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#エッセイ 記事まとめ

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noteに投稿されたエッセイをまとめていきます。
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2018年1月の記事一覧

世界に居場所を見つけた日

高校生になって「自分の部屋」を持った時、はじめてこの世界に居場所ができたと感じました。それ以来、自分の部屋で過ごすこと、インテリアを自分好みにつくりかえることが、一番の趣味であり続けています。 僕の尊敬する人が、「自分の部屋」の写真に添えた言葉だ。 他人のSNSの投稿を見て心の底から共感したのはこれが最初で最後かもしれない。決して暗いことや辛いことばかりではなかったが、家庭内の不協和音が絶えず、学校でも自分と他者との距離感が掴めずにいた僕にとって、中学生になった時に手に入

貧乏すぎて一家で神社の奥に住んでいた理由

子どもの頃、物心ついたころには私は神社の奥に一家七人で生活していました。 両親プラス子ども五人。 なかなかの大所帯なのに、 一家七人でたったふた部屋(風呂なし、トイレはあり)で、 とてつもない人口密度で生活していました。 という話を人にすると、必ず 「え、神社って住めるの?」 と訊かれるんですが、 多分住めないことの方が多いと思うけど私が住んでたとこは住めた という回答になります。 住んでいた神社のディテールを説明すると、 神社自体の規模は小さく、 神

田舎のおっさんに泣いてキレた話

私の地元は新潟で、大学入学と共に上京してもう10年以上経つ。最近特に、地元にいることが窮屈に感じることが多くなった。 今回はそれが我慢の限界を超えた話。 今年の元旦。田舎でよく見られる光景だと思うが私の実家も例にもれず、狭い居間に入りきらないほど親戚が集まっていた。 ちょっとした特徴として言えることは2人いる従兄妹とは血が繋がっていなかったり、私の父親はその場にいなかったり、そして親戚でもないおっさんがその場にいたりすることだ。 親戚でもないおっさんと言った

【現役JD】が届けるワカモノのトリセツ、はじめるよ!

はじめましてこんにちは! 女子大生コンビの《ゆめめ》と《ほっち》と申します。 私たちふたりはですね、とにかくトレンディなものが大好き同士でして、 何か面白い情報はないかと日々InstagramやTwitter、キュレーションメディアにへばりつくような生活を過ごしています。 さて突然ではありますが、私たちがnoteを始めようと決めた「あの日」の会話を、回想してつらつら書き連ねていきたいと思います。 ■ 『note』 を始めようとしたきっかけゆめめ 今日って新年初ほっちじゃない

文章の未来

文章を書いていくにあたって、どこで何を書いていけばいいかちょっと迷っている。 こないだふと、雨宮まみさんが亡くなってまだ一年か(もっと長い気がした)(雨宮まみのいないインターネットをもう一年も生きてしまった)、と思って、ウェブ連載はときどき読んでいたけど単行本は買ったきり積んでいた『東京を生きる』を読んでいて思ったのが、これめちゃめちゃいい文章でいい本なんだけど、こういうのを作っても今はそんなに売れないのかもしれない……、ということだった。 東京という街と雨宮さん自身の生き

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さよなら、こじらせ女子

「お前は俺が考える、現代のこじらせ女子だ」 伸ばしきった長髪を結び、下駄を履いて登校するような同級生に突然そう言われた。 「はぁ?」 その時、私は過労死寸前で休職中。心療内科に通いつつ、映画やアニメを見ては死にたい衝動を抑えているニートだった。 「とりあえずこれを読め」 2011年当時、AVライターとして活躍していた雨宮まみさんの『女子をこじらせて』という本だった。 AVに興味を持ったとき、私は自分が「女である」ことに自信もなかったし、だか

五体満足なのに、不自由な身体

***ブザーが鳴り、幕が上がる*** 1.わたしはわたしをインストールして家庭とか社会とかいう舞台をやる物心ついたら、お父さんという人とお母さんという人がいて、わたしはその2人の子どもというものらしかった。 お父さんという人はお父さんというよりも自由奔放に人間をやっているという感じで、お母さんという人は一生懸命にお母さんをやっていた。 お母さんは家族のからだに悪いからと言って、冷凍食品とかレトルト食品の類を一切使わないで、ぜんぶ一からの料理をして、わたしに習い事をさせて

「フカンショウ」にはなりたくない、という話。

「フカンショウ」にはなりたくない、と、いつも思いながら生きている。 自分の心の琴線が動かない、動かせないような「不感症」もいやだし、なにごとも自分ごと化できず、客観的に、冷静に見すぎてしまう「俯瞰症」もいやだし、興味があるもの、人、そして自分の気持ちに対して「不干渉」になってしまうこともいやだ。 不感症、俯瞰症、不干渉。 これら3つの「フカンショウ」でいないということは、なんとなく、自分の生き方のモットーみたいなものだな、と、思っている。 * 去年の誕生日に、ある人

富士そばにおける実存的ブルースとモンハン

明け方の富士そばにおける実存的ブルースと、チェーン店のアノニマス性。読書空間としてのココイチと、はじめてのモンハン楽しかったよ、ということが記述されました。写真は関係ないが、美しいタコブツのぬたという代物です。 ■ 2018年1月29日(月) 書くこと、書かれること、流れこむテキストと、書かれる場所について考えすぎた結果、日記は習慣化を逃れた。逃れてしまった。逃してしまった。しかし書かれることのなかった日々生活の中で、ひたむきな姿勢で世界と向き合う時の目線が若干取り戻さ