不立文字とは

禅や日本の道(茶道など)といった物事、
あるいは日本において修行というとき、
言葉、文字ではなく、行動から学ぶ不立文字ということがある。

西洋の哲学、あるいは科学的な考え方から言って、
他人と理解を共有するためには、
共通の言語などに置き換えて相手に伝えるということが普通である。

共同社会において、相手が何を言っているのか、あるいは何を伝えたいのか、
ということの伝達コミュニーケーションとして言語が発達したと考えるならば、
言語で他人と情報を共有するというのは自然な考え方であり、
言語をこれほどまでになく巧みにに使いこなしているからこそ、
共有の考え方、思想を互いに持ち得るからこそ、
人間の文化、社会というものが他の動物と比較して、
これほどまでに強大なものになったとも考えられる。


しかし翻って言語、文字がいったいどれほどの情報を伝えられるのかと考えると、
物事の非常に小さな部分のみをフォーカスして伝えているにすぎないことに気づく。

例えば今私は文章を書いているが、この文章に載せられるのは、
文章の一つのなるべく一貫した論理性でもってなにがしかの一つの事、
一つの結論を伝えるためだけに長々と文章を書き連ねているだけである。

この文章で伝えられるのは、
私の視界に映っている広大な世界の中のあらゆるものを子細に伝えるには難しく、
私が感じている体の感覚、音、感情、匂い、肌の感触といったものは伝えられず、
今まさに見えてる感じている世界の中でも非常に狭い部分、
言語を巧みに使っていると思いつつ、
実は言語に縛られた世界の中でしか伝えることができない。

言語論理、順序は文章において非常に重要で、時間とも関係していて、
通常頭から読み始めて終わりに向かって読み進める。
終わりから、あるいは途中から読むことは基本的にできない。
話が矛盾していたら体裁をなさないし、何かを相手に伝えることがほとんどできなくなる。

先に書いたが、一つの事を一つの順序で伝えることしかできない。
例えば上の文章を、
一つの事を、先に、一つの、伝えることしか、書いたが、できない。
という順序で書いたら理解できない。
頭の中で順序を入れ替えて何を伝えようとしているのか理解しようとすることはできても、そのままの文章では理解できない。

そして順番に読まなくてはいけないので、単語や文字を見て一瞬ですべてを理解するということが難しい。
ポップ音楽は4~5分の中にメロディが込められるが、
そこに込められている音楽を一瞬、一秒に詰め込んだら音楽にならない。
メロディとなるためには時間が必要である。

例えば目で世界を見るとき、視界には色々なものが映っていると思うが、
それを言語ですべて説明してくれ。
と言って、すべてを子細に相手に伝えるためには、多分部屋の中の事でも一日では伝えきれない。
しかも時間が過ぎていけば、物の位置が、光の具合が少しずつ変化していくので、
言語で色々なことを伝えるというのはそもそも不可能に近い。
百聞は一見に如かず


はて、世界を広く認識しつつ言語で伝えられることが、
これほどまでに狭い領域でしか説明できないとなれば、
百のうち一つしか伝えられないとするなら、

阿吽の阿といえば吽と答える

それは言語の話をしているのではなく、
言語外に見える百のうちの九十九を感じろということではないのか。

確かに言語というのは他人と共通認識をするために、
百の中の一つをほぼ確実に共有することができ、
しかも百の中だろうが、論理的一貫性でもって何らかの
「正確性、正しさ」
というものを非常に近い人間でなくても、
世界の遠くにいる初めて会った人間とも交流でき、
大多数の人間と共有できるということは、
多くの事を感じている百の中の九十九より、
正確性、確実性において、強力な信頼性を持つ。

そのたった一つの信頼性、言葉というものは、相手の残りの九十九の行動よりも優先されることも少なくなく、
近くの考えが合わない人より、遠くの考えが近い人のが信頼できるといったことや、
行動が伴ってなくても、言葉で強い宣言をすることによって、信頼を勝ち得ることもできる。


言語で理解するというとき、
いちいち行動、感覚で、言語外の九十九の認識を動員しなくても
簡単に確実に(あくまで一つの事のみにおいてであるが)
理解できるということにより、
そちらが優先され、
九十九の不確実な世界、自身や他人の感覚より、
一つの言語の論理的確実性は思った以上に手に取りやすい。

言葉にならない、不立文字というのは、
あくまでそこに存在していないということではなく、
そこにある不確実で流動的な世界をそのまま受け止めるという、
ある種、確実性からは遠い、
時間、順序の必要な論理性から離れているため、

通常何か物を考えるというときに理解するために使う言語が論理性正確性においてそうであるために、
頭で考えるといった時に、
不立文字というものはそもそも考えるという行為からは成立が難しく、
禅においての説明が幾分不十分に感じるというのは、

そもそも論理性の言語による説明が
「不十分でありまた確実である」という性格であり、
不立文字、行動をありのまま見る流動的な世界では、
「十分でありまた不確実である」という性格だからではないだろうか。

「十分でありまた不確実である」
という世界はヨーロッパのレンガ造りの、気候もそれほど変わらない世界で、奴隷、家畜を利用し世界のなにがしかをコントロールできる世界においてなるべく排除されるべき認識の仕方であり、

「不十分でありまた確実である」という世界の認識は
狭い地域で天災も多く、流動的な自然と隣り合わせで生活してきた東洋、特に日本において
基本的に家畜、奴隷を持たず、固定的な観念ではなく、
確実にコントロールできるものは非常に少なく、強大な自然の流れに沿って生きるという考え方から反する。


現代社会の日本においても、安定性確実性というものが少しずつ積み上げられた結果、
不十分でも確実であることが貴ばれるようになり、
「口より手を動かせ、行動で示せ!」みたいな考え方は少し古い考え方になってきた。

しかしいま逆にアメリカなどでは禅の考え方を学ぶビジネスマンが増えてきたという。
これは科学や物の進歩が進んだことにより色々なものが加速度的に変化、物事が非常に流動的になり、
5年前、10年前の考え方ではもはや通用しないという場面が増えてきたからとも考えられる。
スマホにしろAIにしろ、日進月歩で進んでいる世界で、
確実な切り取られた写真の隅の一部分を見ていたら、
世界が進んでいてもう古くなっていたなんてことになりかねず、
不確実でも流動的な動画で、流れそのものを見ている方が変化に対し処理しやすい。

不立文字はもともと生物の認識として存在していたものであり、
またこれから立ち返るべき本来の認識の仕方かもしれない。

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