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91.走るよりも歩くほうがいい 、歩くより、じっと立っているほうがいい 、立っているより、座っているほうがいい 座っているよりも、寝ているほうがいい。

やらねばならないことを優先する


今から400年前、豊臣秀吉が太政大臣になったとき、1人の家臣がこう言いました。
「秀吉様、ひとつ教えて欲しいことがございます。秀吉様が成功を手に入れた秘訣は何でしょう?」

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©NPО japan copyright association Hiroaki


この問いに秀吉は、
「わたしが今日あるのに特別な秘策など何もない。ただ目が覚めれば起きる。そして、過去を決して後悔せず、未来を憂えず、今日の、ただ今の仕事に対して、その場、その場に最善を尽くしただけじゃ。今を真剣に取り組んだだけじゃ」と答えたといいます。

人は誰もが自分の描く成功や幸福を求めています。

秀吉が他の人と違ったところは、目が覚めたらすぐ起きて、その一日に最善を尽くし、自分に与えられたどんな仕事にも決して手を抜かず、全力でやり抜くという努力の積み重ねで運命を好転させいったことです。


秀吉は「やらねばならないこと」を優先したといいます。


どんなに嫌な仕事であっても、その仕事に全力投球すれば、その仕事が自分にあらゆることを教え、与えてくれるのですね。


©Social YES Research Institute / coucou

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走るより歩く方がいい


インドの格言に、
「走るよりも歩くほうがいい
歩くより、じっと立っているほうがいい
立っているより、座っているほうがいい
座っているよりも、寝ているほうがいい」

という言葉がありますが、これはまさに人間の習慣、習性についての格言です。


こんな例があります。

テレビのない生活は考えられないという人たちは多く、家にいれば、ついついテレビをかけっぱなしにしています。映像からの情報は、視覚に訴えるだけに理解しやすく、見ているだけでいいので実に楽です。

自発的な労力を使わずとも情報が得られるのですから、文字を読むことさえ面倒になり、読書といった行為は失われるだろうといわれるほど、映像による麻痺が起きていることがわかります。

映像はそれを見る人間の姿勢をはっきりと写し出し、インドの格言にある人間の怠け癖を増長させやすいのです。


本来、「見ること」「書くこと」「読むこと」は努力がいるものですから、ナガラ式の映像には注意しなければなりません。

その解決法は、テレビを見るにしても目的をもって、自発的に見ようとして見ること。文字を読むのも意識して自発的に読もうとして読むこと、それらのくり返しの習慣が麻痺による怠け癖を防いでくれます。


人は、知らず知らずに錯覚や麻痺を起こしています。また、それが続くと勝手な自己暗示にかかってしまいます。

コカ・コーラのCMを注意してみると、人間の視覚に植えつける情報戦略を取っていることがわかります。自分に対して良き暗示となるのであれば問題ないのですが、人間の本質にある怠け癖を誘発する情報であるかは意識する必要があります。

人間は自分を甘やかしてはならず、物事を先送りにしてはならないのです。
「無気力」「無目的」「無感動」「無目標」「無表情」の人間が多い時代ですが、それが自分をダメにし、弱くしてしまう原因、習慣のひとつといえます。

自分に力を持たせる、自分に期待する、自分に感動を与える、自分に希望を与える、自分に目標を与え、目標を持たせ、情熱を持たせ、自分に灯をともすのは、やはり自分しかいないのです。人はいくつになっても大切な炎を自分で消し去る必要もないのです。

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ジョン・トッド牧師の言葉

ジョン・トッド牧師の言葉

アメリカのジョン・トッドという牧師が1835年に発表してベストセラーとなり、アメリカ人のほとんどが読んだといわれている「良き習慣について」という本があります。


その本には、
「人間、40歳にもなれば、悔やんでも悔やみ切れないことや、他人から見た自分の評価を落とさせる習慣をいくつか持っているものだ。そして、その習慣は自分の身に深く刻まれていて、断ち切ろうにも断ち切れない困難なものとなっている。人によっては断ち切ろうとする気力さえ失っている。だから良い習慣を身につけて欲しい、わたしはそう心から願っている─多くの者達へ」と記されています。

「それが何にせよ、好ましい習慣を身につけられるかどうかなどと案ずる必要はない。必ず身につけられることができるからである。しかも、初めに思っていたよりもたやすく身につけられるから、その秘けつを教えよう。それは、ただ同じ事、同じ仕事を毎日、同じ時間にくり返せばよい。すると、それは間もなく楽にできるようになる」

「大きな成果などいらない。大きな成果など期待せず、コツコツと努力を積み重ねていくことが、立派な仕事を成し遂げるために何よりも確実な第一歩なのだ。その努力によって成し遂げられた業績には目を見張らせるものがある。それは、小さなことを積み重ねることで小さな感動をより多く得られるからだ」

「人間にとって怠慢ほど有害で致命的な習慣はない。にもかかわらず、これほど身につきやすく断ちがたい習慣もない。怠け者はだんだんと尻が重くなり、動かなくなる、動けなくなる」

