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「遊び」はすでに死んでいる〜遊びの「エリート主義化」と「平等主義」〜


遊び人が教える遊び。

あなたはこのフレーズに惹かれるだろうか?

10年前とかだったら別に惹かれる人はいなかっただろう。でも、最近だとこれが結構受け入れられるようになったのではないかと思う。

なぜなら、「遊び」は勝手にやるものだったからだ。

しかし、最近はそうではなくなっている気がしている。

遊びにお手本が求められ、遊びが提案されていく社会になりつつあるように感じられる。

その原因は遊び方がコンテンツ化され、消費されていくようになってしまったからだと考えている。

そして、そうでもしなければ「娯楽」が生き残れなくなってしまうほど現代が貧しいとも捉えられる。

遊びとは本来、無目的で無駄なもの。それはどのようにして許容されなくなってしまったのだろうか。


出る「無駄」は打たれる社会


現代の「無駄」に対する目はとにかく厳しい。

2025年の大阪万博はどうにもこうにも「無駄遣い」としてバッシングされている。

その風当たりの強さは日本維新の会という「身を切る改革」を称し、あらゆる「無駄」を排除してきた政治指導者がやっているから余計にそうなのかもしれない。

平成の30年間でありとあらゆる「無駄」が解消された。


いろいろ民営化してる
引用:https://w.wiki/4G2D

昭和末期の国鉄解体、郵政民営化、NEXCO、日本学生支援機構のスタートなど、昭和時代に政府が守っていたものがドンドン手放され、民営化されていくことになった。

バブルという巨大な「無駄」の時代にが崩壊した結果、とにかく無駄を排除したスリムなものが求められる。

「負け犬の遠吠え」から生まれた「勝ち組」


実は著者も「負け犬」とのこと
引用:https://amzn.asia/d/0kcaDKx

また、2003年に酒井順子氏によって「負け犬の遠吠え」が出版されて以降、ヒルズ族やホリエモンブームなど、世の中の「勝ち組」がクローズアップされ、そうなれなかった人たちを怠惰な「負け犬」として侮蔑する流れが生まれた。

最低賃金3倍なのに年収は変わらない闇

どうして。。。。
引用:https://parttime00.com/saiteitingin/tokyo/

その後のリーマンショックや東日本大震災など景気が大きく落ち込む経済ショックが立て続けに起こりながらも、消費税という昭和には存在しなかった税金がより大きなものになってしまい、貧しい人はより貧しくなってしまう。

不思議なのは、東京都の最低賃金がここ30年で525円(1989年)から1123円(2023年)と約3倍になっているのにもかかわらず、日本国民の年収の中央値が425万円(1992年)から458万円(2022年)と大して変わっていない

参考
東京の最低賃金の推移データ(1977年~2023年)
日本の平均年収は458万円に!30年の推移で浮き彫りになる日本の課題とは


コロナに追い込まれた「不要不急」

某バイリンガール氏へのバッシング、本当にひどかったよなぁ
引用:http://oomonoyoutubersokuhou.blogo.jp/archives/32028111.html

また、コロナ禍のときに散々聞いた「不要不急」という言葉も「無駄」に対するアレルギーをより高めてしまったのではないのだろうか。

あの頃を思い出すと、「不要不急」の名の下であらゆるものを我慢させられたフラストレーションによって、他者の「不要不急」に対して通常では考えられないくらいの強いバッシングが生まれていたのをよくみた。

セックス・ドラッグ・ロックンロールは叫べない

あまりにも昭和がひどすぎたせいか、僕らZ世代はやたら「おとなしく」、その娯楽についてもかなり健全さが求められるようになっている。

まず、僕たちは校舎の窓ガラスは割らないし、盗んだバイクで走り出さない。テラ豚丼やバカッター、最近で言うとスシローペロペロといったネットおもちゃの生贄が定期的に排出されることによってネットで馬鹿騒ぎをすることもやりにくい。

