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現役早稲田生がエーリッヒ・フロム著『愛するということ』を要約してみた③~愛の性質について。成熟した愛に必要な4つの要素~

前回は、「孤立を克服し、孤立から抜け出したい」という人類共通にして最大の欲求があることと、その達成のために必要なのは「愛」であることを確認した。

しかし「孤立を解消するために愛が必要だ」と言われても、「愛」という言葉は少し抽象的すぎる。そこで第三回となる今回では、フロムの言う未熟な愛(愛とは呼べないもの)と成熟した愛について見ていこうと思う。両者の違いをしっかりと認識しておくことで、自分が実際に愛の活動に入るとき、どんな関係を目指せばいいのか分かってくるはずだ。

それではまず、未成熟な愛(愛とは呼べないもの)について見ていこうと思う。

フロムが言う未成熟な愛とは、共棲的結合とでも言えるような依存関係のことだ。これでは少しわかりにくいので、いくつか具体例を挙げていこう。

未成熟な愛の形① マゾヒズム

共棲的結合には受動的なものと能動的なものの2種類がある。共棲的結合の受動的な形がマゾヒズムである。これは一言で言えば服従の関係だ。マゾヒスティックな人は耐えがたい孤立感や不安感から逃れるために、自分に指図してくれる人を求める。そして自分に命令し、保護してくれるような人の一部になろうとする。マゾヒスティックな人にとってその支配者は世界の全てであり、反対に自分はその人の一部であることを除けば無である。こういった人は自分で考えるひつようもなく、ひとりぼっちにもならない。しかし自立しているわけでもない。フロムに言わせれば「まだ生まれていない人」なのだ。

こういった人は自分を支配してくれる対象(それは人であったり、宿命だったり、薬物であったりと様々だ)を見つけ出すと、自分の人格を捨て去り、その支配者のものや道具になり下がろうとする。「自分は支配者の道具であり、また支配者の一部である」と考えれば、難しい生の問題に向き合わなくてすむからだ。こういったひとは愛する能力が育っていないため、健全な形で他者と関わることが出来ない。

未成熟な愛の形② サディズム

サディスティックな人も本質的にはマゾヒスティックな人と変わらない。
彼らは孤独感や閉塞感から逃げだすために他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人を取り込むことで、自分自身を膨らませるのだ。

マゾヒスティックな人はサディスティックな人に依存するが、それと同じくらいサディスティックな人も自分に服従する人に依存している。

両者の違いは傷つけ利用する立場にあるか、傷つけられ利用される立場にあるかだけで、「愛が未成熟で他者と完全に結びつくことが出来ない」という点では全く同じである。

このマゾヒズムとサディズムの説明を見たとき、私自身、とても思い当たる節があった。マゾヒズムとサディズムは本質的に同じなので、相手によってはマゾヒスティックな人がサディスティックになることもあるし、その逆になることもある。所謂、「相手によって態度をコロコロ変える人」だ。

今はかなり改善されたと思うが、振り返ってみると数年前までの自分はまさにそういう人間であったように思う。

自分より弱い人には高圧的な態度で接し、まるで物のように扱うが、先輩であったり自分より強い人(と認識していた人)の前では態度を一変させ、常にこびた態度をとっていた。

「自分を支配してくれる対象(それは人であったり、宿命だったり、薬物であったりと様々だ)を見つけ出すと、自分の人格を捨て去り、その支配者のものや道具になり下がろうとする。」というのもとてもよく分かる。

当時の自分は他者を愛そうと考えたことも無く、愛する力もとても未熟だった(今もまだまだなのだが)。そのため他者と対等な関係を築く事が出来ず、何か人間としてひどく劣っている存在であるような気がしていた。そのため強い人に服従しその人の一部になることで、自分も同じように力がある人間だと思おうとしていたのかもしれない。

成熟した愛はこれらの共棲的結合とは全く違う性質を持つ。次は成熟した愛の持つ性質についてみていこう。

成熟した愛の形

共棲的結合とは対照的に、成熟した愛は自分の全体性と個性を保ったままでの結合だ。つまり自分の人格を捨て去って他者の道具になろうとしたり、反対に他者を人格のない道具のように扱う関係とは全く異なる。愛する力がお互いに成熟していれば、自分は自分のまま、相手も相手のままでありながら二人は結びつき、孤立感や不安感から解放されるのだ。愛においては、一人が二人であり、二人が一人であるというパラドックスが起き続ける。

また、愛の特徴として「人間に備わっている能動的な力」であることが挙げられる。重要なことなので何度も言うが、愛は決して受動的ではないのである。愛はそこに落ちるものではなく、自ら踏み込むものなのだ。

フロムはこれを、「愛は何よりも与えることであり、もらう事ではない」という分かりやすい言葉で表現している。しかし人々は「愛」について誤解していると同時に、「与える」という事についても多くの誤解をしている。
「与える」事に対する誤解について、フロムは以下のように述べている。

いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは何かを「あきらめること」、剥ぎとられること、犠牲にすることという思い込みである。性格が、受け取り、利用し、貯めこむといった段階から受け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受け止めている。

p41, ℓ11-14

「与える」ことをこのように解釈している人はとても多いのではないだろうか。他者に与えると何かを損しているかのように感じ、他者に与えたがらない人はかなり多い気がする。

