映画「花束みたいな恋をした」
あんま情報なく観てきました。
素晴らしい。素晴らしい。
坂元裕二は天才やで。
おっさん、どのツラさげて花束とか言うてんねん、というツッコミも聞こえてきますが、わたしの中には恋する女子大生の側面もありますので、別にいいのです。
***
映画始まっていきなり「天竺鼠のワンマンライブ」ってありえないワード出てからずっと笑ってて、固有名詞が出てくるたびにいちいち刺さって序盤はほんと楽しかった。
有村架純が菅田将暉の部屋の本棚みて「ほぼ私の本棚じゃん」と感動するわけですけど、ワイもおんなじ気持ちやったで。
本棚に舞城王太郎があるヤツを嫌いになれるわけがない。
世の中は「ショーシャンクの空に」とか言うとけば、へー映画好きなんだー、となるゾーンがあるわけですけど、我々のGODは、そういうド真ん中とはまた別のゾーンにいらっしゃるわけで。
世間の多数派潮流から、ややズレた二人が奇跡的に巡り合う、それが恋の始まりで。
とはいえ、サブカルクソ野郎同士がサブカルの沼の中で出会って多数派にケチをつけながら乳繰り合うようなお話はききたくないわけです。
けど、坂元裕二が天才なのは、これがリアルワールド、この二人が現実世界のメジャー主流派の荒波の中で出会うという、それだけでもう神々しいスタートなわけです。
私もたまに
「庄野英二のアルファベット群島?読んだことあるよ」とかいう女性に出会ったら、顔面とか関係なく恋してしまうだろうなー、と妄想することがあります。
「俺、ギアナ高地行かないと死ねないんよ、ま、知らんよね、ギアナ高地」
「アウヤンテプイとかですよね」
「!!」
というような会話を夢見たりもするわけです。
そういう奇跡のような「お前は俺か」体験。
同じものに興味を持ち、同じものに泣き、笑い、同じものを大切にする。
そういうキラキラした日々が映画の冒頭からこれでもかと描かれて
「あー、ずっとこのすてきで幸せな時間が続いて欲しいなあ」
と思うわけですけど、残念ながらある程度大人になってしまったわたくしは、二人がまだイチャイチャしてるうちから「花束みたいな恋」というタイトルの意味に行きついてしまう。
花束はとても綺麗だが、根が張っているわけではなく、時間とともに、いつかは萎れてしまう。
そーか。
終わってしまうよな。
あー、そうだよな。
親切なことに、この映画は冒頭2020年の描写で、有村架純と菅田将暉はすでに別れていることが描かれている。
「最高の離婚」なんかも親切なタイトルですけど、終わりへと向かう道のりをいかに調理するか、というそういう坂元裕二の特性・技術ですね。
数多ある恋愛ドラマの
この恋どうなっちゃうんだろ?!
