短編小説 『ティーンエイジャーの憂鬱』(六)
※前回
六
横殴りの雨は容赦なくブラウスにボディ・ブローを浴びせた。エクリュカラーの生地にグレイ色の染みをつける。水も滴るイイ女という格言も残ってはいるがデートには相応しい恰好とは言いづらい。少しでもダメージを減らすために傘 の角度を常々調整しながら歩き出した。
デート。
先ほど頭に浮かんだ言葉が棘のように心をチクッと刺した。自らの罪を自覚させるには十分な痛みだ。棘は仮にこれから行われるだろう不貞が完全犯罪に終わろうとも一生涯抜けない痕だと思った。
では、なぜ私は今歩いているのだろう。なぜ待ち合わせの場所に向かっているのだろう。
足が止まる。
前から来る人波が邪魔そうに私を避けて左右に流れた。
何に期待しているのだろう。
何となくの情報から、何となくで知り合い、何となく会うだけの男に何を求めているのだろうか。それは私が今差し出せる唯一の対価を支払ってまでも行う悪魔の契約なのだろうか。
いや、違う。
再び歩き出した。幾分か勇んでる気もしたが気のせいかもしれない。人波は再び一つにまとまり流れ出した。
私はこの行動の結果に意味など求めていないのだ。
今まさに感じている焦燥感や背徳感、これらを感じるためだけに私は男を利用し、幸せを捨てる演技に酔っているだけなのだ。であるならば、既にその目的は達成し、男との不貞を行う必要はないのではないか。勇み足は思考と波長を合わせるように早くなったり遅くなったりした。
これは私とは別の生き物の仕業にも思えた。悪魔の契約は既に成立しており、悪魔が私の足を操っている気がした。どこまでも足を歩ませ、崖の下へ落ちるまで決して止まらない。そんな怖さと愚かさを自分の意志による行動だと思いたくなかった。私の意志なのか、それとも他の"ナニカ"なのかはもはやわからない。
突然視界に意識が戻る。
どうやら待ち合わせの広場に着いたようだった。
ぬかるんだ地面。絶え間なく大きな波紋を作る噴水。暗く落ち込んだあずまやに人影はなく、広場に男がいないことを私に教えた。
「はは……はははは……」
口が開く。私は先ほどの問いの答えが今この瞬間にわかった。やはりこれはただの一過性の衝動でしかなく、またそんな愚行を行ったのは間違いなく自分なのだと悟った。打ち上げ花火の如くパッと一瞬だけその輝きを楽しみ、燃え尽きたあとはただの灰となって地面に落ちるだけ。いや、打ち上がってすらいない。花火にも、夫にも失礼な話だった。
なのに、もう戻れないのだ。
自覚すると途端に左手がだらんと下がり、雨粒は容赦なく頭上に降り注いだ。
言いワケは誰も許さない。私も許さない。結局、行動に起こし、現場までに来た私を誰が慰めてくれよう。"ナニカ"を期待した私の何が未遂なのだろう。
雨は全てを流すなんて嘘だった。こんなに濡れていても、私は汚い。
頬を伝うのは涙なのか化粧なのか。それももはやわからない。
ただ、誰かに拭ってほしかった。
お願いだから。
――。
影が落ちた。地面に映る半円の暗がりは温度を感じさせた。街灯による光を認識したからなのかもしれない。耳に打音が聞こえ、ようやく傘の中に自分がいるんだと思った。しかし、私の傘は左手に握ったままだ。
「どうしたの。こんなところでずぶ濡れで」
傘の持ち主は唐突に私の世界に入り込んだ。一番会いたくなくて、会いたかった人。何て声を出せばこのシーンが動くのかを考えたが、考えれば考えるだけ彼に対しての罪悪感が大きくなった。
「天気回復しないっていうし、帰ろ」
はにかんだ笑顔で彼は私の左手をとった。いつか私を助けてくれた時みたいに。
でも、今回はダメなんだ。
左手に力を込めてその場に留まろうとした。しかし、彼は何となしにそれをいつも通りのようにさらに大きな力で連れ去った。
「……なんで?」
意味の繋がらない言葉が出た。その意味を相手がいいように解釈してくれる期待を私はまだしているのだ。
「うーん? 会社の帰り道だよ。たまたま今日の出先がこの近くでさ。天気悪いから直帰しようかなって思ってたら公園に怖い人いたから」
うーん?という癖は昔から変わらない。彼が嘘をつく時のものだ。
「……帰らない方が良くない? 私さ、今汚いし。ははは……」
「俺だって足元泥だらけだよ。帰って風呂入ろ」
「いいの?」
「何が」
ふっ、と笑う彼を見て、心から"ナニカ"が溢れて止まらなかった。媚諂いの謝罪が何の意味のないことは知っている。自分が都合の良いように解釈したいんだってことはわかってる。それでも彼に『ごめんね』という言葉以外伝えられないと思った。
一歩進むたびに心の中で『ごめんね』を繰り返した。
ごめんね。
御免ね。
ゴメンね。
それが『ありがとう』に変るまで、私は彼とずっと歩いていきたい。
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