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【雑記】ちがう仕方で。――表現と輪づくりについての覚書4


 盛況だった文学フリマ東京に足を運んだ。


 「好き」にまっすぐな人たちから放射され会場内に立ち込める情熱を浴び、「好き」の結晶を抱え切れないくらい受け取り、刺激を受けた。
 ただ、同時に思う。いま私にそういう形でのエンパワメントは可能だろうか。

 変化の季節を経て、4月は環境に馴染むので精一杯で、外に目を向ける余裕がなかった。ただ、連休を経て少しだけ見晴らしが良くなってきて、しばらくお預けとなっていた動物園や水族館にも足を運ぶことができた。

 ビビッドな生々しい形でインプットすると、インスピレーションは溢れ出す。いまもあれこれと動き出したいアイデアだけは頭の中に蠢いている。
 今年になってから初めて足を運んだ園館の訪問ルポを執筆したい、動物園関連書籍の読書会「不忍ゼミ」を再始動したい、これまでの活動をまとめた個人サイトを立ち上げたい。どれも計画だけは頭のなかにある。
 でも、着手できない。週末はやるべきこと、やりたいこと、どれも目一杯手をつけていて、隙間がない。平日は平日で取り組むべきことが待っている。
 これまで臆面なく、かつ遅滞なく構想した活動に形を与えることができていたのは、ある種孤独で、同時に表現そのものを渇望していたからだ。いまの私は違う。あれほど厭わしかった伽藍堂な隔絶された状態からほど遠い。私はヒトという種の社会の環の中にある私をはっきりと知覚できる。「私の表現」の優先度は私の中で下がっている。

 先日冒頭部分を先行公開した「『霊長類フリーマガジン』のつくりかた」も、執筆を進めたいと思いつつ思うように着手できていない構想のひとつだ。

 私は当面書誌制作から離れることを決めているが、同時に2年間にわたる「霊長類フリーマガジン」の取り組みを経て身についた知見をこのまま死蔵させてしまうのは惜しいとも思っている。思っているだけ、冒頭だけ書いて、筆が止まってしまった。

「動物園」を趣味活動の中心に据えて5年。競争よりも横展開を大切にしてこれまで活動してきたし、歴史探訪、小説、短歌、ポッドキャスト、ZINE、読書会、自分が選択しうる表現手段を総動員してきた。
 その間にも国内の動物園を取り巻く状況は絶えず変化してきたが、私の人生航路の中で動物園の「いま」を追いかけ続けながらプロジェクトの形で間口広く掘り下げた方を展開していく活動の方向性に無理が生じ始めているのかも知れない。宮崎駿監督の「風立ちぬ」の劇中の台詞を思い出す。曰く、創造的人生の持ち時間は10年だ。設計家も芸術家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい。と。

    知り得たことを発酵させ、くわだてごととして昇華するには、意識的に時間を確保することが必要な段階にきている気がする。

 この記事と同様「ちがう仕方で」と題した雑文は、趣味活動のスタイルを見直すとき、半ば無意識的に綴っている。今もその時なのだろう。熱は受け取った、材料も受け取った。あとは料理人としてやっていくという腹づもりだけだ。

 5月は外に外に開かれていた視座を6月に入ったら内面に引き戻し、アウトプットに力点を置く。趣味活動の領域では、そういう風にしてやっていく。

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