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<映画レビュー>マイ・ブロークン・マリコ

アマプラで永野芽郁主演にて漫画実写化の邦画を鑑賞。Filmarksにレビューを書いたけれど、少し消化不良なのでこちらにも残しておく。

あらすじ

主人公シイノはテレビのニュースで親友のマリコが亡くなったことを知る。マリコの亡骸が直葬され、親のもとに遺骨があることを知ると、シイノは幼少期よりマリコを虐待していた父親の元から遺骨を強奪・逃走。
マリコの弔いとして生前マリコが二人で行きたいと言っていた海を目指し、シイノは遺骨を抱えて旅に出る。目的地を目前にしてひったくりにあうが、通りがかった釣り人マキオに助けられ、シイノはなんとかマリコとともに約束の岬へ辿り着き…

近しい人を亡くしたとき、遺された人はどうしても未練や後悔の念から、罪の意識を持つことが多いように思う。

マリコを亡くしたシイノもまた、生前のマリコに対する己の態度を顧みて、依存体質のマリコをウザがっていたことや、それらの苦い記憶を忘れていってしまうことに対して罪の意識を抱く。海に2人で行ったりマリコの後を追って自死しようとする試みを経た挙句、マリコに重ねた少女を犯罪から救うことで贖罪は達成される。シイノは贖罪行為により死の受容を果たしていくと言えるだろうか。

会社すっぽかして遺骨奪って海まで連れていくというのは一見ドラマチックだし衝撃的な展開。
それでも友達の死に正面きって向かい合い、シイノなりの弔いを全うしている姿は、ある意味とても健全で正統なことのように思えてしまった。
事実の否認→怒り→取引(復讐)→(抑うつ?)→受容というキューブラー・ロスの死の受容の五段階を猛スピードで駆け抜けていく感じ。
大いに怒り、大いに悲しんで、日常へと戻る。シイノはたくましい。

しかしリアリティの観点からみると、死者との向き合い方が一番しっくり来たものとして、大豆田とわ子と3人の元夫の描写を思い出した。
そりゃあ仕事休んで虐待していた遺族から遺骨奪えたらカッコ良いだろうけれども。
母の遺骨をリュックに入れてそのまま社長就任式に行き、
親友かごめの死後、遺族との間でうまく立ち回り、葬式の花担当を勝ち取る大豆田とわ子。

日常を慌ただしく過ごしながらも、ふとかごめが受賞したトロフィーを見ては、彼女との約束を思い出し自らを鼓舞する。そんな中、とわこと偶然公園で出会った小鳥遊は、かごめとの関係について独自の考えを話す。

「人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、30、40。その時その時を懸命に生きてて、過ぎ去ってしまったものじゃなくて、あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて今からだっていつだって気持ちを伝えることができる」

金子文子もまた「一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中に存続する」(ブレディみかこ『他者の靴を履く』より)と語る。

これらの前提条件は遺された人物がしっかりと生き続けていること。

だからこそ、あのマキオの言葉が響く。

「もういない人に会うには、自分が生きているしかないんじゃないでしょうか‥‥」
「あなたの思い出の中の大事な人とあなた自身を大切にしてください。」

本作は窪田正孝の演技が最高だった。
やはりなんといっても彼の声。
窪田くんにあの声で「大丈夫にみえます」って言われたら、ひったくりにあおうが崖から落ちて足が骨折していようが全部大丈夫に思えそう。
それくらい深い優しさに満ちている。

海と窪田くんを観ると、「Nのために」を思い出す。
するとNのためにの成瀬ー杉下の関係と、今作のシイノーマリコの関係が少し重なって見えるような。

杉下はマリコと異なり自死までは追い込まれない。けれども成瀬→杉下、シイノ→マリコを救いたいという気持ち、その意思に反して家庭の事情に介入し根本的に彼女たちを救うまでには至らなかった青少年期の無力感などは、2人に共通するのではなかろうか。

あのマキオの言葉は、まるで成瀬からシイノに対してかけた言葉だったようにも思うのだ。

とわこがいるからこそ、かごめは横断歩道を渡れずにいるように、
シイノが生き続けるからこそ、小学生のマリコは手紙を書き、大人のマリコは線香花火を見つめ微笑んでいる。

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