テラ豚丼のことを知っている人はたぶん古参

スリルな遊びのカジュアル化

最近だと、同意なしの性交渉は犯罪になるし、そもそもお金ないしで風俗に行く人も多くない。だって、Pornhubで簡単にエッチなビデオが見れるんだもの。

その結果が20代の童貞が4割
引用:https://medical-tribune.co.jp/news/2023/0301555828/

オーバードーズするお茶目なトー横キッズはいるけれど、みんながみんなそうしているわけではないから、健全な僕らはサウナやCBD(大麻からいい感じになる成分を取り出したやつ)でキマっちゃう。

プラットフォームはあるのに言いたいことが言えない世の中

「みんな」が思っているような社会の闇は叫べるようになったけど、「みんな」が思っていない社会の闇を言ったら大炎上!言いたいことを誰でも言えるプラットフォームはあるのに、より言いたいことも言えない世の中になっている不思議!!!!

「みんな」が思っていないことを言うとめっちゃ炎上する例
引用:https://note.com/taichinakaji/n/n3e33e5d58544

ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)が普及すればするほど炎上の勢いが増す。しかし、こんなにも日々炎上が起こるのは、もはや炎上が一つの祭りとしてそこにいる人たちの怒りを爆発させるためのポルノに成り果てているからだとも考えられる。

その結果、世の中はクリーンな方向に向かっているようで、かなり歪になってきている。まだ、ちんこ音頭でキャッキャしてた頃の方が健全だったのかもしれない。


僕が見始めた頃のインターネット
引用:https://www.nicovideo.jp/watch/sm19257282

「ゲーム脳」バッシングでの生存戦略

そんな無駄を許さない世界の中でも、未だに残り続けている「無駄」の一番槍ことゲームはいったいなんなんだ??と思ってしまう。

しかし、ご存知の通りゲームは既に「無駄」でなくなってしまっている。なんだったら、一日中ゲームをしているだけでお金を稼いでいる人なんてのも想像に容易いほどに価値化に成功している。

ゲームはなぜ「無駄」でなくなってしまったのか。

それは、一時期「無駄」として本当にその存在を消されかけてしまっていたからこそ、ゲームは「無駄じゃない!」と必死にアピールしなければならなくなっていた時期があったからだ。

「ゲーム脳」という科学的根拠皆無のバッシング

僕が小学一年生くらいのとき、「ゲーム脳」という言葉がかなり流行っていた。

擬似科学だったらしい
https://w.wiki/vnY

学校と同じで、ゲームは世の中の社会問題の原因として押し付けるには大変都合の良い存在なので、ゲームの制限時間を守らないだけで「ゲーム脳になるよ!!」とやたら言われていたのを覚えている。

その前にも東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件をたまたまオタクが起こしてしまったこともあって、オタクやゲームに対するバッシングは酷かったようだ。

そんな中、ゲーム業界が自分達の存在を守るために作り出したのは「良いゲーム」や「良いアニメ」という概念だ。

ものすごくわかりやすいのが、脳科学の先生監修で脳トレゲームを発売したこと。アニメに関しても子供に見せたくない番組殿堂入りアニメことクレヨンしんちゃんの映画「あっぱれ!戦国大合戦!」などは文科省からお墨付きをもらうほどに丁寧な時代考証を含んでいる。

首だけのおっさんがゲーム業界を救ったといっても過言ではない
https://www.nintendo.co.jp/ds/andj/index.html

最近だったら、「はたらく細胞」や「Dr.Stone」なんかがうまく教育要素を取り込んでいる。

ゲームやアニメが残り続けるには「無駄ではないもの」としての見せ方をする必要があった

こうして、ゲームやアニメは「無駄」を手放すことでその生き残りを果たした。

「好きなことで生きていく」が実現した結果

ヒカキンよりもMEGWIN派だったヒカキン登場当時
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=PKcsiiaiDUQ

Youtuberが遊びを「仕事」にしちゃった

資本主義とはすごいもので、どんな批判も年収パワーで黙らせることができてしまう。つまることろ、金さえ稼げて仕舞えばどんな虚業であっても価値があるものとして認識させることができてしまうのだ。

youtubeが動画主に莫大な広告収入を分け与えるようになった日、ついにこの世から「ただの遊び」が消えてしまったといっても過言ではない。

初期からいるyoutuberはただ遊んでいるだけで稼いでいるように見えた。

Youtuberは楽じゃない

youtuberは大変
引用:https://www.youtube.com/watch?v=pM9cfvCVAO4

動画編集を一度でもやったことがある人ならわかるだろう。それはただ遊んでいるのではなく、人気者になるための戦略を立て、血の滲むような労力と努力を感じさせないように画面の中では楽しく遊んでいることを演じなければならない非常に過酷な仕事なのだ。

