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読解力と「この勉強将来何の役に立つんですか?」に教育者の真価が問われる

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない、自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。(中略)ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。

今の私の読書生活に殴りにかかってきて正直痛くなる文章だが、これはショウペンハウエル『読書について』の一節である。

ショウペンハウエルは本をただ数多く読めばいいのではなく、読んだことを反芻し、熟慮を重ねることで真のものとなると言っている。


それはそう。



蔵書だけ増すだけ増やして本を読まなきゃ意味がないのは至極ごもっともではある。汗牛充棟かんぎゅうじゅうとうという四字熟語があるのも、それを揶揄しているかのように思える。(そんなことはない)

国語のテストで「このときの作者の気持ちは何であると考えられるか」の問いがあったとき


わかるかい!!!



と、私なら思っていただろう。しかし、ショウペンハウエルから言わせてみれば「本読んで考えてさえいればそんなもん余裕で解けるっしょ」と言うかもしれない。(そんなことはない(2回目))


国語の授業で文章を読み、問いに対して適切に答え、正しく読み解く。すなわち読解能力を養う。

国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし,国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。
平成29年告示 学習指導要領 中学校国語編 「第1 目標」

学生時代、塾講師のアルバイトをしていたとき、小6に体積を求める問題を解かせた。

「たてが6cm、よこが3cm、深さ10cmの水槽があります。この水槽が水でいっぱいになったときの体積を求めなさい。」

という問題だった。文章題とはいえ、計算に必要な数字はちゃんと示され、図もある優しい問題だ。すでに体積の求め方(たて×よこ×高さ)は学習済みで、応用の文章問題を解かせたところ

小6「せんせー、高さってどれですか?」


僕は正直、真っ暗になってしまった。


高さ#とは



算数的・数学的思考を問うどころではなくなった。まずこの子は「たて×よこ×高さ」の公式が頭にこびりついているので、文章題で示されている「深さ」が「高さ」とイコールになっていないのである。

これは困った。時間にして15秒くらい悩んだだろうか。この時間が(アルバイトとはいえ)教育者としての真価を問われた気がした。この子は学校でちゃんとうまくやっているだろうか。この子は将来やっていけるのだろうか。教え子の人生に思いを馳せる日が来るとは思わず、驚いた。しかも「高さってどれですか?」でだ。そして同時に、人生の長い時間、誰かの人生を思う時間に使われるのだろうと。それがこの15秒間に反芻した。

「高さというのはここでいう深さのことだよ」と言えばすぐ解決するのだが、上記のように「この子は将来やっていけるのだろうか」が頭をよぎる。

私がかつて勤めていた学習塾は進学塾ではなく、「お勉強が苦手な子が集まる」塾であった。お勉強が苦手なりにも頑張って問題を解こうとする姿をみると、この仕事のやりがいがある。ただ問題を解かせて解説すればいいというわけではないものの、時折、他人の人生までも思いを馳せることがある。教育者たる教育の本質はそこにある。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
教育基本法 第一条 「教育の目的」

「せんせー、高さってどれですか?」ときいてきた子とは別に、ある日、中2の男の子に数学を解かせていた時のこと、その子も「お勉強が苦手」な子である。その子に限ったことをいえば、屁理屈を言う子であった。

中2「この問題解いて将来何の役に立つんですか?」


いつか来ると思っていた質問がきた。これも回答次第では教育者としての真価が問われる。

「次のテストで点数をとるためだよ」とか「今まで解けなかった問題が解けるようになるのってソシャゲみたいで面白くない?」とかいろいろ言えたはず…である。


この質問に対する私の回答は今思えば教育者失格だった。大学生だった私はまだ未熟で若かった。血気盛んな若者だった。「成績を上げるために塾に来てるのにその質問はなんだ」とか「勉強ができないことを棚に上げて何を言ってるんだ」と、私の脳内では憤怒、放漫、怠惰、強欲がめぐる。七つの大罪のうちのいくつかを犯しそうになる。平たく言えばその質問に少しイラっとしてしまった。それを表情には出さず、決死の覚悟でこう答えた。




私「この問題も解けない君は将来何の役に立つの?」




……言ってしまった。教育者失格の烙印を自ら押してしまった。

それを言うと、中2の男の子は豆鉄砲を喰らったハトのような顔になってしまった。ポカーンとして「今、ぼく何を言われてたの?」状態になっている。

「まぁ……次のテストにむけて一緒にがんばろうや」と精一杯のフォローを加えた。

「せんせー、高さってどれですか?」と「この問題解いて将来何の役に立つんですか?」と、きいてきた子には申し訳ないが、今は算数や数学を解いてる場合ではない。

国語って大事だ。


他人が書いた文章を読み、どう考え、どう生きるかを自身に問う時間が必要だ。

以前、「読解力を高めるには?」みたいな記事を書いた。ちょうど1年前に書いた記事だが、有難いことに多くの方に読んでもらえている。ぜひ読んでほしい。

ただ字面だけを追う作業ではつまらない。読んでいて「よくわからない」という現象に陥るのは表現技法を知らないのと、単純に知ってる言葉数の多さに影響する。そしてジャンル問わず、作品の全編を通して読むことで作品としての真価がわかるのである。第三者によってまとめられた要約文や図解に満足している場合ではない。

(前略)すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、だれにでも通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。
ショウペンハウエル著、斎藤忍随訳『読書について』岩波書店 P134

そこに書かれている言葉を読むと、その光景、人物やいろいろな国の物語がありありと目前に浮かんでくる。これはどうしてだろうか。人類は言葉を持っている。言葉を扱うことができるからである。そしてそれを読んだ者は人生をより豊かなものにしてくれる。そうすることで社会が豊かになり、自分自身も豊かになる。他人の幸せが自分の幸せにもなれる。人の書いた文章を読んで、言葉を紡ぎ、自分のものとして吸収することで、今後の自分を形作るのである。

今だったらそんな質問してきた生徒にこう言う。

言葉をいっぱい知ろう。そうすれば、今の君の「この勉強将来何の役に立つの?」の答えになると思う。社会全体の幸せが君の幸せになる。そんな幸せがいつか君にやってくる。そうなれるように一緒に頑張ろう。



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