TRPGシナリオ製作術 【ホラー脚本で1番使われるストーリー展開】

今回はホラー演出についてのお話です。CoC、エモクロアなどなど、TRPGシナリオ中にホラー演出をしたいことも多々あると思います。そして、ホラーが題材に組み込まれることも多いはずです。
では、肝心のホラーとはなんでしょうか?


〇ホラーとは題材である

題材そのものについては、過去記事に書いた『TRPGシナリオ製作術 【謎やテーマやコンセプト! 6個の技術紹介】』や『TRPGシナリオ製作術 【コンセプトを構成する3つの要素】』で解説していますので、ご覧ください。

・恐怖を"題材"にした作品群

TRPGシナリオに関わらず、物語を考える上で題材という考え方は、意識的にも無意識的にも必ず存在します。そして、ホラーやコメディというジャンルもまた題材として扱われます。
その中で、ホラーとサスペンスは恐怖を題材にした作品のことです。そして、ホラーとサスペンスは微妙にニュアンスが異なり、ホラーは超常現象的恐怖、サスペンスは人間の怖さ、いわゆるヒトコワというジャンルであることが多いです。たまにホラーサスペンスと銘打たれていることもありますので、上記のような分類に大きな意味は無いかもしれません。

・恐怖は人間として最も身近な感情

原始時代、人類が火起こしを発明した直近の理由としては、生命維持という気持ちがあったはずです。火を起こすことが出来るようになった人類は、食材を調理することで体調不良を回避し、野生動物からの襲撃を回避し、寒さで死ぬのを回避出来るようになりました。
この時代の人々にとって、炎は死を遠ざける現象だったわけです。

逆に、暗闇は恐怖でした。闇の中という状況は、危険に対処しようがありません。足元が確認出来ないので転倒する危険がありましたし、大多数の蛇は毒を持っていますが、暗闇の中ではどこに蛇が居るか分かりません。
闇の中で人類は一切の行動が不自由するのにも関わらず、動物たちは人類に向かって来ることが出来ます。
この"暗闇"が原初の恐怖というものです。

原始時代の人類にとって、暗闇を照らすことが出来る火は科学的に何ら解明できていません。それでも、火を使う事で多くの危険を回避できました。そして、多くの危険は闇の中で発生するものでした。

実は、文字通り発生という言葉が重要で、動物や虫もまた"魂が無生物に吹き込まれて自然発生するもの"だと考えられていました。植物を荒らしてしまうネズミも、干し草の束から生まれるという考え方を紀元前の哲学者アリストテレスが提唱しています。

アリストテレスの居た時代は原始時代よりも更に文明化した時代ではあるものの、この当時最強レベルの哲学者であるアリストテレスがこう考えていたという事が重要です。
人が観測していないところで、魂は神の手によって無生物に吹き込まれ生命となり、月より向こうの空は天上界であり、星々のさらに向こう側には"神"とも呼べる『不動の存在』が居て、地球の周りの惑星や星々を神がグルグルと回転させている……という考え方がある人類にとって、観測できない世界そのものは神様パワーという超常現象が司る部分であるというように解釈していました。
そして、当時の人々はアリストテレスの上記の考察を正しいと認識していました。

原始時代から"暗闇"を恐れた人類は、宗教的な物と事実の観測が合体した研究結果として"超常現象"を受け入れていたわけです。これは現代人の我々からしたら多くの誤りが含まれた研究結果ではありますが、この土台が"ホラー"の土台であると言えるでしょう。

・じゃあ現代人がホラーを感じるのはおかしくない?

では、かなり研究が進んだ現代人の我々はどうでしょう。
魂という概念は科学的に全く立証できておらず、月の向こうは天上界でなく宇宙であり、暗い所があれば蝋燭でもミラーボールでも照らそうと思えばいくらでも照らせる現代人にとって、どうして超常現象的なホラーが恐怖であり続けるのでしょうか。

