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【雑記】ちがう仕方で。――表現と輪づくりについての覚書3


 先日から𠮷田恭大さんの歌集『光と私語』(いぬのせなか座,2019)を読んでいて、印象的な歌に出会った。

脚の長い鳥はだいたい鷺だから、これからもそうして暮らすから

 

 この歌について、付録の栞で堂園昌彦さんが解説されている。

 この鳥をアオサギだとか、コサギだとか、ダイサギだとか、あるいは鷺じゃなくてセイタカシギだとか、そういった同定は行わない。(中略)この人にとって鷺を見る喜びは喜びとしてあるが、それはアオサギの生態を細かく認識していくことでも、あるいは一羽一羽に名前をつけて個体として愛でることでもない。おそらく「脚の長い鳥がいる」ということに直面したときの心の動きを最大化するために、こうした解像度のダウンコンバートをあえて意識的に行っている。

 解像度のダウンコンバート。動物園で生きものに出会い、感慨に形を与えることに趣味の時間の多くを注ぎ込んできた私に、そのことばは深く突き刺さった。

 生業ではない趣味の領域でも、続けていけば見えてくる世界は広がっていく。目が肥えてくる、ともいう。日本全国にこれほど多くの動物園・水族館があることも、それらの施設で暮らす稀少動物の多くは血縁で結ばれているということも、戦後という時代を背負って生まれてきた動物園が曲がり角に立っていることも、動物園・水族館という場に魅せられるまでは知らなかった。知り得なかった。

 知る必要がなく認識の外にあったことをあえて知っていくという行為は、純粋な快楽だ。

 私の場合「動物園史」への関心の炎が、動物園の探求を続ける上で主要な動力源であり続けた。

 歴史的な連続性の中で捉えた時、動物園・水族館という場から単なる娯楽施設だと割り切れない貌が立ち上がってくるという発見に熱狂し、没頭した。

 種ではなく個に光を当てることで、それぞれのいのちをまなざしてきた人々ひとりひとりの生の諸相まで視界に広がってくるようで、生きているものたちが媒介する時空間の豊饒さを感じていた。

 一方で、それぞれの動物園・水族館が持つ場そのものの魅力や、個々の生きものたちが魅せる瞬間瞬間のかけがえのなさを感じ取り、思いを馳せようとするときでさえも、それらの場や個の来歴を逐一参照する見方にとらわれがちになっていたことも自覚していた。

 ものの見方が凝り固まると、ヒトという生きものは頑迷になる。そして時として争い合うようになる。

 戦後動物園の父、古賀忠道博士は「動物園は平和なり」ということばを残している。とらわれること、拘泥することで穏やかさを失っていくのなら、違う方法での向き合い方に切り替えていくべきかも知れないと考えるようになった。


 冒頭に掲げた「ちがう仕方で。」と題した覚書2編には、凝り固まった視点にとらわれたまなざしをいちど括弧に入れるために私なりに考えた結果を記録した。ここでの思考と試行は、2020年に発刊した霊長類フリーマガジン「【EN】ZINE(エンジン)」に結実した。

 ひとりきりの視座に留まらず違うまなざしを持った方にも力をお借りしながら、「表現の引き算」としての詩歌を含めた多様な表現方法を試みていく中で、これまで持ってきた「史学的視点へのこだわり」は次第に薄れていったように感じている。ヒトといううつわには限りがあって、何かを獲得しようとすれば何かをこぼさなくてはいけないから。

 こだわりを薄めると、解像度は下がっていく。今年の後半も時間を見つけてはいくつかの動物園を訪れたが、非常に軽い気持ちで園を歩くようになった。昨年までのように開園から閉園までずっと滞在し(あるいは複数の園館をはしごし)、何周も歩いて可能な限り味わい尽くすということもなく、ある程度こころが自由になって満足したと感じたらさっと出ていく。また次の訪問を楽しみにしながら。

 「だいたい」の、ぼんやりとした視界を楽しむこと。偏執狂的なやり方ではなくゆるくまなざしを傾けていくこと。長いこと忘れていたかも知れない。思い出していきたい。

脚の長い鳥はだいたい鷺だから、これからもそうして暮らすから



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