ポケモン実況で伸びてしまったyoutuberは収入が入る限りポケモンからは逃れられなくなってしまう。

遊びが仕事に変わると遊びじゃなくなってしまう罠
https://www.youtube.com/watch?v=CepOZXVtsCo

芸能人youtuberによる「権威づけ」

さらに2019年にオリエンタルラジオの中田敦彦がyoutubeで大成功してしまったのも大きく、翌年のコロナ禍もあって芸能人youtuberが爆増。

結果、テレビでよく見るスターがあたりまえのようにyoutubeに出てきてしまうことで、youtuberは社会的な地位までも獲得してしまう。

あらゆるものを「教育」に変えた「経験主義」

経験主義という最強カード

教育業界の議論の中に経験主義VS系統主義論争がある。

ざっくりと言えば、なんでもかんでもやらせてみてその中で感じたことを学びにしていく学習方法(経験主義)と教科書のように物事を体形的に学ぶ学習方法(系統主義)の争いだ。

経験主義に関しては正直何をやってもいい

何をやってもいいからこそ、ありとあらゆる「遊び」と結びつき、あらゆる「遊び」を教育コンテンツに変えてしまったのだ

小学生向けのyoutuberの教室も当然ある
https://fulma.com/

教育の多様化

一流のyoutuberになるのも、一流のプレイヤーになるのもどちらも難しい。

しかし、世の中には二流も三流もたくさんいて、高校球児がたくさんいたのにプロ野球の2軍に進めるのがわずかであるように、youtuberの三流であってもプロはプロなのだ

今の教育業界は学校がかなりいっぱいいっぱいなこともあって、かなり多様化している。

プロの世界から退いた人たちはたくさんいるし、プロになれなかった実力者もたくさんいるため、そのような人たちがオンライン家庭教師や塾を立ち上げ、ネットを通してその小さな需要を拾っていくことが可能になっている。

↓ゲームの家庭教師も存在している。

遊びのエリート主義化、そして平等主義へ

遊びのエリート主義化

もはや遊びは教育の中に組み込まれてしまった。そうなると、遊びの中にも格差社会が持ち込まれるようになってしまう。

昔はスポーツや音楽くらいしか格差は開かなかったが、現代の子供たちの遊びのほとんどが親の資本や文化的教養に大きな影響を受けることになる。

そもそも習い事や学校外学習をできるかどうかに格差あり
引用:https://cfc.or.jp/wp-content/uploads/2023/07/cfc_taiken_report2307.pdf

公園で遊んでいたら「うるさい」と苦情を言われるため、子供たちの遊び場は減少。結果、ゲームのような大人しく家でできるコンテンツに集約されてしまう。

スタートデッキで子供とデュエマをやっていると、小学生がモルトネクストで突っ込んでくる。(当時1枚1500円のカードを4枚使うデッキ)

ポケモンは買い切りパッケージではなく、追加コンテンツで強い新ポケモンが出てくる

スプラやフォートナイトは課金武器が強すぎるため、ある程度ゲームで勝つためにお金が必要になってきてしまう

さらに、どれも大人のプレイヤーがいるため、その上手いプレイヤーを師匠としている子は他の子よりも豊富な経験値をもっているため、社会関係資本の差まで出てくる

もちろん、現在はyoutubeという世界一巨大な無料総合教室が存在しているが、youtubeを学習ツールとして使うにはそれなりの知力が必要になってくる。

つまるところ、世間で用意されている遊びのコンテンツには格差が存在している。

そもそも、Switchを買えない子はゲームすらできない

商業的な遊びコンテンツの充実とそれに伴う格差の拡大から、才能や資本のあるものだけがより楽しめるようになるエリート主義的な流れが遊びの中にも生まれてきてしまった。

遊びのNPOおよび非営利活動

そんな遊びの格差を解消するためのムーブメントが全国各地で起こり始める。

その文脈ではないかもしれないが、高倉氏をはじめとして図書館でボードゲームイベントを開催する司書さんも登場している。

↓高倉氏による図書館でのボドゲ活用事例
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkg/71/8/71_350/_pdf/-char/ja

