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兵庫県からテレビの葬式が始まった

 例の選挙で斎藤氏が当選して以来、テレビ業界人が自省する発言が目立つ。しかし、もう手遅れだと自分は認識している。
 自分はテレビがピークの時代1997年前後は現役のテレビっ子だった。

 しかし、今はテレビを持っていない。
 インターネットには嘘も取るに足らないゴミも幾らでもある。しかし、常に突っ込みが存在して平等である。肯定も否定も等しく存在する世界がインターネットでありSNSである。斎藤支持者をネットに踊らされた愚民だという発言がネット上で見られるが、そのネットを利用して斎藤支持者を転換させられなかった時点で愚かなのはどちらかという話。斎藤批判はネットに等しく存在していたし、自分のTwitterおすすめには斎藤の肯定も否定もどちらも表示されていた。
 正直、どちらも真実とか正義とか翳して愚かにしか見えなかったが、少なくとも録音も録画も容易な今の時代にインターネットで見える形で証拠をあげられなかった時点で、彼の勝利は充分にありえたのだろう。

 2014年に、山田玲司は笑っていいとも終了をテレビの葬式を見てるようだと評した。当時から自分はテレビを見ていなかったので、随分と時代遅れな話をしているという印象だった。
 自分は、インターネット(SNS)が決定的なメディアになったな、と思ったのは2010年の尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件
 これまで新聞、ラジオ、テレビというメディアを通して露出された出来事が、仲介人を介在させる事なく直接発信が出来る時代を迎えた。インターネットはそれまで民間人が娯楽で使う趣味の延長という印象だったが、ついに社会的な報道の価値を持った転換点だと思う。
 今、テレビはしきりに自分達は公平性という制約を抱えてネットは規制なき混沌だと評しているが、そもそも番組の総尺と放送時間に縛られてる時点で、もはやメディアとしての価値は無い。肯定意見にせよ否定意見にせよ5分からせいぜい10分程度で片付けて視聴者には充分な情報が提示されない。インターネットよりも早く、インターネットよりも詳しい情報が無い。そんなメディアを誰が見るというのか。
 自分にもテレビの思い出はある。ドゥギーハウザーやアルフなど海外ドラマを楽しみ、地下鉄サリン事件や911で衝撃を受け、金田一少年の事件簿や踊る大捜査線やカウボーイビバップや紅白歌合戦などを友達と見て楽しかった日々の一部ではある。しかし、自分はもうドラマもアニメも歌番組もニュース番組も見ない。
 素人も玄人もインターネットにいる。素人でも1点だけ光る事があるし、玄人は言わずもがな。情報の正誤はあるにせよ、肯定も否定も本人が直接発信が出来る時代にテレビなんぞ何の役にも立たない。自分が唯一テレビに価値を認めているのは、自然災害時にネット回線が切れて速報が得られない場合。しかし、311の時にNHKが緊急でネット配信をしていたが、自分が当時働いていた会社にはテレビが無かったので、インターネットで配信されてた緊急番組を垂れ流していた。あの時点で、いよいよ緊急においてもテレビは不要だなと実感した。
 自分は2000年頭くらいでテレビからは離れていたが、トドメを刺したのは2010年と2011年だと思っている。
 そして、これまで5体満足で動けず胃瘻で無理やり生かしてきた体が、ついに終わった。自分はそういう感想を持っている。

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