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何でも良いから、幸せになりたい。

6月の3日連続ライブが終わった。

昨日は嬉しさでいっぱいだったのに、今日は哀しくて泣いていた。
いつも思うけど、私のこの落差は何なんだろう。

今日は久し振りにピアノの前に座って、久し振りにゲーム音楽のカバー動画を上げようかと思った。
何年か前から「 #ひかりのピアノ 」として、自分の好きな曲を中心に上げていたのに、最近めっきりやらなくなっていたから。
そして、25年間小学生の頃からずっと好きだったゲーム音楽を弾こうとした。
今そのゲームはswitchでリメイクされて、毎日TLにそのゲームの二次創作が流れてくるくらい、人気の波が来ているのだ。カフェでコラボもやっているし。
そしたら、どうにも弾けない。手が震えるのだ。気持ちも乗らない。乗る訳がない。

理由は解っている、色々あって、作曲者の方に自分のピアノをやんわりと、でも確かに認めてもらえなかったのにショックを受けてしまっているのが、

27年間弾いてきたピアノを「初心者だ」と言われた事が残ってるのが、何だかなぁ。


私はクラシックの専門的な勉強をすっ飛ばして、ほぼ独学でピアノ弾き語りとして13年活動してきた。
5歳から20歳過ぎまで、ピアノの先生にクラシックを一応習ってはいたけれど、専門的なレッスンではなかったと思う。
私のピアノの先生が、きちきちした教え方ではなく、生徒の好きな曲を好きなように弾かせるタイプの先生だったからだ。
経済的な理由もあったし、家庭環境も性格的にも色々あるし、私は専門にも音大にも行かなかった。

“楽譜通りに弾く”事が、上手く出来ない、ピアノの先生には『ひかりちゃんはクラシック弾きにはなれないね』と言われた事が鮮明に甦ってくる、
『なぜなら、クラシックはショパンの書いた曲を楽譜通りに現代に甦らせると言うことだから、
ひかりちゃんが弾くと全部“《ひかりちゃんの》ショパン、ひかりちゃんの曲!”みたいになってしまう』
と言われた時、あんまり良い気持ちがしなかったけど、今ならその言葉の真意が本当の意味で解る気がする。

私は、楽譜通りにきちっと弾くよりも、自分が弾いていて楽しい方を選んでしまう。

クラシックの人からしてみたら、楽譜は『作曲者からの手紙』であるので、楽譜通りに弾かないと『手紙の文面を無視して好き勝手やりやがって』と怒ってしまうのも無理はない、らしい。
じゃあ私のピアノって何なんだろう。
明らかにクラシックではない。
“半ば楽譜を読み散らかして、しかも自分の好き勝手にその曲に創作を加えている”のだ。音数を増やしたり、メロディーの音が違っていたり、リズムも正確じゃなかったりするだろう。
『これはこれであり』と思えない人だと、「何だこれは!」と聞いていて思うのだろう。
レシピが決まっている料理を、レシピを途中から勝手に作り替えて、半分新しい創作料理を作り出してしまって、「これ食べてみて下さい、美味しいですよね?」と満面の笑みで差し出されても、元のレシピを作り上げたシェフは「俺の完璧な料理に何してくれてんだてめえ、、」と半ば怒り半ば呆れたくなる気持ちは解る。

でも私は思うのだ、音楽に正解なんてない、と。
厳密に言えば、“ただ正解だけがあるんじゃつまらない”かな?
元々が狂ってるな、、、
きちんとした枠に収めるだけの音楽じゃなくて、枠から自由にはみ出ても良い、そんな自由な気持ちで音楽と向き合いたい、窮屈な所に私を押し込むのはやめて、と言う気持ちは、正直言うとある。

ニコニコ動画出身の友達が言っていた
「元々ニコ動って、別に上手い人だけに開かれた場所じゃなくて、例えば平日は仕事をしている人でも、音楽が好きな人が自由にやってみたい!って気持ちで、好きなものを好きに楽しく投稿出来るようなスペースだったはずなのに…」
って話を思い出す。

例えば同人のような二次創作でも「絵の上手い人だけ書いてよし、下手な人は創作するな、それをSNSに上げるな」とかって決まりはないよね?
それと一緒なのかもしれない、私の感覚は。