弊町周辺では三郷サイコロクラブさんなどもいる。

ボードゲームはゲームを知らない子でも楽しめるものが多く、一つ持っていればいつでもどこでも遊べることから、持っている人が地域の子供や大人を巻き込んでコミュニティを作っていくのに向いている

何よりもボドゲを持っていけばどんな場所でも簡単に遊び場を作れるため、自治体次第で全国どこでも出張開催が可能なのだ。

僕自身も旅先の子ども食堂に自作ボドゲを持ちこみ現地の子供たちとボドゲをするなんてこともよくやっている。

なんだったら、自費でスクールバスを購入し、その中をボドゲカフェにして移動式ボドゲカフェなんてやっている人もいる。

別の友人・ベジさんはトランポリンを持ち歩いて水鉄砲合戦(ベジソンクラン)やフリートランポリンなんてのを開催している。

「遊び」はすでに死んでいる

僕自身はもともと「遊びたければ勝手に遊んでおけばいいじゃない」と考える「遊び貴族主義」の人間だった。しかし、昨今の遊びの状況を見るに見かねてノブレス・オブリージュ的活動の一環として遊びの仕事をしている。

ただ、冷静になぜ遊び場を作る必要があるのだろうか?と考えてしまった。

まず、僕らの時代に世間一般で「遊び」と言われたもののほとんどが競技化してしまったことが大きい。

ごっこ遊びの限界

まじで時間がない現代人。コンテンツ多すぎ問題。
https://amzn.asia/d/9DVz6hq

遊びとして、残っているのは「ごっこ遊び」くらいで、そのごっこ遊びについていくためにも文化的資本が必要になってくる。

そもそも、youtubeによってあまりにも趣味嗜好が分散&多様化している子供たちにどのような「ごっこ遊び」ができるかが謎である。

現代社会、消費するタイプの娯楽コンテンツがあまりにも多すぎる。

鬼滅の刃、呪術廻戦、SPY×FAMILY….
おおよそ子供向けとして作られていなさそうなコンテンツまで子供たちのメインコンテンツになってしまうあたり、それに追いつけない子たちもたくさんいるだろうと考えてしまう。

そして、大人子供にかかわらず、それを全て見ることができる時間などほとんどないのだ。

大量の遊園地と見捨てられた原っぱ

ただ、本当に悔しいことに僕たちが提供できるのは、あらかじめこちら側である程度遊ぶ内容を決めた遊び、つまるところ遊園地的遊びである。

本当は子どもたち自身でルールを考えて、子どもたち自身で何かを作り出すような遊び原っぱ的な遊びをしてもらった方が彼らのためになると思っている。

しばらくやってないが、「100年後の鬼ごっこを考える会」と称し、ルールがめちゃくちゃすぎる鬼ごっこを子供達と一緒に考えて遊ぶというかなり原っぱな遊びを企画している。

現代社会は金さえあれば飯に困ることもなく、娯楽は無限に供給される。

その金さえも生活保護のような仕組みがあることから、完全に「パンとサーカス」を与えられ続ける状態だ。

デザインされた遊びの中で僕たちは今日も生きていくのだろうか?


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ここで紹介した各コンテンツは全員ふつうにいいことをやっていると思うのだが、一方で「遊びにも機会の平等の文脈がやってきたか〜」とふと気づいてしまい、この記事を書くに至った。

しかし、所詮は遊びなのである。

遊びとは遊びであり、僕たちの将来にかかわるものではないし、世界に価値をとどけるものではない。

だからこそ、無駄なことして何も考えないで全力疾走していけるのではないのだろうか。

今、僕はメタバースというこの世で最も無駄を堪能できる仕事をしている。

メタバースに求めるのは現実から目を背ける仮想世界ではない。

ただ、全力で無駄なことができる遊び場を求めているだけなのだ。


来月オンライン&リアルハイブリッドイベントやるからみんな来てね!


最後まで読んでくださってありがとうございました! サポートもらえると、テンション上がって更新ペースが上がるかもしれません。