これに関しては、自分自身も同じ考え方をしていたので、そういった人たちの気持ちもよく分かる。小学生の時などは、自分が一杯持っているお菓子を友達に分け与えることさえ嫌がっていた記憶がある。

他にも見返りがあるときだけ与えようとしたり、与えることは犠牲を払うことだから「美徳」であり、苦痛だからこそ与えなければいけないと考える人々もいる。

これらは全て、「与える」という行為の意味を誤解している。

生産的な人々、愛がある人々にとっては、「与える」事は全く別の意味を持つのだ。彼らにとっては「与える」とはどのような事なのだろうか。

生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。
彼らにとって、与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。この生命力と能力の高まりに、私は喜びをおぼえる。私は自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

p42, ℓ9-15

愛する力が育っている人々は、与えるという行為を通して自らの力を実感している。彼らにとっては見返りがあるかどうかなど問題ではない。

与えること=喜びなのである。


愛に必要な4つの要素

また、フロムはどんな愛にも共通する4つの要素があるともいっている。
その4つの要素とは、配慮、責任、尊重、知である。

配慮

まずは配慮だが、これが欠けているものは愛とは呼べない。例えば、「私は他の何よりも子供を愛している」と言っている母親がいるとしよう。

しかし、もしその子供がガリガリに痩せていて身なりも汚らしかったとしたら、あなたはその母親が本当に子供を愛しているとは思えないだろう。
反対に、母親が懸命に子供のことを気遣っている様子を見れば、その母親が何も言わなくとも、彼女が子供を愛していることが伝わってくるはずだ。

愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。

p47, ℓ10-11

積極的な配慮が無ければ、それは愛とは呼べないのだ。

責任

次に責任である。責任と聞くとなにやら厄介で面倒くさいことのように考える人も多いのではないだろうか。他者から無理矢理押しつけられ、何かあれば自分がその結果を負わなければいけない。そんな面倒くさいものが責任である、と。

しかし本当の責任とは、他者から押しつけられるような受動的なものではない。フロム曰く責任とは、「他人の要求に応じられる、応える用意があること」である。愛する力を持つ人は、他者からの要求に応じることが出来る。
彼は自分自身の生命に責任を感じるのと同じように、愛する者の生命に対しても責任を感じるのだ。

尊重

次に尊重である。これがないと愛は、容易に支配や所有へと変わってしまう。分かりやすい例は教育熱心で幼い頃から子供を塾に通わせ、いい大学を目指させるような母親だ。彼女たちは子供の将来のことを考え(配慮)、子供のために小さい頃からたくさん勉強させる。

「子供はまだ小さいし正しい道に私が導いてあげなければ」(責任)と考えてもいるだろう。確かにこの母親は愛する子供の事を気にかけ、責任も感じてはいる。

しかし子供を尊重する事は出来ていない。フロムは言う。

尊重とは、その語源からもわかるように、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことである

p50, ℓ1-4

尊重とは、愛する人が私のためにではなく、その人自身のために成長していくことを願うことである。尊重無き愛は、愛の対象をがんじがらめにして閉じ込めてしまうのだ。

愛に必要な4つ目の要素は知だ。人を尊重するためにはその人のことをまず知らなければならない。その人に対する知識が無ければ、配慮も責任も的外れな物になってしまう。

まずは言葉で相手を知っていく。どんなことが好きなのか、どんなことをされたら嫌なのか。何に喜びを感じ、何に怒り、何に悲しむのか。

そうしたら次は言葉ではなく体験として知っていく。表面的な知識ではなく、相手という存在の核心に迫っていく。これは少し理解が難しいかもしれない。

だが、あなたがもっとも仲の良い友人や、最愛のパートナーとのことを考えてみて欲しい。

そういった人たちとは、例え言葉にしなくとも

「あ、いまちょっと怒ってるな」

と分かったり、次の行動がなんとなく予測できたりするだろう。

体験で知るとはそういうことであると、私は解釈している。

以上の4つの要素、配慮、責任、尊重、知のいずれかが欠けていても、それは愛とは呼べない。自分が他者を愛せているかどうか、この基準と照らし合わせて考えてみると分かりやすいのではないだろうか。

まとめ

今日は愛という抽象的な概念を、様々な側面から見ていくことで浮き彫りにしようと試みた。

「成熟した愛」ではお互いが「愛する」という能動的な力を行使し、全人格を保ったまま1つになることができる。大事なことなので(自分のためにも)繰り返し言うが、「愛」とは能動的なものであり、受動的なものではない。

そしてその成熟した愛に必要な4つの要素、配慮、責任、尊重、知についても確認した。これらのいずれかが欠けていても、それはもう愛とは呼べない。あなたは、そして私はこの4つの要素に基づいて人を愛せているだろうか?

自分が他者と関わる際にこの4つの要素が含まれているかどうか、常に気をつけながら生活してみると良いかもしれない。

次回からはいよいよ愛の理論の大部分を占める、愛の対象についてみていこうと思う。興味があるところだけでも読んでいただけると幸いだ。


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