ホラー映画に登場する幽霊や怪物的モンスターは科学的に全く立証できていません。動物が放射線を浴びたことによって化け物になるかどうかと言われれば、ゴキブリですら簡単に致死量を超えてしまって、すぐに死んでしまうことが分っています。
水爆実験で生まれてしまったというゴジラや、空を飛ぶサメや電気を操るサメも観測出来ていません。幽霊を視ることが出来る人は何人かいらっしゃいますが、UFOの方はNASAが研究結果を発表してくれるそう(現在日付は2024/8/25)ですので、幽霊より宇宙人の存在の方が先に立証できるかもしれません。
遠い宇宙にいる地球外生命体の方が先に立証できる可能性があるのに、身近にいるかもしれない幽霊は立証の糸口すらつかめていません。ポルターガイストや第6感、超能力の類も全く科学的に立証できていません。

実は、人類はとあるタイミングで『超常現象』の恐怖を『暗闇』ではなく『理解不能の領域』に感じ始めました。科学的に解明できないことに恐怖を感じるようになったわけです。幽霊やモンスターに感じる恐怖を、『未知の科学的現象が残されている恐怖』と言い換えることが出来るようになりました。
ここまで科学が進んでなお、幽霊やモンスターが"全く存在しないと言い切れない存在"であり続けるのが"恐怖"なんです。
幽霊が苦手な人にとって「幽霊なんているわけないじゃん」という言葉が全く刺さらないのは、「そんなの分かんないじゃん」という言葉で反論出来てしまうからです。
分からないのが怖い、これが現代人にとっての恐怖です。将来が怖いのも当たり前の話です。その人の未来は誰にも分からないからです。

・じゃあ現代人が"暗闇"を怖がるのはおかしい?

では、暗闇に対する恐怖が全く無くなったかと言われれば、それもまた少し違いそうです。暗いところだからこそ、人は霊的な存在を想像して恐怖してしまいます。夜眠ろうと思って布団の中で目を閉じたとき、「もしかしたら今まさに自分の頭の上から幽霊がこちらを見ているかも」と、一度は思ったことがあるのではないでしょうか。
逆に太陽が真上に上っている真昼間の屋外で「もしかしたら今まさに自分の頭の上から幽霊がこちらを見ているかも」と想像している人は流石にかなりの少数派のはずです。
この違いはなんでしょう。

冷静に考えてみれば、昼夜で幽霊が人前に姿を現すかどうか変化するのは不思議な話です。もし仮に幽霊が存在したとして、どうして真昼間に幽霊は人前に出ないと多くの現代人は勝手に決めつけてしまっているのでしょうか。それこそ、霊が視える人たちからすれば、昼間の往来にも『人の中に幽霊が混じっている』という経験を話す人がいらっしゃいますが、このような経験談――ある意味、『霊視出来る人の経験に基づく分析』が存在しているにもかかわらず、多くの現代人はなぜか暗闇に幽霊を見出します。

実は『暗い所には幽霊が出る』を知識として得てしまった大多数の原因が、『ホラー作品でそのような描写を読んだ、または見た』からではないでしょうか。

・つまり、原初のホラー描写だから怖い

実は、ホラー作品が存在したから人々はホラーを感じられるわけです。なんとなくヘンテコな理屈に聞こえてきますが、不思議なことではありません。ホラー作品は大昔から存在しています。黙示文学と呼ばれる宗教的な文章などにもホラー描写がたっぷりとあります。

黙示録において、宗教的に罰せられる人々はありとあらゆる目に遭います。『獣が神の民と戦うために海の中から上ってくる。いのちの書に名が記されていないものはこれを拝む』、『獣のしるしを付ける者、獣の像を拝む者に悪性のはれ物ができる』、『人間が太陽の火で焼かれる。それでも神を冒涜し、悔い改めない』、『サタンが獣や偽預言者もいる火と硫黄の池に投げ込まれて、永遠に苦しむ』、『最後の裁き:いのちの書に名が無い者がすべて火の池に投げ込まれる』、『神が人と共に住み、涙をぬぐわれる、死もなく、悲しみもない。そこにはいのちの書に名が書かれている者だけが入ることが出来る』、『警告:この書物に(記述を)付け加える者には災害が加えられ、(記述を)取り除く者からはいのちの木と聖なる都から受ける分が取り上げられる』とあります。

