コーヒーとワインの比較

前回の記事がコーヒー焙煎についてだったので、もう少し書きます。


現在のコーヒーはワインよろしく生産地が限定されて、
サスティナビリティがしっかりしている、
その土地土地の味の違いを楽しめるようになってきました。

単にコロンビア、ブラジル、という国単位でなく、
そのコロンビアの(日本で言う)何県何市、何々村の誰々さんの農園のものというようにです。

例えば日本のワインで考えるとわかりやすいのですが、
「日本ワイン」とひとくくりにされても当たり前ですがどこの県のどのワイナリーが造っているのかで、味が違うのは当たり前です。

日本の山梨で造っているワインと、北海道で造っているワインを一緒にはできません。
山梨県内であっても、地域差はありますし、隣同士のワイナリーでも造り方が違えば、味が違うのは当たり前でしょう。


そういった違いというのは
ワインの世界では数百年、あるいは千年以上の歴史でもって、
ある土地、地域で造られるワインは格別である、
と比較しながら醸成されてきた歴史がありますから、

その土地の違いや品種による違いというものを、
すでに多く研究、体系化されているワインを勉強すれば、
現在のコーヒーも理解しやすいはずです。
(というようなことを10年位前に雑誌か何かで堀口俊英氏が語っていたように思いますが、ワインに精通しているコーヒー屋の方にはまだなかなか会った事ありません)


ワインとコーヒーの比較であくまで個人的な感想というか、気付いたことなのですが、
現在のスペシャルティコーヒーと、自然派ワインというのは似ているなと思います。
もっと細かく言うと、

昔の喫茶店が目指していたコーヒー:スペシャルティの目指しているコーヒー
ボルドーの目指すワイン:ブルゴーニュ、あるいは自然派の目指すワイン

という比較において目指すところ、前回書いた目標、あるいは目的というものが似ていると思います。

まず歴史的な話をすれば、科学が急速に進み、流通、インターネットが発達し、過去と現在は状況が大きく違うという前提は重要です。

昔の喫茶店は、
とりあえずコーヒー豆というものを与えられて(生産国ではありませんから)
いかにおいしいコーヒーというものを作るか、という事に苦心したと思います。
日本には砂糖を入れず苦いまま飲む茶がありますから、
そういったものの比較などから、
自分、あるいはお客さんにとって「おいしいコーヒー」という目標でもって焙煎、抽出を繰り返していたと思います。

コーヒーはこういうものである、これがまあいわゆるコーヒーの味というより、
究極においしい飲み物を作る、というあるようでない、ひたすら上を目指す目標でもって作っていた人々がいた様に思います。

それがコーヒーの味というのは確かなのですが、それ以上にその喫茶店の味になっていたと思います。


対して現在のコーヒーの主流はスペシャルティコーヒーで、
喫茶店の味ではなく、生産地が細かく分類されコーヒーそのものの味というものを追求しています。
特に味で比較しやすいとされるのが、
酸味であり、また香りであり、
そのため焙煎は基本的に浅煎り~中煎り程度にして、苦味や煙の香りの出る前で焙煎を終わらせることが多いと思います。

料理は一般的にそうですが、
食材以上の味を出すというのは基本的にできないので、
如何に新鮮な、いい食材を使うか、という事が重要で、
言い換えれば、その食材そのものをいかに味わうかにかかっています。

コーヒーももちろん同じで、
悪いコーヒー豆をいくら苦心して焙煎抽出してもそこそこ以上させるのは至難の業で、
コーヒーそのものが良くなければおいしいはずはありません。
そしてコーヒーそのものを味わうためにはなるべく手をかけず、
焙煎は浅めにして、粉を幾分か細かく挽き、成分をすべて出してあげることで、
そのコーヒー自体を味わうという風になります。

人が多く関わるより、なるべく関わらず、自然のまま抽出してあげようという考え方です。


ワインについてですが、

ボルドーワインは1855年に55のシャトー(ワイナリー)が格付けされ、
つまりそれ以前から、各ワイナリーの認知度、優劣というものが知られていたと考えられ、
どこのワインが特別おいしいというようなことが言われていたわけです。

