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鎌倉市と平泉町が和解するニュースが個人的にエモいという話

本当にビックリしたんですよ。
奥州藤原と頼朝さんの話が今の時代にフィクション以外で話題になるなんて。

ざっくり鎌倉と平泉について。
1180年に頼朝のお屋敷ができて以来、鎌倉といえば源頼朝です。
「鎌倉殿」なんて言われてたりもしました。
平泉町は奥州藤原氏が拠点にしていた平泉のことです。

では、平泉でなにが起こったか。
当時、奥州一帯を仕切っていたのが奥州藤原氏で、頼朝にとってはここを手中に収めないと、鎌倉政権を安定させることができませんでした。
そんな折、1188年に頼朝と対立していた義経が平泉に潜伏していると発覚しました。
藤原秀衡は「義経を主君にして頼朝の攻撃に備えるように」と遺言していましたが、頼朝の策略によって朝廷から義経追討宣旨が下ってしまいました。
当初はこれに従えないとしていた秀衡の子、泰衡でしたが、今度は泰衡追討宣旨が出されようとする事態に。
これに屈して泰衡は義経を自害に追い込んだのです。

むかし日テレで野村宏伸主演の『源義経』という歴史ドラマがあって、私はこれを何度も見たのですが、燃え盛る寺の中での自害のシーンは目に焼き付いています。
あれ、もう何十年も前のドラマなんですけどね。
たぶん30年くらい前だと思います。

しかし頼朝としては奥州藤原氏の滅亡が最大の目的。
義経をかくまっていたことは大罪であるとして、その後も奥州藤原氏に対して強硬な姿勢を取り続けました。
奥州藤原氏では内紛が勃発。
そして頼朝は泰衡は勝手に義経を討伐したからという理由で奥州討伐へ大軍を率いて赴きました。

1189年8月に阿津賀志山の戦いで奥州藤原氏は敗北。
その後、平泉に鎌倉方が入った頃には、泰衡が放った火により平泉は火の海となっていたのでした。
泰衡は9月に家臣により殺害。
奥州藤原氏の滅亡となりました。

この当時の平泉は平安京に次ぐ第二の都市とも言われていたくらい繁栄していた都市。
それが頼朝のせいで火の海になってしまったんですよ。
そりゃ何百年経ってようが因縁も残るというもの。


それがつい先日鎌倉市と平泉町が改めて和解を確認したというからエモいという話。
鎌倉市の市長定例記者会見を引用します。

この度、800有余年の時を越え、かつては敵であった鎌倉市と平泉町の間で、改めて和解を確認し、鎌倉市と平泉町の交流をさらに進めるため、鎌倉市制施行80周年記念事業の一環として、平泉町から鎌倉市に「中尊寺ハス」の株を寄贈していただくことになりました。
「中尊寺ハス」は、平泉町に所在する中尊寺金色堂に安置された、奥州藤原氏4代泰衡公の首桶の中に納められていた種子を開花させたものです。昭和25年に実施された金色堂調査の際に発見されたハスの種子の発芽実験を行い、800年の時を経て、平成5年に発芽、平成10年に開花に成功したと聞いております。
いただきました「中尊寺ハス」は、永福寺跡で栽培をします。永福寺はご案内のとおり、1189年、源頼朝公が平泉を攻めて奥州藤原氏が滅亡したわけですが、この際、平泉で見た壮優な諸寺院に感銘を受け、合戦で亡くなった人を弔うために永福寺を創建しました。特に中尊寺にあった二階大堂大長寿院を参考にして、永福寺の中心に二階堂を建てたと吾妻鏡に記されています。

中尊寺のハスといい、それを永福寺跡で栽培することといい、何から何まで頼朝と奥州藤原氏に関連づいた行事。
鎌倉市の中に息づくことになる奥州藤原氏の名残。

このニュースを知ったのは今朝寝起きだったのですが、一気に目が覚めました。
そのくらい私の中ではすごいニュース。
かつて源義経を題材にしたドラマを繰り返し見ていた私にとっては、副大臣が辞任するニュースよりも一大事なのです。

なんとも言えない、この“その時、歴史が動いた”感。
感慨深いです。

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