キリスト教に関してはド素人ですが、ド素人なりに要約する(要約すると筆者は"警告に抵触"するので災害〈火と硫黄の燃える池に投げ込まれる〉が加わりますし、いのちの木と聖なる都から受ける分が取り上げられます!)と、いのちの書というのは多分、善い行いをして新天地に行くことが出来る人々のリストということになるでしょう。では、悪い行いをした人々は、すべて火の池に投げ込まれます。何なら偽の預言者はサタンが火と硫黄の燃える池に投げ込まれて、永遠に苦しんでいる時、サタンより先にもう投げ入れられた後みたいです。
黙示録に記述を付け加える者、つまり筆者のような存在は偽の預言者ということになり、火と硫黄の燃える池に投げ込まれます。
恐ろしい罰を受けることになるわけですが、悪人には恐怖を与えられるわけですね。

ついでに、『海の中から出てくる獣』はもうクトゥルフ神話的解釈ではクトゥルフ様なのではないかと思いますが、クトゥルフを様付けしている筆者は『獣の像を拝む者』ということになり、悪性の腫れ物まで出来る予定です。

こうして、脈々と恐ろしい描写が含まれた文章が紀元前から現代まで永遠と文章化して残っていくわけです。
日本でも室町時代、江戸時代に怪談話は落語など作られるほどの人気ジャンルでしたし、古代ローマでは幽霊たちのための街まで作っていました。
その過程で、幽霊は決まって真夜中に出てくるという描写が固まります。日本では丑の刻、西洋では0時から1時までの間がホットスポットであるというのが定番になります。つまり、暗闇に登場するのが定番になったのは、これらの怪談話が元になっているわけです。これはまだ、人類が"暗闇"に恐怖を感じていたからこそです。

・サスペンス

サスペンスは『人が怖いことを取り扱うジャンル』として冒頭に書きましたが、こちらの恐怖は『原初の暗闇に対する恐怖』ではなく、『戦争の恐怖』ということになります。

人類は、敵とみなした相手には、なんでもやってしまいます。石だって投げるし、暴言だって投げつけます。弓矢があるなら矢を撃ち、剣があるなら切りかかり、無人航空爆撃機があれば対地ミサイルをブチ込みます。
ミサイルの爆発による人体の損傷具合は、投石の比ではありません。破片による物理的な裂傷、爆発時に発生する衝撃波による筋肉組織、内臓の損傷、熱傷、衝撃による2次的な打撲と骨折、周囲の味方が爆散して死亡、重症を負う精神的ショックなどなど、人類が人に与えらえる瞬間ダメージのなかでもトップクラスで酷い攻撃です。
人類は、敵とみなした相手に、こんな兵器をブチ込むことが出来ます。

敵対した人間に対して、恐怖を覚えるのは当然のことです。相手が本気で殺しにかかってくるのは、恐怖ですよね。
この流れの中で、『他者から敵意、悪意を向けられる』ことそのものが恐怖の対象となっていきました。それがいわゆる『サスペンス』です。
サスペンスは"緊張"を意味する言葉ですが、過去記事で何度も出てきた『緊張と緩和』テクニックのお話です。人は緊張したくないのですが、緊張が無いと物語にならない。サスペンスは『緊張と緩和』テクニックにド直球で向かい合うジャンルですね。

・スリル

対して、スリルはどうでしょうか。
実はこちらは正確な意味だと"自己の身に危険が及ぶ事による恐怖"となりますが、現代においては文脈的に"快感"のお話で使われるシーンが多いです。
一部の人々が"スリル"と"快感"を結び付けてしまう現象そのものは心理学的なお話らしいのですが、こと物語においては、これを利用することになります。

そもそも、緊張と緩和テクニックの中で、主人公の身の危険を緊張とするシーンは大量にあります。TRPGであれば、特にゲーム的に自然で普遍的なシーンです。
しかし、これは物語に没入した観客たちに、スリルを疑似体験してもらっていると言っても過言ではありません。

・ホラー小説の元ネタ、ゴシック小説

では、『幽霊』や『怪物』などの超常現象的存在が登場してくる"ホラー小説"の元ネタはというと、1800年代ということになります。

・とある意味深な予言が伝わるお城で、結婚式中に"祟り"が発生して婿が死んでしまった状況で、嫁としてやってきた主人公の女の子イザベラ姫は、あろうことか義理の父親になるはずだったマンフレッド王から結婚を持ちかけられます。流石にそんなの嫌なので、義理の母親になるはずだった王妃ヒッポリーテや義理の姉妹になるはずだったマチルダ姫たちと頑張って怪奇現象を回避し、マンフレッド王から逃げる『オトラント城奇譚』は1764年発表とのこと。

