さようなら、「嫌われて当然」の思い込み
なんてことだろうか。
他人に「嫌いだからやってるわけじゃない」などと考えておきながら、とあることで、「自分は嫌われてるからこんな状況なんだ」と思ってしまった。自分のことはどうなんだよ。ということに気付いてしまった。
能力の低さに泣きたくなるが、泣いたからといって能力が上がるわけじゃない。落ち着いて考えていこう。
好き・嫌いの話ではあるけれど、そういう話が先に出てくるのは小学生で卒業したほうがいい
この記事で、僕は僕が困っている人に対して
「別にその人が嫌いだとか、好きだとかではない」と書いている。問題とその人間を好き嫌いは別である、ということを言いたかった。
文章で書いている困った人は、僕たちのことを陰で「俺のことを嫌ってるから仕事について何か言われるんだ」と被害妄想を膨らませているらしい。
でも、その人が避けられているのは本来やるべき仕事ができないからであって、その人の人格の評価は仕事内容で変動するものだ。たしかに最終的に行き着く「嫌い」という点ではあってるかもしれないが、そもそもに順番が違う。
その人の思い込み「嫌いだから→仕事を嫌がられる」
僕たちの評価「仕事ができないから→嫌いです・避けたいです」
クソな人間でも、職場であれば、職場であればの話だが、「仕事ができるからしょうがない部分もあるか…」と我慢できる。頼れるところがあるなら、頼るしかないから我慢するだろう。(それでも僕の場合ははっきり言ったりするのだろうが)
僕が困っている人は、仕事はしないし、他人任せで自分ができること(悪い意味であり、仕事ではなくやらなくても良いことをやってるのを大仰にやってやったと語る)しかやらないので、あの人はいなくてもいい、と評価されてしまうのだ。社長以外の社員からは。
【理由を考える】
僕は最近のnoteで何度も書いていることではあるが、そのように評価を反転させる理由として、「自分が仕事ができない事実」を受け止められないからではないか、と考える。
周りの反応の原因を自分の能力のせいにできないのだ。
自分の能力の低さを直視できない。だから、先に「好き・嫌い」が見えてしまう。ピントが合ってないのだ。だから、好き嫌いしかみえないのだろう。そしてその後に自分が抱える問題を後付けしている。だからいつまで経っても被害者意識であり、周りのせいにしているから仕事の能力も上がらず、周りの評価も上がらないのだ。
というか、「嫌われてるから」の被害者意識の方が楽でお手軽で幸せなのだと思う。上記に小難しくわかったようにかいたけど、僕を分析するとこう出てきた。誰かのせいにしてると楽だから。自分は守られて幸せだから。自分の弱さ・能力の低さを見なくていいから。
だからピントが合わないではなく、合わせられないのだ。ピントを合わせたら自分の本当の姿に目が焼き爛れてしまうから。
【小学生で卒業した方がいい】
小学生ならば、「あの子が好きだから〇〇する」「あの子は嫌いだから〇〇だ」と、好き嫌いが言動の理由になり得る。
しかし、小学生までだと思うのだ。年とか関係ないと常に僕は思うが、この、「現在の結果(好き・嫌い)は自分の行いの上で発生している」という事実は人と付き合う上で身につけていた方がいい処世術だと思う。
というか、成長過程で自然と身につくものだとは思うのだが。身に付けるのが当然だと思うのだが。
やはりおそらく、人や親、環境でなにかしら原因があり身につけられなかったような人が、僕や職場の困った人々のような人が「メンヘラ」と化し社会にご迷惑をかけるのだろう。
処世術、と書いたのは、身につけてないと苦しいだけだからそう書いた。
「嫌われてるからこんな状況なんだ」と無意識に考えていることに気づいた今日
いつも「嫌われているから」「嫌われる存在だから」の前提で生きている自分は、本当にただただしんどい。
今日も、卑屈に「嫌われてるからこんな状況なんだ」と考えていた。
そして、考えていて、そんな考えを持ってることに、今日自覚したのだ。他人のことを言えない。自分を棚に上げた記事を書いている場合ではない。
自分には自分は嫌われて当然というスキーマがある。歪んだ認知だ。
そのため、何か起きる度に、何かある度に自分を過度に責めたり、まわりの行動にない頭を働かせて懸命に原因を探ろうとしたり、周りが憎くてしょうがなかったり。
だからさっき気づいて逆に、楽になったのだ。
「嫌われてるかどうかじゃなくて、自分の努力が足りないだけでは?」と
そう思えた瞬間、じゃあ実力つけて頑張れば、みんなに好かれるかもしれない。
そう思えたのだ。つまり、「自分の努力次第でコントロールできるかも」という考えになれたのだ。
その方が周りに嫌われてるからこんな状況なのだ、とカビ生えたようになにもしないよりも、健全であり風通しがよく、心地が良い。
学習性無力感によって、すっかりと植え付けられた自分はなにもできるわけがない、自分は嫌われる存在として変わることができない、という思い込みから少し抜け出した瞬間とも言える。
自分の評価中心から作品の評価が中心の生活へ
僕はどこか、まだまだ、作品の評価=自分の評価、として生きているところがある。つまり、補完できなかった劣等感やら優越感やら問題を作品の評価で補填しているのだ。実に不健全である。
自分の評価中心だから、余計に自分が「好かれているから」、「嫌われているから」という幼い価値観でしか測れなかったのではなかろうか。作品の評価までごちゃまぜにし、人格で好かれる人は羨ましいなと思う時もあったのではなかろうか。普通であればみんなに受け入れられて、楽しそうにやれていいな、なんて人格に問題を押し付けていたのではないだろうか。
これではなにをやっても自己否定に繋がるにきまっている。自分の人格、他人の人格に常に「好き、嫌い」を繋いでおく思考回路はとても危険で、自分の行う行為や他人の行為をなにも評価できないことであると言っているようなものだ。自分の他人の努力をカウントできない。だから成長がない。
とても短絡的な回路であるとよくわかる。まさしく子供の思考だ。
やっと気付けてよかったと思う。自分を認められなかったのは、こういった認知も理由だったと思う。
「自分の努力次第で変わる」という当然のことを、「自分にはできないこと」として全く目に入らない人がいる。僕のような。おそらく会社の僕がいつも困っている人も、いろいろあってそんなふうになってしまったのだと思う。
努力して変わるしかない、という事実さえ受け入れられないのだ。
それを受け入れるようになれた。それだけでも自分を褒めたい。何歳のくせにとか、大人のくせにとか、成長が遅すぎ、これまで他人に迷惑かけてきて、なに今更とか、自分を虐めるように自分で思ってしまうけど。
変わるしかない。いまから。それが今出来ることで、今まで迷惑かけてきた人にできる誠意なんじゃないだろうか。
作品もだ。いままで作品にも失礼なことをしてきた。自分の評価をごちゃまぜにして、自分の問題とまぜこぜにされて作られてきた。ごめんね。もう、作品の評価、自分の作品がいかに映えるか、いかに綺麗に見えるか、かっこよく見えるか。そういうことを一番に重点を置いていくよ。
自分の見栄えが良い方向ではなく、作品がどうやれば他人から見て見栄えがいいか、にピントをずらしていく。
当然のことが出来なかった。恥ずかしいけど、これが事実だ。受け止めるしかない。
なぜなら、事実を見てももう見ても目は爛れないし、痛くも痒くもならない。見れるから自覚できたんだと自分を認めていいのだ。
もう、いいんだよ。自分を守らなくて。
これから良い作品を作れるように、他人が見る自分の「すき、きらい」から解き放たれていこうと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?