現在言われているカベルネ・ソーヴィニヨン、メルローなどの比率、
というのは当時は全く違ったようで、
マルベック、カルメネールなども多く植えられていたそうで、
また現在においても、その比率がその年によって違う事を考えると、
ブドウそのものの味を引き出すためというより、
そのワイナリーの目指す味のために、ブドウを植え替えたり、ブレンド(アッサンブラージュ)を変えると考えられます。


対してブルゴーニュ、あるいは最近自然派(有機栽培、自然酵母、SO2無添加など)と言われるワイナリーなどはもちろん一概に言えないのですが、
多くの場合、そのブドウ自身の味を引き出すため、
ブドウからワインにするために人間が介入することを極力減らす。

ある決まった味の目標があるというよりは、
良くも悪くも自然任せ、そのブドウのなりたいワインになるのを待つ。
ブルゴーニュと自然派を一緒くたにするのはもちろん間違っているのですが、
彼らの基本思想としてはテロワールというものが共通していると思われます。

テロワールとはその土地の微細気候、土壌といったもので、
日の当たり方や角度、標高その他同じものは無く、
その畑で造られたブドウは道を挟んだ10m先の畑でも違うものができる、
そのため手を加えなくても、その土地の違いが表現できるといった考え方です。

ブルゴーニュ、ヴォーヌロマネ村のロマネコンティの畑は特に有名で、
同じ村の中でも、その畑のブドウから造られるワインは特に高く、
数十m隣のブドウからできるワインで10分の1、
数百m先のワインなら100分の1位の値段の差があります。

とはいえ、このテロワールの思想自体は割と最近、世界中で素晴らしいブドウ、ワインができてきたおかげで、
歴史のあるフランスのワインの価値が下がってしまう事を防ぐためという事もあるようです。


という事で非常に大雑把な分け方なのですが、

昔の喫茶店=ボルドー=目指す目標のものがあって、そこに向けて味を作っている
現在のコーヒー=自然派=その物本来の味を引き出すという目標でもって作っている

という風に同じ様な流れとして俯瞰することができます。


とはいえ注意しなくてはならないのは、
自然派にしろ、現在のコーヒーにしろ、
ブドウそのものを味わっているのではなく、わざわざワインにしている
コーヒーの果実を味わっているのではなく、わざわざ乾燥、焙煎してコーヒーにしている

という事はしっかり理解しなくてはいけないと思います。

つまり人間の工程が全く入ってないという事はあり得ないです。
ワインでテロワールを表現するとはいえ、
ブドウの育て方や、収穫、発酵の時間など人間がこれがテロワールを表現していると「考えている」やり方でもって造っているにすぎず、

コーヒーの本来の味を引き出しているとはいえ、
現地ではなく日本に持ってきて、
ちょっとした焙煎で全く変わってしまう、同じ豆を買ったとしてもコーヒーショップ同士で飲み比べれば全く違うものになるであろうし、抽出の水など色々な条件が変わってしまう事を考えると、

関わっていないと思い込んでいるだけで、個人個人、あるいは何らかのつくられた客観的、抽象的な目標(テロワールやそれ本来のと思い込んでいる味)に向かって造っているに過ぎないです。

人間にとって有益なものは発酵で、良くないものを腐敗と呼ぶような、
あくまで人間本位の見方でしかないので、
時々、自然の代弁者のような方が、
これが本物のワインとか、本当のコーヒーの味とか言っているとなんだかなぁと思います。


あくまで比較ですし、こういったことまで考えると
どちらが良いとか、優れているという事ではなく、
目的、目標の位置というか、構造が違うのだと思います。
酸味や香りなど似たところが多いと考えられるワインとコーヒーですが、
科学の進化、研究に伴って、
(人間によるところか、欧米の考え方によるところか)
その造り方味わい方自体も似たような構造でもって進んでいるという風に見ることができると思います。

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