・カーミラという綺麗な女の子との出会いから終わりまでを、主人公の女の子ローラの日記風に綴った『カーミラ(1872年)』は、なんと『吸血鬼ドラキュラ』よりも先に公開された吸血鬼モノでありながら、ローラとカーミラの百合小説でもあるという高レベルっぷりであり、『女吸血鬼と言えばカーミラ』と呼ばれる作品です。

・吸血鬼といえば狼男ということで、狼男は紀元前から既に歴史に登場しており、ローマ時代には『人間の末期症状としての症候群』という扱いもされていたりします。つまり、割と早い段階から精神的な疾患の可能性、認知症などの症状の一部という可能性に気付きながらも、中世ヨーロッパでは常に超常現象として恐れられていました。
作品としては『狼男(ビスクラヴレ)』という小説が12世紀に登場しています。王にも民にも愛されるビスクラヴレ男爵が『狼男になっちゃうこと』、『人間に戻った時のために服を隠していること』を妻に告白しますが、妻は怖くなって浮気していた騎士と共謀、男爵の"隠してある服"を奪ってしまい、人間に戻れなくなったビスクラヴレ男爵が大変な目に遭う小説です。

・化け物といえばこの男、『フランケンシュタイン』は1818年とのこと。科学の力で生まれた改造人間が徐々に制御不能になっていくのは、化け物的ホラーとサイエンスフィクション、つまりSFまで題材に盛り込まれている作品だったりします。
科学が発展してきたのと同時に、科学という『なんだかよく分らないもの』という"未知の恐怖"に対して、人類が徐々に実感を帯びてきた時代だから生まれたホラー作品ということです。

・フランケンシュタインといえばキョンシーですが、こちらも有名な『西遊記』(16世紀)に登場しています。
『殭屍(キョンシー)』は死者を安置していると突然動き出し、すぐにまた硬直してしまう現象とのこと。妖怪として神通力を得た場合は空まで飛び始めるという記述もある様子でありながら、土木従事者が死んでしまったとき、道子(道教の聖職者の人たち)が遺体を家まで運ぶために死体を歩かせたという伝承までありますので、もちろん16世紀以前から信じられていたポピュラーな化け物ということになります。
(吸血鬼と狼男とフランケンシュタインとキョンシー、興味深い組み合わせですね)

これらの小説は(西遊記はおいといて)当時『ゴシック小説』というジャンル名で呼ばれていましたが、今日のホラー小説の始まりと言われています(諸説あり)。
こういった作品群が後のホラー小説に影響を与え続け、現時点では空飛ぶサメが登場するパニックホラー映画まで作られることになります。
もちろん、ラブクラフト氏が影響を受けた作品もあることでしょう。やっぱりヨハネの黙示録の『獣が神の民と戦うために海の中から上ってくる。いのちの書に名が記されていないものはこれを拝む』という描写は結構クトゥルフですよね。

〇ホラー映画のストーリー展開(ストーリータイプ)

次は脚本技術書として名高い『SAVE THE CATの法則』の第二弾となる『10のストーリー・タイプから学ぶ脚本術 ──SAVE THE CATの法則を使いたおす!』に記述されているストーリー展開(ストーリータイプ)を引用させて頂きます。
紹介されているストーリータイプ10種類のうち、主にホラー映画でよく見られるストーリータイプを紹介します。
映画脚本用の技術書ではありますが、この技術書は漫画やアニメ、TRPGシナリオにも応用が効きそうな素晴らしい技術書なので、興味のある方は読んでみて下さい。

 ジャンルの素晴らしい世界へようこそ! ジャンルとは何か? 同様のパターンと登場人物を持つストーリーのグループだ。そして、"家の中のモンスター"は最も古く……原始的なジャンルの一つなのだ。
(中略)
 ――駐車場にぼんやり立って休憩していたときだ。ジムがラッキーストライクをふかしながら気だるげに言った。
「『エイリアン』(79)と『ジョーズ』(75)は同じ映画だって知ってるか?」
 これには驚いた。

10のストーリー・タイプから学ぶ脚本術 ──SAVE THE CATの法則を使いたおす! 著:ブレイク:スナイダー,  訳:廣木 明子, 2018/12/1, p.28.

