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ソクラテス「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのだ。死を知っているものは誰もいないのに、そしてそれはまた、人間にとって、最も善いものであるかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのだ。」

ソクラテス「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのだ。死を知っているものは誰もいないのに、そしてそれはまた、人間にとって、最も善いものであるかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのだ。」
(「ソクラテスの弁明(プラトン)」より)

無知の知(不知の自覚)は、哲学に興味のない人であっても一度は耳にしたことがあるでしょうし、それほど難しいものではありません。
まあ、そういうもんだよね、と大抵の人々はすんなりと理解するでしょう。

しかし、このようなソクラテスの切り口を読んだときに、唸らずにおれる人はどれだけいるのでしょうか。
少なくとも私は小一時間ほど唸りました。

私たちは、死を恐れます。

何故でしょうか。
何故、私たちは、死を恐れるのでしょうか。

死んだことなんか一度もないのに。
死んだ人から「死ぬということはこういうことで、死んだ後はこうなるんだよ」と聞いたこともないのに(当たり前ですが)。

つまり私たちは、死を知らないのに、「死は恐ろしいものだ」と勝手に決め付けているのです。
知らないことを「知っている」と思い込んでいるのです。

もしかしたら、死というものはとても善きものであって、死んだ後には楽園があって、先に死んだ家族と再会できるのかもしれないのです。
いや、そんなはずはない。死んだ後には何も存在しない。ただ「無」があるだけなのだ。
・・・と断言する人もいるかもしれませんが、何を根拠にそんなことを言うのでしょうか。

死は恐ろしいものである。
死後は無である。
これらはいずれも、知らないくせに知っていると思い込んでいる、私たちの勝手な思い込みです。

知らないものは知らない、と思うのが正解なのです。
死は善いものか、それとも悪いものかを判断することはできないので、判断を留保(エポケー)するのが正解なのです。

そうは言っても、判断を留保することなく、考え抜いていきたい、というのもまた、人間の性(さが)です。
二十世紀に入って、このような「知り得ること」と「知り得ないこと」に明確な線引きを設けたのがウィトゲンシュタインです。

ウィトゲンシュタインの理論は非常に難しいのですが、要するにこの世界は現に存在する事実の総計であって、明らかに事実であれば有意味(語りえるもの)でり、明らかに事実であると検証できないものは無意味(語りえぬもの)であるとしたのです。

語りえぬものとは、要するに上述の死の問題であり、或いは神や魂といった形而上的な議論のことです。
ウィトゲンシュタインは、これら語りえぬものを排除しようとしたのではなく、無意味ではあるが「示されうるもの」であるとしました。
つまり、確実に知ることはできないにしても、私たちに何らかの示唆を与えるものであって、その意味においては有意義であるとしたのです。

このようなウィトゲンシュタインの思想を捻じ曲げて、都合よく解釈したのが後のウィーン学団です。
ウィーン学団は哲学者というよりは自然科学者の集まりであり、学問の世界から形而上学を完全に排除しようとしました。
・・・が、途中で頓挫して自然消滅しました。

頓挫した理由は明らかです。
自然科学には限界があるからです。
私たちは、この世界のあらゆる事柄を検証することは不可能だからです。
例えばカラスを検証して「カラスは黒い」と結論付けることは簡単ですが、しかしこの世界のどこかに一羽でも白いカラスが発見されてしまうと、その結論は覆されてしまうからです。

だから私たちは、ウィトゲンシュタインの言う語りえぬもの、示されるべきものを、この世界から排除することはできないのです。
科学的に検証することは不可能であっても、何らかの示唆がある以上は、探求し続けなければならないのです。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。