「やることが2つあって、1つは『やらなければならない』ことで、もう1つは『どうしてもやりたい』事であった場合、迷わず『やらなければならない』ことから取りかかることだ。この鉄則を忘れると、やるべきことを時間内に片付けることは、まずできない」

「早起きを習慣としないで長生きした人は少ない。ましてや有名になり、成功する人となるとさらに少ない。起きるのが遅くなると、当然仕事にとりかかるのも遅くなり、結果、その日全体が狂ってしまう。現代は、いろいろな点で堕落しているが、その寝坊が最たるものであることを歴史が証明してくれている。もうすでに結果済みである」


朝、仕事場に着き、さて今日は何をやろうか?何から手をつけていこうか?と考える。考えているだけで動きが遅い、考えているだけで何もしない、ただ考え続けている。


トッド牧師は言います。
人はどうしても『やりたいこと』を優先してしまう。たやすく、やりやすく、または面白そうで楽しそうな仕事から手をつける。そうやって、人は『やらなければならない』ことを後回しにして、その1日を終える。大切なことのすべてが後回しになってしまう。
トッド牧師は、良き習慣づけに大切なこととして「やらなければならないこと」をあげていますが、ここに人の集中力や努力、自発力の秘訣が隠されているのです。

567の時代、567の習慣と習性が身に付きすぎると、誰も何も考えなくなり、動かなくなる。今こそ、小さな積み重ねの新しい習慣によって、567を切り捨てなければならないかもしれません。

あまりにも567の約2年間は人類に多大な負の習慣を与えてしまっているかもしれませんね。

さあ、みんなで567を超えて行こう!


©Social YES Research Institute / coucou

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きっと父や母、きれいに片付いて、喜んでいるよ!

coucouです。みなさん、ごきげんよう!

いよいよ、30日(木)でわが実家とお別れとなります。

今、室内には何もなく、がらんと家が残っているだけです。

3か月かけて弟と私は父や母のすべての荷物を確認して移動と処分しました。私は腰が駄目なので弟が力仕事のほとんどをしてくれました。

弟は「これも最後の供養だから、楽しんで片づけた…」と一切の後悔はなく満足げに話してくれました。

(約60年分ですから、大型トラックで2台か3台分の処分量でした)

最後に残したものは仏壇と数十冊のアルバムです。

昔のアルバムですから一冊がとても重い。本当はアルバムから一枚一枚外してデジタルに変換できれば良いのですが、写真そのものがへばりついており、剝がそうとすると破けてしまいます。

私たちは処分するのを躊躇いました。

もう現在の私たちの家にはこれ以上、保存するスペースがないからです。

ただ、捨てるのも辛いので、お寺で燃やすことも考えました。でも、その数十冊のアルバムには、私たち兄弟の子どもの頃からの写真と、若き日の父や母がそこに存在しているからです。

94年生きた父と、87年生きた母の記録です。大切なものは何とかデジタル化できたのですが、それでもプリント写真の中には生きている両親がいます。

私は、私の中の記憶に保存してみようと数日間かけてそのアルバムを見続けました。私のような記憶力の弱い者でも、その写真の中の情景をすぐに思い出すことができます。しかし、恥ずかしながら涙が止まりません…。

私はいつのまにか、幼い子ども還るのがわかります。

優しかった、父や母の言葉を思い出します。どんなに失敗しても一度も怒らなかった父や母、私たち兄弟をずうっと見守り続けていた父や母。何も求めず、何も欲しがらず、ただ、私たちが幸せになることだけを望んでいた父や母でした。

人は、長生きしたのだから十分に往生したのだからと言いますが、私たち親子の深すぎる関係を知る人はいません。そんなに簡単な言葉では片づけることができない父や母であり、私たち兄弟だからです。

私たちの家族は全力で生き続けました。それこそ、いのちを与え、そのいのちにすべてをかけてきた父や母のことを他人には、知ることなんてできないからです。

私は、私の友人や知人の両親がこの世を去っても「往生した」なんて慰めの褒め言葉などいいたくありません。ただ、残念です、そう伝えるようにします。どうしてかというと、人にはわからない、その人の苦しかった物語があるからです。

家には、その物語の匂いと、魂が残り続けています。

本当は、この家が朽ち果てるまで残したかったのですが、現実はそんなにも甘くありません。

でも、まだ私には最後の朽ち果てるまで見続ける役目が残っているからです。そして、両手を合わせて、もう一度、ありがとう、ありがとうございました、と伝えたいのです。

私は、最後の日をどう迎えれば良いのか、心の整理ができません。ただ、2つの救いがありました。写真アルバムはすべて弟の長男が引き取ってくれたこと。仏壇は私の家に、最後の日に移動することでした。移動を最後にしたのは、最後の一日まで父や母に住んでいてもらいたいからです。

もうひとつは、私の弟が「きっと父や母、きれいに片付いて、喜んでいるよ!」いったことです。

私は昨晩、久しぶりに夢の中で父や母と話すことができました。そこで質問しました…。

そう、喜んでくれているの?

あとは、任せた、というの?

何を任せたの?

まだまだ、父や母と、私たち兄弟の物語が続くというの?

終わりなんて、ない。

そう、いうの?……


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