〇家の中のモンスター

名前にモンスターとありますが、モンスターに限りません。キーワードは『モンスター』、『家』、『罪』です。

ここでのモンスターとは要するに、超常現象的な存在だったり、単純に野生動物だったりです。もしくは、殺人鬼の場合もあります。なので、ここでのモンスター要素で重要な点は『どのようなモンスターなのか』ではなく、『主人公にとって恐怖の対象』であることです。つまり、見た目ではなく中身が重要です。
この家の中というのは、言葉通り家の中だけではなく、限定された空間であることです。街のど真ん中だったとしても、周囲から助けが来ることが考えられない閉鎖された街であれば『限定された空間』です。
この"周囲から助けが来ることが考えられない"のが重要な点です。
もし仮に街のど真ん中でクトゥルフが暴れ始めても、一瞬で宇宙警察の戦艦が10隻ぐらい助けに来てくれて、戦艦1隻がそれぞれ『ガンマ線バースト砲』を連射したとしましょう。流石に宇宙レベルのダメージが出そうなガンマ線バースト砲のダメージはクトゥルフの多宇宙次元的筋肉の装甲値を超えるでしょうし、これではクトゥルフも数ラウンドしか生き残れずに、灰塵に帰すことになります。
罪とは、人類が犯した罪のことです。人類が犯した罪もまた星の数ほど存在するのですが、『その罪のせいでモンスターが生まれた』というストーリーであることが重要です。

上記の重要な点である『主人公にとって恐怖の対象』、『限定された空間』、『その罪のせいでモンスターが生まれた』を組み合わせてみると、何らかの人類の罪のせいで生まれてしまった恐ろしいモンスターと主人公(たち)が、限定された空間に閉じ込められてしまう展開ということになります。

上記のストーリー展開って、めちゃくちゃ観たことないですか?
この展開の映画は数えきれないぐらいあります。ですが、パッと思いついた映画があったとしたら、それはだいたいホラー映画なはずです。なんといっても『モンスター』要素が前面に押し出せるストーリータイプなので、ホラー映画のテンプレートとして使われます。
例えば散々サメと言ってきましたので『ジョーズ』、殺人鬼ジェイソンが登場する『13日の金曜日』、先ほどのゴシック小説の中だと『オトラント城奇譚』でしょうか。
最近のホラー映画では、『ライト/オフ』などが当てはまります。
漫画やアニメに例えられるものを探して見ましたが、実は作者的にピンと来る物がありません。漫画やアニメだとホラー+バトル要素だったり、サスペンス要素の強い作品が多い印象であり、『家の中のモンスター』的な展開は短編や読み切り漫画にあるのかもしれませんね。

例:13日の金曜日パート2

上記の重要な点と照らし合わせてみましょう。
『13日の金曜日』は『昔キャンプ場でいじめにあって消息不明になった少年』である『殺人鬼ジェイソン』が『夜のキャンプ場』でキャンプ指導員候補生たちに襲い掛かる、という展開です。

人の罪とは"いじめ"の部分です。ジェイソンは先天的に顔が崩れており、その容姿が原因で同級生にいじめられていた中で、問題のキャンプ場ではズタ袋を被せられて池に投げ入れられるという"いじめ"まで発生しており、その場にいたキャンプ指導員の男女は"愛し合うのに夢中"でジェイソンがいじめられて池に投げ込まれる様子を一切確認していなかったという最悪の状況でした。
結果として、ジェイソンは溺水して消息不明。キャンプ場はこの事件をうやむやにして、ジェイソンの母親はこの出来事によって精神的な症状を抱えてしまいます。『昔キャンプ場でいじめにあって消息不明になった少年』というバックボーンがあるジェイソンというモンスターが生まれたわけです。

そして、キャンプ指導員に憎しみを持った『殺人鬼ジェイソン』が、キャンプ指導員候補としてキャンプ場にやってきた浮かれ気分の男女たちを次々に殺戮していくのが、実は『13日の金曜日』のパート2の話だったりします。パート1の方は、ネタバレせずに伏せておきます。

殺されていくキャンプ指導員候補の若者たちに罪は無いかもしれませんが、ジェイソンの立場は確かにちょっと可哀相だなぁ……と思えてしまうところが、『その罪のせいでモンスターが生まれた』点の、面白い所です。

