人との出会いは人生の宝探しである
あの時みたいにまた青春がしたい。
大人になっても青春ができると思える日が来るなんて普通は思わない。高校生を主人公にした漫画はもうアラサーになると感受性が鈍っているのか、ついていけなくなることが多い。大概は恋愛に発展するかスポーツ、文化系の部活に充てられた話が多い。「学校内での出来事」と「行動範囲が制限される」ため、学園漫画の話は展開が限られてくる。学園漫画の良いところは「青春っぽいな〜」というところにあるけど、今の僕には青春ができる年齢はすぎてしまった。
今僕が読む漫画としてはお仕事系の漫画かSF系が多くなってきた。その中で『まじめな会社員』という漫画は「大人の青春」を体現した漫画だ。大人になれば新鮮な体験や出来事がなくなっていき、刺激がなく退屈に過ごす社会人に大変共感を呼ぶ漫画だ。出会いがなくなっていく社会人には新たな出会いは貴重であり財産であると教えてくれる、とても琴線に触れる漫画だ。
僕が今こうしている最中、周りの人たちは結婚・出産と次へのライフステージへと進んでいる。僕はこのままで良いのだろうか。ライフステージを考えなければならないビミョーな年齢に差し掛かっている。「人生100年時代」だというのにもう将来のこと考えなければならないかと息が詰まる。考えるだけで体の奥底に鉛のようなものがズドンと落ちる。
僕が友人に対して常々思うのは「どうか変わらないでそのままでいてほしい」ということ。大体において学生時代に仲良くなるきっかけは似たような価値観の人である。しかし卒業後は、今いる環境もまったく違えば優先事項も変わってくる。すると年数が経つにつれて価値観が変わってくる。時間が合えばLINEなどで連絡を取る程度の大学時代の友達が3人いる。それは別に友情が薄れたのではなくお互いの生活を優先しているからである。まだその3人は結婚していないので「自分だけの生活」があるからまだこうして会って話したりすることができるが、これがもし結婚していたら「夫婦の生活」を優先し、僕と「友人」として会ってくれなくなるかもしれない。結婚は素晴らしいことだし、喜ばしいことだけど「あの頃の仲に戻れなくなった」という悲しさがある。
魯迅の『故郷』の印象的なシーンだ。要するに久しぶりに会った幼馴染がすっかりと変わってしまい、幼馴染なのに「旦那様」と呼ばれてしまうことに主人公の寂寥感に苛まれる様子が描かれている。これを読んだ中3当時の僕にはよくわからないが、今になってようやくわかった。
付き合いの長い友人でも、時間的隔たりと身分格差によって、人間関係を劇的に変えてしまい、仲の良かったあの頃に戻れなくなってしまう人間関係は寂しいものがあるという、古典の教えというのは正しいことを実感する。その中で魯迅『故郷』は、変わりゆく人々の心情や人格、身分を感じて生きていかないといけない中国の現状を伝えてくれているものだったに違いない。故郷は離れていても自分の心の支えでもあったはずだが、主人公は現実を突きつけられる。かつての故郷の代わりに若い世代の新しい生活に希望を持たざるを得ないのである。これは人の出会いと別れでも同じようなことが言える。
世間はお盆休みになったころ、僕は中学時代の友人と6年ぶりに会ってきた。急に誘いの連絡がきたのだ。中学時代めちゃめちゃ仲良くしていて、卒業後も頻繁に遊んでいたが大学生の途中からぱったり会わなくなってしまった友人である。会ってみていろいろと話していたがその友人はあのころと何も変わっていなくて安心した。
帰り際、「また会おう」と言ってくれたのである。「いつかまた会おう」じゃなくて、ちゃんと次会う約束をしてくれたのが良い。もし会う気がなかったら「じゃ、また今度」と言うからだ。本当に友だちだと思うのなら「会う日を作る」というのが大事になってくる。最近、つらい体験よりも失われたごく普通の生活や、希望に沿った人生が歩めないことに心が騒いでいた。会っておしゃべりするってなんてことのない日常だけど、そこには替えの利かない時間があった。この大事なひと時を過ごすことで僕の人生のレールが切り替わった音がする。そして人との出会いは人生の宝探しなのではと思い始めている。
大人でもまだ青春がしたいんだ。そんな夏休み。
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