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コミュニケーションについて徒然と

タイトルからしてコミュニケーションのとり方の違いがもう表れていると思うんだけど このタイトルを読んで コミュニケーションについて徒然と思っていることを書くんだよね!って受け取る人と 思っていることを書くんだろうね?と予想する人と 徒然と……結局なに書くの??という人と少なくとも3パターン以上あると思う。

(その受け取り方の違いや伝え方の違いが誤解のもとになっていると思うけれど そのことを書くかどうかは分からん笑)

ともかく今回はコミュニケーションについて徒然と思うことを書いてみよう。書いてみる理由はなんとなく思ったから。コミュニケーションって入力しようとしたら『コミュニティ』と出てきたけど コミュニケーションってコミュニティ(共同体)が生まれたから必要になったのかな。

最近は共同体とかって感覚はなくなってしまったのかも知れないけどね。自分は子どもが生まれたら 地域の子どもとして育てるという感覚が地域全体に根付いている状態のことをざっくりと共同体感覚だと認識しているけど 実際はどうなのかな。

全く違うかも知れないけど なんとなくそういう感じで認識している。

だから 協力し合うし 助け合う。

言葉にすると聞こえが良いけど もちろん 色々と面倒くさいこともたくさんあると思う。考え方の違いや受け取り方 伝え方の違いがあるし 受け取るかどうか人それぞれという問題?もある。

だからコミュニケーション能力や共感力が発達したのだろうと思う。

俺はコミュニケーションを表す3ハウス(西洋占星術における部屋のこと それぞれの部屋にキーワードがある)に土星・水星・天王星がある。土星があるハウスは努力しても努力してもなかなか自信をもちにくい分野(部屋)だと言われている。

それは刀のようなモノで何度も何度も鋼を鍛えることで折れない強い刀が出来るように特定のハウスにおいて修練を要求してくるからだ。

自分の場合はそれがコミュニケーションの部屋だった。

なので中々 コミュニケーションについては自信もなかったし 上手くなっている実感も湧いてこなかった。

最近パートナーに占ってもらうと土星と水星が上手く使えているようだったので なるほどコミュニケーションが上達してきたのだと あらためて思った次第だ。

ここでコミュニケーションにおいて 第一の陥りがちな誤解があると感じていて 占い結果が吉だろうと凶だろうと その結果をそのまま受け取るかどうかは自分次第だということだ。これは占いをパートナーや家族 友人 職場の同僚 尊敬する人。誰に置き換えてもいいけれど 誰かがこう言ったから それについてはこうだ。

この考え方だと ずっと苦しいのではないかと感じる。

他人の考えが自分の直観や感覚より優位のままだからだ。

少なくとも自分はそういった状態のときはしんどかった。

今は自分が尊敬している相手の発言でも 違和感やすぐに納得出来ないときは 一旦保留することにしている。自分が間違っているとも思わないし 相手が間違っているとも思わない。ただ違和感があることを無視しないようにする。そんな感じだ。

そのうち違和感の正体が見えてきて 謎が解ける瞬間がくる。それまではもだえたり 苦しい瞬間もあるかも知れないが あの人が正しいのだから 違和感を感じている自分が間違いなのだとするよりはよっぽど良いと感じる。

そういえばコミュニケーションってキャッチボールというけれど 本当にどれだけの人が実感として感じているのだろうか?ちなみに俺はこういうことを考えなしに言う人は嫌いだ笑。そこに実感が伴っていれば納得出来るけれど 本人に実感がないのにその言葉を聞いている時間が無駄なように感じてしまう。(当人も俺に納得させるために話しているわけじゃないかも知れんからお互い様やけど笑)

大切な人の話や聞きたい話の相手なら聞くけれど どうでもいい人の場合は無駄にしか思えんだろうなぁと思う。

俺にとってコミュニケーションとは?と言われるとよく分からんけど 少なくともキャッチボールではないな笑。どちらかというと『謎解き』とか『絡まった編み糸をほどいていく』とかそんな感じがする。もしくはお互いが描きたいタペストリーを編んでいくとかそんな感じ。

もしくはボクシングとかね笑。殴り合いもたまには悪くないと思うぞ笑。

ただコミュニケーション(言葉)は人を傷つけることが出来る道具だし 他人を傷つけるときって 大体 同時に自分のことも傷つけているので そこにお互いの安全のためのルールが必要なのだと思う。

俺はわりと仲のいい人であればコミュニケーションの際に 言い合いになるのもアリだと思っている。感情的になるってことね。ただ書いていて思ったけど お互いがルールに納得している必要があるかも知れないと思った。

どちらかがこの発言をしたら そこで会話をやめるとか。どちらかが疲れたと感じたら休憩とか。そういった お互いの中でのルールがあると良いのかも知れない。

コミュニケーションって話したり 書いたり することが出来たら なんとなく 出来ているように感じるけど やっぱりルールが必要なんじゃないかな。

ルール無用の『バーリ・トゥード』スタイルも悪くないけど ルール無用と言われる世界でも言語化されていないルールがあったりするので やはりルールは必要なんじゃなかろうか。

ほいで コミュニケーションがキャッチボールとかより あやとりとか紐を編むほうが感覚が近いと感じているのは 話している本人も何を話しているのかよく分かっていないことがよくあるからだ笑。

みんな自分は上手くボールを投げている。相手が上手くボール受け取れないと感じていると思うけど そもそも上手くボール投げれていないのだと思う。さらに言うとそれボールですか?って人もいると思う(過去の自分とか笑)

自分の直観だが 話している人が内容について確信があると意氣込んでいるほど 大体 自分のことがよく分かっていないと感じる。逆によく分からないけれど 言語化するとこういうことかも知れないと慎重さを伴って言うときは 内実がある程度 一致しているように感じる。

