 かろうじて現世にとどまることを許されているような異質さは日に日に強くなる。
 そしてそれは今日、今、この瞬間が最も強いのではないかと何故か思った。

 もし人生を見届ける神がいるとするならば、今自分を見下ろしているのならば、一つ言っておきたいことがあります。
 自分が最後にこうやって一人で死にゆくのは人付き合いを怠ったとか、家族を愛さなかったということではないのです。確かに不器用な人間ではありましたが、人並みに生き、働き、愛し、喜び、怒り、哀しみ、楽しんだのです。
 学生の頃は進路に悩みました。自分の将来に不安を感じない学生がどこにおりましょう。しかしその中でも人並みの青春を謳歌し、長い人生に彩りを与えてくれました。
 社会人での憤りは目的と責任を作ってもらっていた学生時代では考えられない、それまでの人生で一番の壁でした。その頃に初めて自ら"ナニカ"をやってみようと思い、行動し、そのおかげもあって生涯を誓うパートナーに出会いました。
 勿論、人生上手くいくばかりではありません。私にしても他人にしても。失敗や間違いを含めての人生であります。それを認めたからこそ私は他者と社会と世界が一つの球体として繋がって存在しているのだと知りました。
 子宝には恵まれず、妻にも先立たれとしても、今自分が一人で最後の時を迎えることになんの後悔も無い事だけは知っていただきたい。

 ガチャ、とドアの開く音が無機質な機械音にかぶさった。見えないところで何か温度のあるものが動くのを感じる。
 『……ん…い。もう……そろ…そ…』
 『……あ。ご家…く……は?』
 なんだかやけに今日は騒々しい。ぼやっとしたいくつかの顔がこちらを覗いていた。
 眺める景色がいつもと違って、なかなか楽しかった。
 どこまで話したか。ああ、そうだ。
 つまりは全くもって悔いのない人生だったと胸を張れるということなのです。

 ――ピ……ピ……。

 騒がしいと思ったそれぞれの音が今度は心地の気持ちの良いリズムに落ち着いた。ふとすると眠くなってしまう。

 『…………』
 『…………』

 ――ピ……………………………………ピ。

 皆、結局は死ぬまで"ティーンエイジャー"をやってるんです。

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