この罪悪感というものは物語の登場人物たちだけではなく、視聴者も同時に感じる罪悪感であることも重要です。いじめに加担した人、加担まではしてなくても、見て見ぬフリをして過ごした人、過去にそういった経験のある視聴者たちの罪悪感を抉りにきている作品だとも言えますし、実際に"いじめ"にあっていた視聴者たちは、ジェイソン側に同情したくなります。
残酷な同級生たちによるいじめの辛さだけじゃなく、救いの手を差し伸べるべき周囲の大人たちにですら無視されてしまった悲しみが、ジェイソンの殺人の動機になります。
"いじめ"という社会問題を題材にした、かなり社会的なメッセージが込められた作品であると同時に、候補生たちが残酷に殺されていくスプラッタ作品である"理由"というものが、何となく見えてくるのではないでしょうか。
ジェイソンが夜にこっそり『苦しまずに死ぬ毒薬』を、キャンプ候補生たちの首に注射器でプスッと刺していく映画ではない理由ということです。

『夜のキャンプ場』が閉鎖空間として扱われているのも注目です。
候補生たちは徐々に一人ずつ殺されていく感じで、後半ようやく候補生たちの前にジェイソンが姿を現します。その状況は、もう逃げなきゃ殺されるデッド・オア・アライブな状況に突入しています。
もし、序盤でジェイソンの殺人が発覚してしまえば、キャンプ指導員候補生たちは散り散りに逃げることができます。普通に考えると、夜のキャンプ場は解放された環境ですよね。
これを閉鎖空間と見なすのは、物理的な閉鎖空間という話ではなく、視聴者から見た閉鎖空間だからだと言えます。

キャンプ場では何事も無い限り、夜にワザワザ街に出ていくようなことはしません。だからこそ、ジェイソンはこっそり一人ずつ殺す作戦が計画出来るわけです。キャンプ場に来て、夜まで酒を飲んで、眠ったりなんだりして、家に帰ろうとするその期間、キャンプ場が"精神的な閉鎖空間"になりえるんですね。これは視聴者が物語に没入するからこそ発生する閉鎖空間です。

もしこれがバーでのお話だったら、客は酒を飲んで満足したら出ていくことになります。これだと、出入り口や窓全てが封鎖でもされていない限り、非常に短い時間しか滞在期間になりませんので、閉鎖空間とは言い難いです。
もしこれが家の中なのだとすれば、生活環境の一部であるということが精神的な問題を引き起こします。もし家に化け物が出たら、家から出て警察に助けを求めるのが普通です。ですがもし、警察どころか誰も化け物の存在を信じてくれなかったとしたら……自分の家という"パーソナルスペース"と"帰る場所"が同時に喪失するという、とてつもない心労が主人公と視聴者に発生します。
なので、『家の中のモンスターと2人っきり!』という状況が一番"心に来る"定番の展開なんですが、そういう作品もたくさんありますよね。

例:ジョーズ

ジョーズは例題としてポピュラーな展開です。
『独立記念日』だからどうにか上手く対処しようとしたビーチ関係者たちのせいで、『超巨大なホオジロザメ』が『海』に居る観光客やサメハンターたちを片っ端から食い殺す物語です。

ジョーズは人類の罪が直接生み出した化け物ではなく、ただ大きすぎるホオジロザメです。ですが、最初の犠牲者が出た時点で、関係者たちは大きく選択を間違えます。
それは、『独立記念日という稼ぎ時』だから『専門家の話を無視してビーチを開放』し続け、『サメに懸賞金をかけて素人までサメのハントに参加する』土壌を作るという、一連の流れです。

サメに食い殺されてしまった人がいる時点で、ビーチを閉鎖するという選択肢に至らなかったのは、金が稼げなくなるからというのが強欲な罪だということです。
人がサメに喰われたぐらいでビーチを閉鎖するだなんて大げさな……と思ってしまった視聴者は流石に当時にもあまりいなかったかもしれませんが、ことお金が関わる問題事に関してはかなり鈍感になっている人々が一定数いて、そういった人々への怒りと警鐘となります。
わざわざこの程度で。これぐらいどうってことない。ちょっとぐらい大丈夫。こういった油断を油断だと気付かぬ間に大事に発展してしまうことは世の中いくらでもありますし、ジョーズが公開された1975年のアメリカの人々も、一部の資産家たちが巻き起こす問題に怒りを覚えていたことでしょう。

