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あかん飯 _Cáihuā食べものエッセイ①

先日読んでいた本でらこんな文章と出会った。
「一生のうちに食べられる御飯の回数は決まっている。だから、一度たりとも疎かにしたくない、いい加減なものは食べたくないんだ」(『おいしいご飯が食べられますように』)
 恐るべし、食事へのモチベーションの高さ。そして、私にはできひん、と思わず本から顔を上げて考えた。

今年の3月から、19年住んだ実家を離れ一人祖父母の家に越してきた。通学時間の短縮と、ちょっとした自律のため。

 家族に必要なものを持ってきてもらい、使っていなかった部屋を片付けた居候生活最初の日、まだお客様扱いをされていた私はおばあちゃんが作ってくれた夕食の席で軽い衝撃を受けた。
「じゃあこの天ぷら、綺麗に盛り付けしてくれる?」
 盛り付け。出来た料理をお皿に入れるのではない。正直、実家でそんなこと気にしたことなど一度もなかった。晩御飯はフルタイム勤務の母が19時過ぎに帰ってきて、お腹を空かせた私と弟のために出来たものから食卓に並べてくれるのが日常だった。そもそも一人分が取り分けられていることの方が稀であり、料理ごとのお皿から好きなだけ食べるのが私たちの普通。しかも、自分たちで食べる分に関して、「見た目」なんて気にしたことが無かったのだ。さらには、おばあちゃんちのその日のテーブルには可愛らしい陶器の「箸置き」が並んだ。これも、実家にはない。
 こうして私はこの日、家でのご飯に関わる「盛り付け」「見た目」「箸置き」という三つの概念と初対面したのだった。
 
そんな調子でおばあちゃんの作る料理は基本、名前のあるれっきとした「料理」であり、急に食事のQOLが上がった私はうきうきしていた。Amazonで15%オフで買った「レンジで2分‼︎レトルトおかず20種」のダンボールは、ベッドの下に隠しておいた。

しかし、一ヶ月も経つと私はこの箸置き付きの食事に窮屈さを感じるようになった。そこで私はある日のお昼、おばあちゃんの作る角煮をパスして1人でご飯を食べることにした。作ったのは、豆腐と、キムチと、刻み葱と、卵と、納豆をどんぶりに入れるだけの豆腐ユッケ丼もどき。実家では、こういうテキトーご飯を「あかん飯(めし)」と呼んでいた。「こんなん食べてたらあかんやろ〜」という自虐の意味を込めてなのか、「もうあかん〜限界や〜」という時でも材料を入れるだけで簡単、という意味なのか、知らんけど。そもそも「作った」「料理」と言えるのか定かではないくらいのクオリティーで、味は美味しく満足感もあるが、見た目はそんなに綺麗ではない。とはいえ自分で食べる分だけなのだからなんだっていいのだ、と、地べたに座ってそれを口に運んだ。



ふう。ねぎの匂いが鼻に抜ける。やっと息ができたような、そんな感覚。なんだか安心できた。休日の昼に時々食べていた、私たちの昼ごはん。
 今の私に必要だったのは、あかん飯だった。

もしかしたら、こういうのをソウルフードと言うのかもしれない。側から見れば、かっこわるいソウルフードだな、と我ながら苦笑いする。こんなのは、冒頭のセリフの話し手からすれば究極の「疎か」で「いい加減」な食事なのだろう。


なので、これに関してはこれからも私の胸の内に閉まっておこうと思う。今度実家に帰ったら、お母さんにだけこの話をしよう。

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