じゃあ 確信はないのか?というと自分の内面と話す内容が一致している人が話すときはもっと淡々としていると思うのだ。自説を主張するときに相手を無理に説得する必要がないことと分かっているからだと思う。

正直 コミュニケーションにおいて大事なのは 自分の氣もちを自分がしっかりと掴んでることだと思う。他人の氣持ちは他人のものなので想像しても構わないが 想像しても当たっているとは限らない。

だから 本人に確認することが大事。たださっきも書いたけど本人も自分の氣持ちを理解しているとは限らない(むしろ理解してない人のほうが多いと思う)ので確認したからと言って 本心かどうかは分からない。

ただ疑ってもキリがないので 本人の言う通りに言葉通りに受け取っておくのが良いのだと思っている。例えば 職場や家庭で忙しそうな人がいて なにか出来ることがありますか?と聞くとする。もしその相手に「大丈夫です」と言われたなら それ以上なにも言わない しようとしないのが良いのだと思う。

仮にあとで確認した相手にあの人(俺のこと)に「大丈夫です」って伝えたら本当に何も手伝ってくれなかった!と言われたとしても それは俺の問題ではない笑。ちゃんと言えよ。という話だ。

コレは我が身も同じ話でしてほしいことがあれば しっかりと口にしよう。ただ相手が期待通りに動いてくれるかは別問題だけど笑。

コミュニケーションが下手だと言う人やHSPだと言う人は空氣が読めるという人が多いと思う。俺もコミュニケーションが下手だと感じていたし HSPの判定にも当てはまる方だ。でも自分は空氣は読めていなかったと思う。

じゃあ何を読んでいたのか?何を読もうとしていたのか?

それは『人の顔色』だ。

それはなぜ?

怒らせないようにするためだ。

怒らせないように人の顔色を読んでいた。読んでいたけど それも読めているつもりで全然読めていなかったのだった笑。

じゃあ もう人の顔色 読む意味ないじゃん!って話なんだけど 怒らせたくないんだよな。怒らせるとどうなるのか?

悲しくなる(悲しいと感じる)。自分の居場所がないように感じる。縮こまってしまう。頭が真っ白になる。心がキュっとなる。

そんな感じになることが多かった。

この感情というものの前提として 俺は感情は自分で毎瞬ごとに自分で選んでいると思っていて だから 怒らせて悲しいと感じるときなど 何故そういう感情を自分は『選んでいるのだろう?』と質問するのだけど そうすると今まで見えてこなかったことが見えてきたりする。

ここでもう言葉の罠があるのだけど 自分は人を『怒らせて』しまう存在なのか その人がただ『怒りたくて』怒ったのか。これは大きな違いで誤解していると大問題だ笑。

どーせ自分なんてと思っているときは 自分は人を『怒らせてしまう存在』なのだと勘違いしている状態とも言いかえることが出来ると思う。現実は『怒りたい人』が勝手に『怒っている』だけなんだけども セルフイメージが下がっている状態だと それ(怒っている人)とこれ(低いセルフイメージの自分≒どーせ自分なんて)が結びついてしまう。

常々感じていることだけどコミュニケーションが下手だと感じている人の多くやHSPの人の多くは 自分が見ている範囲では 本来は結びつかない それとこれを 結びつけている人が多いように感じる。少なくとも自分はそうだった。(○○だから自分は△△なんです。の○と△って冷静に考えると関係ないのに結びつけること。例:自信がないから○○出来ないなど)

他人がなにかすることに対して 怯えていたし 自分のせいだと感じていた。だから行動原理が責められないように 怒らせないようにすることが第一になり 自分のことは後回しになっていた。

それでいて顔色が読めているつもりだった笑。

今思うとギャグのような話だけど 大真面目にやっていたのだ。

HSPについては触れようか迷ったけれど 自分の場合はHSS型のHSPだと分かったけど 全然そのことが分かっても救われなかったのだ笑。

だからHSPだと分かって救われたと感じるひとが羨ましいと感じることもあった。自分はそうではなかったから。

今はそうではない自分で良かったと思うし そうではない自分が発信する意味もあるかも知れないと思ったので HSPについても触れることにした。

誤解されても言うことにするが 自分はその概念によって救われたくなかったのだ。誤魔化したくない何かがあった。HSPが繊細だと言われていることに何か違和感がある。繊細で弱い人というイメージは果たして正しいのか?自分は感受性が強いとは思うけれど 繊細(で弱い人)ではないと感じる。

そもそも世の中に真の意味で弱い人や助けが必要などいないと思っている。むしろ自分が弱い人や助けが必要な人の存在を求めていないだろうか?そういったことを自分の心に問う力が求められていると思う。このことを自分は誤魔化のない 誠実さだと感じている。

もちろん現実的にサポートが必要な人もいるだろうけど それは対等な立場から行うのが自然だと思う。相手を弱い人 助けがないとダメな人 自分自身が常に相手をそのように思っていないだろうか?

そこに対して自ら心のメスを入れないといけないと感じる。やり過ぎてもしんどいだろうから 加減は必要だろうけど 全く無視してしまうと 自分のことが自分で分からなくなっていくように思う。

コミュニケーションについて書いているつもりだけど 感情について 考え方 モノの見方について 心のことについて 色々とまとまりがあるようなないような文章になったね。納豆みたいでいいのかも知れないな笑。

コミュニケーションのコツを今の自分が一言でいうなら『当たって砕けろ』かな笑。案外 砕けないから大丈夫だし 砕けても まぁまぁ大丈夫w。責任は取れないけどさ 世の中や身近な人のこと 自分自身のことをもっと信頼して良いんだと思うよ。

と自分にも言い聞かせているのだ笑。

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