でも、頭の中の悪魔に耳を貸してみると、実はとんでもないビジネスの匂いがします。
サメ一匹ハントしたら3,000ドル(2024/8/25現在だと日本円にして433,095円、ジョーズが公開された1975年だと912,000円!?)だと言われて、漁船かクルーザーを持っていて、ライフルも持っているとしたら……サメハンターが生業じゃなくても「いっちょサメをハントしに行ったるか!」と、なりませんかね?

海が閉鎖空間として扱われているのもまた、サメが題材にあるからこそです。
漁船やクルーザーがあれば陸まで泳ぐ必要はないし、溺れる心配もないです。そのような状況では、海の上は快適であり、とても閉鎖空間とは言えません。でももし、超巨大なホオジロザメのタックルで船底に穴が空いてしまったらどうでしょう。
そもそも、ただ観光を楽しんでいる人にとっては、海で泳ぐのは遊びの一種で当然の行為です。しかし、人よりも遥かに速く泳げるサメ相手では、海に漂っている時点で閉鎖空間も同然です。沖とはいわず、ビーチから数十メートル離れただけでも、誰もがすぐに駆け付けられる状況ではありません。そんな状況で足に噛みつかれてしまえば、大声を挙げても助かる見込みはゼロです。
海というとてつもなく開放的な場所が、一気に閉鎖空間になってしまう緊張感とギャップは、まさにジョーズの上手い所と言えます。

〇まとめ

『家の中のモンスター』というストーリー展開以外でホラー演出をしてはいけないかと言われたら、全くそんなことはありません。このストーリータイプを学んだうえで重要なのは、物語には決まったテンプレートがあることを察知し、他者の作品を分析し、自分に取り込むことが重要です。
これは映画脚本だけじゃなく、物語全てに共通することであり、物語全てに応用の効く話です。

人の真似をするのではありません。
『このシナリオやべぇ面白いな!』と思ったとき、その時に『やべぇな』という感情だけで終わらせるのは勿体ないです。
そのシナリオの
『どこが面白かった(つまらなかった)のか』
『この作品のコンセプトがどこなのか』
『そのコンセプトを楽しめたか』
『この作品のテーマはなんだったのか』
『そのテーマに何を思うのか』
『自分だったら、この作品をどう改変するか』

(興味のある方は『10のストーリー・タイプから学ぶ脚本術 ──SAVE THE CATの法則を使いたおす!』を買って)『ストーリータイプ10種のうち、どれに当てはまるだろうか』
考えて、分析してみましょう。分析に正解は存在しませんので、自由に分析してみてください。

・分析から個性を育む

実は、分析する時にも個性が発揮されます。他人の作品を見た時に覚えた感情は、その作品でフィルターした"自分の感性"を見ていることになります。
その作品のどこが面白いと感じたのか、作者と同じ気持ちである必要は無く、世間的大多数側が正解なわけでもありません。当たり前ですが、『つまらなかった』という感情も大事な感情です。
その作品から感じ取った感性が育まれて、個性になっていきますので、"人の真似"、"パクリ"だなんて心配をして、他者の作品を分析することを否定してはいけません。他者の作品にネガティブな感情ばかり感じてしまうことを悪いことだと思う必要もありません。

他人の作品を観てインプットする、アウトプットするという言葉も良く聞きます。
ですが、実は他人の作品をインプットしているのではなく、他人の作品を観た時に感じたあなたの感性をインプットしているという事に気付けば、世の中の他人の作品たちが、より一層面白く重要な物であることに気付きます。

他人の作品をシャットアウトするのは簡単です。
でも、何のためにシャットアウトするのか、目的を明確にしてください。ただ明確な理由も無く、他人の作品を分析することを止めるのは、良いことだとは思えません。

そして、実はこの記事を読んでどう感じたかも大事な分析です。ネガティブかポジティブかは関係ありません。この記事で感じた感情そのものは、間違いなくあなたの個性として成長していきます。
今後も『どう感じたか』を大事にしていきましょう。

この記事が、読者様の個性の一部になれば幸いです。

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