あきらめなかった人の「あきらめないで」は、なんて優しいんだろう

久しぶりに、大学院生の学生さんから進路相談を受けた。

私の働く業界は、ニッチだけれど、一部の学生さんからは(多分まだ)人気のある業界で、国家資格のような分かりやすい指標が無く、狭き門でありながら、キャリアパスがとても多様なため、特に学部生・大学院生の方々は「次の一手」をどのように進めるのが正解なのか、さ迷える子羊のようになる。

この業界で働く100人に話を聞いたら、きっと100通りのストーリーとキャリアパスが聞けると思う。だから学生さんは余計に悩む。すごくわかる。

「宇宙飛行士よりはハードルが低いから」と自分にも言い聞かせている。

今回は、学生さんの関心領域的に、私よりも専門分野や指向が似ていそうな友人の顔が思い浮かんだので、数年ぶりにその友人にも声をかけて3人でオンラインでお話した。

もともと「次の一手」で悩みやすい業界なのに、コロナで予定していた留学が延期になったり、目途が立たなくなったり、不確定要素が増えてしまっている。

どれを選んでも唯一の正解は無くて、どちらかというと「選んだ選択肢を、自分で正解にしていく」ような姿勢が求められるので、考えられる選択肢の一つ一つに対して、考えられるメリットやチャンス、リスクについて、自分の苦い経験もうまくいった経験も交えて、率直にお話した。

いつもは私と学生さんの「一対一」でお受けすることが多いのだけれど、今回、思い付きで友人を交えて3人で話せたことは、個人的にはとても面白かった。

その友人とは海外のNGOで一緒に長期ボランティアをしたことがある10年来の仲なのだけれど、今振り返っても特殊な環境での出会いだった。

当時、北欧が母体のNGO(70年代当時にヒッピーだった人たちが立ち上げた団体)に所属していたため組織文化にも色々とカルチャーショックを受けていたし(「秩序」とは無縁)、そこに大陸・国籍を超えて多様なボランティア仲間が集うから、なんというか、自分という人間性が剥き出しにならざるを得ない環境だった。自分という人間が、何を頑張れて、何に共感し、何を守りたくて、何に怒るのか、が丸裸だった。

同じ釜の飯を食う仲間の関係性をより色濃くした感じで、その後に留学する大学院生活でも入社した会社でも、あのNGO時代ほど、汗も涙も怒りも悲しみもぐしゃぐしゃに、多様なバックグラウンドの仲間と共有した時間は無かった。

その友人は日本人なのだけれど、自分と血が繋がっている弟のつぎに、(大人げなくも成人後に)自分が人生で一番、感情をむき出しにして喧嘩した相手だった。今思えば喧嘩した理由はどれも良くわからないけれど、もしかしたら当時コンプレックスやプライドの置き所が似ていたのかもしれない。
ある時から、下の名前にPをつけて呼ばれるようになり、それから一気に戦意を喪失してマイルドに仲良くなった。
それから、心の中で彼のことを「血が繋がっていない兄妹」と思っている。

学生さんと3人でお話したことで、その「兄P」が当時どんな思いでその北欧NGOを見つけ出したのか、その後どんな風に進路を選んで、修士課程から博士課程に進学して今のキャリアに至るのかを、初めて聞かせてもらうことができた。

それで改めて思ったのは、傍目からは、どんなに華麗な経歴に見えていても、その人なりの試行錯誤や失敗や制約があって、その中でその時々に自分にとって最適解と思える決断をして、今を紡ぎ続けているのだなということ。

普段、学生さんと一対一、一対複数名(講義形式)で向き合うときには、自分しかキャリアのサンプルを提供できないけれど、「兄P」の話を聞けたことで「泥臭いのは自分だけじゃないんだな」と孤独感が和らいだ。

最後に学生さんに一言あるかな、と「兄P」に話を振ったら、
「せっかくこの業界に興味をもってくれたんだから、どうか、あきらめないで欲しいな」って。

「兄P」自身や私が、いろんな寄り道をしながらも、投げ出さなかったからその業界にいることを、とても柔らかい言葉で学生さんに届けてくれた。

それは本当に、心から頷く、紛れもない事実だった。

「兄P、やるじゃん・・!」と内心おもった。
(基本、妹分だから、兄Pに対する目線・言動が生意気なわたし)

あの「あきらめないで欲しいな」は、とても説得力があったし、なんだかとても優しかった。

あんなに優しい目線で、学生さんに向き合えているかなとハッとしたし、なんだかんだ久々に異文化アウェイの世界に身を投じて凹みがちだった自分も励まされてしまった。

兄Pの言葉に、医師になることを「あきらめなかった」2人の友人のことをふと思い出した。

一人は高校の同級生で、進学校だったけれど、とにかく赤点と追試を制覇していたような、でも純朴で底抜けに愛されキャラだった部活仲間。
彼は現役・1浪・2浪を経て、国立大学の医学部に進学していった。

2浪目の前期試験の最後の科目で失敗した時には、今にも中央線に飛び込んでしまいそうな声色の電話が来たので、そのまま自分の下宿先に呼び寄せてご飯を食べさせた。私の失恋話を聞いて泣いていたくらい心の綺麗な友人だった。途中、順調にチャラ男デビューをして?留年もしていたみたいだけれど、今は立派な産婦人科医のお医者さんになっている。

あんなに不器用な歩みは無いと思いながら、本当に諦めないもんだから、見ている周りが励まされて応援したくなってしまう人徳の持ち主だった。

もう一人は、私が塾講師のアルバイトを始めた時に、浪人生として同じ塾に生徒として通っていた同い年の女の子だった。東京生まれ東京育ちの彼女の方が大人っぽい見た目で、よく先生と生徒、逆に間違われていた。
私は気を使って距離をとっていたのだけど、その子の方からグイグイ近づいてきて仲良くなった。

彼女は、1浪した時の試験で不合格通知を受け取った後、女子だと年齢も気になり始めるので医学部を目指し続けるかすごく悩んでいた。
けれど、その友人はまさかの北京大学の医学部に留学して、中国語をゼロから勉強し、中国の医師免許を取った後、遂に日本の医師免許を取った。

さらっと書いたけど、とんでもない努力が必要で。小さな血管や骨の名前、ひとつひとつも中国語で勉強して単位取った上に、同じ内容を日本語で・・という、普通に日本の医学部からお医者さんになるより、とんでもない遠回りをしている。
一緒に北京大学医学部へ留学をした日本人は50人くらいいたはずなのに、次々と脱落し、最後は彼女と1,2人くらいしか残っていなかった。

彼女はあきらめなかった。
「日本の医学部には合格できなかったから、私が医者になるにはもうこれしか道が無いから」って。10年越しで夢を叶えていった。

日本の医師免許の合格通知が彼女の家に届く日に、私は彼女からの誘いで、一緒に街中で過ごしていた。家から携帯で合格の知らせを受けた瞬間の彼女の破顔は今でも目に焼き付いている。

もっと器用にスマートにやれるひとも沢山いる。
だから私はスマートな人を見てすぐ、凹んだり、自己嫌悪に陥ってしまう。
でも不器用でも、自分の意志でバッターボックスに立ち続けるからこそ、拓ける道もあるんだよね。と、数々の証人が身近にいることを思い出した。
自分も、間違いなく後者の不器用人間。
でも、兄Pとお医者さんになった友人を思い出して、愚直に頑張る自分に、もっと胸を張ってあげたいなと思わせてもらった。

兄P、ありがと。