というような物語の動力はこの映画にはない。
定められたジ・エンドに向かう悲しさ、寂しさ、どうしようもなさ、そして、その避けられない終末をどう受け止めてどう向かい合うのか。
ある意味で、死生観が問われるお話だったとも言えます。
別れ話のあと、ジョナサンから出た二人は泣きながら抱き合うわけですが、もう大人なわたくしは、抱き締めあってるから、まだラブラブじゃんなどと、とうてい思えない。
ああ、終わりだ。終わってしまうのだ。
わたしの目には二人は、こんなにも素晴らしかった恋の終わり、を挟んで抱き合っているように見えた。どうしたって終わってしまう素敵でキラキラした日々。大切にしたいものばかりが詰まってる、誰からも否定されることのない日々。ありがとう、さようなら、というね。
なんて美しくせつない抱擁だろう。
泣けるやん。
だいたい個人的には恋が成就するまでの夢みたいなお話が好きで、付き合い始めてからのアレコレの実務的な話が始まると飽きてきてチャンネル変えたくなる体質なんですが、それはおそらく、恋愛がしぼんでいく過程がありきたりであり、「一時的に燃え上がっても、そのうちだいたい冷めてくるよねー」的な雑な理屈だったりするから、いちいちそのお決まりの理屈で萎えていく二人を見せられても、そらそーやろ、と、時間の無駄のように思うからなのかな。
本作、花束は、どのような理屈で恋が消滅していくのかを、変化する菅田将暉と変化しない有村架純、もっと細かく言うと、速めのスピードで変化する菅田将暉と遅めのスピードで変化する有村架純、という構図で見事に描き出している。
出会いの時点では二人はピッタリ同じ場所にいて、奇跡だと思えるわけですが、いつまでもその場所に留まることなどできない。
同じ場所から、同じ方向に、同じ速さで歩いていくなら、そんなことができるなら、
二人はずっとこのまま、幸せなまま、ということもあるかも知れない。
しかし、最初が奇跡で、そこからも奇跡、なんてことは奇跡の二乗ですから、ほぼ起こらない。
そうして、
押井守に目を輝かせ、絵を描く仕事を夢見ていた菅田将暉は会社に入って、大人の、社会人の理屈の方へと流れていく。
だんだん、人生の価値だとか、勝ち負けだとか、企画だとか人脈だとか責任とか言い出して、ビジネス本を読み出し、最高でないものにたいして、
「最高っすね!」
と笑えるようになっていく。
その変化の良し悪しはおいといて、有村架純が恋したのはそんな「大人」な分別ある菅田将暉ではない。
ガスタンクの写真を夢中で撮り続けていた、少年菅田将暉なのでした。
逆に、菅田将暉は有村架純に対して「好きなことだけやって生きていけるかよ」と「甘いこと言ってんじゃない」と
「いろいろ嫌なこととか我慢して、それでも働いてお金を稼いで行くのが大人だろ」と
そういう、世間に広く認知されている理屈を言い出す。
わたしは私で、最近「嫌なことを(他の好きなことのためになるからと)我慢してやるのは良く無いことである」という理屈に達しているので、有村架純の「嫌なことはしたくないの!」という叫びを全力応援なんですけど、それは価値観の問題で、
有村架純の価値観を「甘えた学生気分」と感じ、菅田将暉の考えの方が正論である、という人もいるでしょう。
問題はどちらが正しいか、ではなく、時間が流れ、あんなにシンクロしていた二人の価値観がズレてしまった、というこの惨状なわけですね。
このようにズレてしまった二人がひとつ屋根の下で暮らしていくには相当の工夫がいる。
その解決に、菅田将暉は結婚、家庭、子ども、などを持ち出す愚行に走るわけですが、それはもう痛々しくてみてられない。
何が恐ろしいって、価値観がずれ、初期のときめきを失った時のペア継続処置として、こんな解決、こうなったら結婚するしかねえわ、家庭を持とう、という解決をしたペアが、世の中に一定数は存在するだろうことだ。
こういうペアの存在を否定するわけではないが、わたしからすると、相当に恐ろしい解決策だ。
多くの文芸や映画が家族とは何かを問い、家庭のあり方を問い続けているのも、ペア発生の過程に相当いびつな物語があるからなんだろう。
有村架純の価値基準ではとうていこの「こうなったら結婚して解決しよう、それが人生ってもんだ」という案は飲めないわけで、どうしてもさようならという運びとなるわけです。
まーねー、出会いと別れといいますが、出会いは終わりの始まり、みたいな文言も出てきて、ほんとどのセリフも刺さる映画でありました。
ごちそうさまです。
何度も観たくはないですが、大好きな映画でありました。