でもねぇ、神様、何も一番好きなものじゃなくても良くないか?
私が一番好きで、命を救われて、それがあるから生きて来れた、ぐらいのレベルの物、それを作り出した人に、自分の事を否定(少なくとも手放しで肯定ではない)されるのってマジきつい。

でもそれくらい大切なものじゃなければ、私はきっとどうでも良いのだと思うし、そんな風に気持ちや期待を込めて本気で向き合ったりしないだろう。
ダメージもゼロだし、利益もゼロだ。
でも今まで大好きだったものが、大人になって只の大好きじゃ居られなくなるのって、どうしてなんだろう。
私は特にそれにぶち当たる。
好きだったミュージシャンの音楽も、大好きで命を救ってもらったゲーム音楽も、もう昔みたいに憧れ尊敬純度100%で向かい合えないのがしんどい。
つーか恐ろしいよ、、、

そうすると、結局自分の中から出て来た物だけしか信じられなくなる。
自分の作り出した物は、決して私を裏切らない、私の本気で嫌がる事は絶対にしないから、私を不幸にではなく幸せにしてくれる。
だから、自分を幸せにするために、ますます音楽に向き合うしか無くなってしまう。

大事な友達が言ってた、

『子供の頃に自分の大切な心の世界を作り上げた物が、本当は存在しない作り物なのに、自分みたいなタイプはそれが本当に存在していると本気で思ってる。
大人になって、例えばその影響を受けた物に、自分が仕事で有難い事に関わらせてもらったりすると、本当に光栄な事なんだけど、それによって裏の作り物の部分が見えてしまったり知りたくない事を知ったりして、
心の中を作り上げていた大切な存在の物が、現実を知る事で悲しいかな、少しずつ、汚れていくんだ。』

って話が、今本当に解る。

その話を聞いた時はそんな事あるもんか、好きだった作品はずっと好きで、色褪せなくて、それが嫌いになる事なんか絶対にある筈ないって思ってたけど、
私も本当に大好きだったものが、どんどん現実の中で綺麗なだけじゃない、どんどん汚れていく事によってダメージを受けてる。
もう知る前には戻れない、だけど、これしんどい。笑

でもその作品が大好きな事には変わりないんだよね、だから厄介。
甘いだけじゃない、苦味も知るみたいな?
その苦味が、自分を良くするために、これからのスパイスに、無くてはならない味の深みになってくれたら良いんだけど、、

まあでも大人になって、子供の時より、それに、目指してたものに近付けたって事なのかな。
近付いてみたら綺麗に見えてたものが実はそんなに綺麗じゃなかったとか、
富士山は遠くから見る物で、近くで見たら結構ゴミだらけ?(本当かは知らないけど)って事と一緒なのかな
(銀魂でも確かアイドルの話でこんな話あったよね、アイドルの立ってるステージは、数々の夢の屍達が積み重なってキラキラしたステージのように見える、みたいな、めっちゃ共感します。。)

ああ、沢山泣いたけど、すっきりした。

もう明日は大丈夫そう。

だってミュージシャンもクリエイターも所詮人間だからさ、良い所も悪い所もあって当たり前なのよね。
完璧な人間なんてこの世に存在しないんだから。

もし「何てこの人はすごく良い人なんだ!!」って感じる人が居たとしたら、それは敢えて嫌われたくないから“嫌われないように、良い人だと思われる行動を選択して行動してる”んだと思う。

人間って愚かで愛おしい生き物だな。

私は嫌われたくないから、きっと嫌われないように言葉を選んで伝えるタイプの人間です。臆病なのかな、それだけ、あと自分がされて厭だった事を、出来るだけ他人にはしないように、と思う。
稀に“自分が嫌な事をされてとても傷付いたから、それを他人にも全く同じようにやる事が一番正しい”と信じている人も居て、
私にはその人の気持ちは、解らないです。。何でそう言う思考回路になるのか、、

自分を信じる、自分を肯定するって難しいな…。

私は私の大切な人たちが、幸せで在って欲しいと願います。
勿論、自分が生きている限り、私も幸せで在りたいと思う。

傷付いたもの、傷を付けられたものであっても、赦せるようになりたいよ。
許せるような、心の広い余裕を持って生きてたい。

究極を言っちゃえば、難しく考えずに、もう何でも良いから幸せになりたいと思う、みんな。

難しく考えているのはいつもこの頭だけど。


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