[2021.02.12 facebookから]
▽追記1
花束。
何回も観たくはないけれど、と言ったけれど嘘でした。
一度観てからずっと、毎日の何%か、この二人のことを考えている。
これはもっかい観に行くしかねーな。
まだ観てない人はさっさと観てください。
****
わたしはひとつ、この手の映画を観るときの技を編み出してまして、
それは、
「主役の顔面を少しブサイクに脳内変換して観ること」
なんですね。
わたしみたいなひねくれ者は、映画ビリギャルを観たときなんかもそうでしたけど、あれは、偏差値の低い主人公が努力して慶応大学に合格するわけですけど
「ちゅーか、見た目が有村架純なら、必死に慶応いかんでもなんぼでも生きていけるやろ」
という雑念が湧いてしまいお話に集中できないんですね。
日本版サニーも、主役が広瀬すずなもんですから、どうしてもクラスの誰より美形なわけで。
そんなやつが転校してきたとして、いじめられるわけねーだろ、って思ってしまう。
映画は俳優が演じるので、主役は(本来のキャラが美形かどうかにかかわらず)どうしても、美形寄りの人が演じることになってしまう。
今回の花束、は、菅田将暉と有村架純の演技力のおかげでしょうか、そんなに俳優のキラキラ感は映画に出てこない。街を二人が歩いていても、そんなに目立たないんですね。
その演技力に甘えてしまってもいいんですが、あえて、もうすこしブサイク変換して観る。ちょっと非モテの二人と思った方がもっと素敵に泣ける。
これね、
「そのへんの一般的な大学生」
のお話。
花束、は、美男美女の特別な恋物語、ではなく、
特殊能力のあるやつらのお話でもなく、
街を歩いていても誰も振り向かない
「ふつーの僕ら」
の日常のお話なんですよ。
だから泣けるんですね。
ふつーの僕らの毎日にだって、奇跡がおこるんやで、というお話なんですよ。
[2021.02.18 facebookから]
▽追記2
2回目。また初回とは違う感覚になりながら観た。
初回はだいぶ痛かったのだけれど、2回目は痛みに慣れると言うか、痛みはあるんだけど、それでもありがたいよね、感謝の方が勝つよな、的な感覚。
花束、の印象も変わった。
初回は、去っていく恋に対して、さようならをいう物語ととらえ、花束は永遠ではない、切り離された花だから、やがて萎れて枯れていく運命、という悲しさを感じたが、
2回目は、いや、ちがうな、これは永遠なのかも。という気にもなった。
***
物語の最後の分岐点、ジョナサンで麦が口にする「恋はもう無理だけど、結婚なら、家族なら、別れなくていいかも」という提案。もうキラキラ輝かなくていい、相手にドキドキしたり、とろけそうな気持ちになったりせず、お互いを人として大切にし、地に足をつけて、パートナーとして歩んでいこう。世の中の結婚してる人たちだいたいそうだから、そんなもんだから、という。
これは麦が正社員として仕事をすることでいろいろ捨ててきたものと呼応している。楽しいから仕事するんじゃなくて、仕事は仕事だから、つらいとか苦しいとかじゃ無いから、割り切ろう、大人になろう。そういう経験値から出てきたセリフであり、絹も心がすこし動く。
ただ、隣の席の若いカップルに、出会った頃の2人を見たとき、あのかがやき、あの美しさ、あの何にも変えがたい時間、を思い出す。
それが花束、であり、それは朽ちていくのではなく、あまりに強く、変化させられない美しい想い出だった。だからこそ、2人ともが、言葉にもださず、「私たちは別れるしかないのだ」と確信したのかもしれない。
ここまで飛び抜けない、ある程度までのインパクトの恋は、それが朽ちていくことで養分となるのだろう。ときめきはしだいに穏やかに人を愛する気持ちへと移行していくのが通常なのだろう。
彼らの恋はその移行を拒絶する強度をもっていて、「こんくらいの着地で手打ちにしといたるわ」という流れを踏まなかった。それを理想論、と片付けるのは違うかと思う。あまりに美しすぎて、愛に育たなかった恋。それはそれで切り取られた花束としての強さをもって、彼らが生きてる限り心の中で咲き続けるのだろう。
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ところで、プログラム買ったんだけど、天竺鼠単独ライブのチケットや、わたしの星のポスターが挟まってる。
やば。
[2021.03.21 facebookから]
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