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「美味ざるを得ない」を流行らせたい

 昨日の夜は羊の脳みそカレーを食べた。
 星新一のショートショートのような始まりだが、これはエッセイである。
 東南アジア系の料理店で、友人の勧めるがまま思い切って食べてみた。私としては映画『ハンニバル』の、自分の脳みそを食べるシーンが衝撃的すぎて抵抗があったのだが、これがなんとも美味かった。味は白子のように濃厚で、ドロッとした舌触りも良く、臭みはカレーの香辛料に打ち消されていて気にならなかった。
 友人はもう何度も羊の脳みそを食べたことがあったらしく、私が一口、もう一口と皿に手を伸ばす度に「ほらなあ? 美味いだろ?」と得意げな顔をしていた。悔しい。
 
 私はこの気持ちをどう表現すべきか考えた。
 そして一つの答えが出した。それこそがタイトルの「美味(うま)ざるをえない」である。
 説明すると「美味ざるを得ない」は、「勧められた(あまり気乗りしない)食べ物が意外にも美味しかった」際に使う言葉である。
 例文を挙げると「羊の脳みそ? 嫌だよ、そんなの食べたくないよ。え? 一口だけ食べてみろって? わかったわかった。一口だけな。パクッ。ううん。ほーん。もぐもぐ…… ごくん。これは…… 美味ざるを得ない」といった具合だ。
 食の多様性が十分に浸透した昨今の日本では、この言葉が使えるシーンは多いはず。だからこそ、流行らせていきたい。

 そもそも「〜ざるを得ない」とは「〜をしたくはないが、しなければならない」という意味を持ち、動詞(未然形)の後に付く言葉である。
(詳しく分解すると、「ざる」は打ち消しの助動詞、「を」は目的を表す格助詞、「え」は動詞(未然形)「得る」、「ない」は打ち消しの助動詞。)
  「美味ざるをえない」は、美味いという形容詞に「ざるを得ない」を無理やり繋げた新語だ。過去を重んじる言語学者はこの誤用に憤慨するかもしれないが、今までにない使われ方にきっと「ざるを得ない」もさぞ喜んでいることだろう。

 言葉は使用年数が長くなれば長くなるほど誤用が生じ、その誤用をも受け入れられ、浸透し、作られていくものである。「言葉とはつまり、形而上のサクラダファミリアである」とはよく言ったものだ(私が今考えた)。
 だから、いい加減「ざるを得ない」も動詞だけに従うのではなく、形容詞を主人に迎え入れたってなんら可笑しくない。
 言葉なんて一般化さえしてしまえばこちらの勝ちだ。たとえ過去を重んじる言語学者がいくら指摘してこようとも、大人数の日本人が使い続ければそれは誤用ではなく正しい日本語となっていく。過去を重んじる言語学者よ、私が相手だ。

 上記の通り、「美味ざるをえない」の意味を定義づけた。まずはこの意味を踏まえ、然るべきときに使ってもらいたい。全ての人間に。
 そしてこの言葉がすっかり定着した後に、もう美味いと思ったらどんな状況でも「美味ざるを得ない」を使ってほしい。
 なんなら「このバンドのギター、上手ざるを得ないなあ」みたいな感じで使ってほしい。ギャルとかそういうの得意そうだし、意味が転じた頃には再び若者の流行語として評されるようになって欲しい。
 さらにその数年後には「役不足」のように、「本来の意味と乖離しすぎている。言葉は正しく使うべきだ」と主張する保守派と、「言葉の意味は生きる時代によって移り変わるものだ」と主張する革新派が産まれ、両者の間で熱い議論が交される程の言葉になって欲しい。もちろん発案者の私は革新派につくぞ。過去を重んじる言語学者たちを相手取った当時の血が騒ぐぜ。
 
 とまあ遠い未来の妄想はこのくらいにしておこう。ここからは現実的な話だ。
 一つ目の目標を今ここに掲げる。それは、「美味ざるを得ない」が「流行語大賞 2023」の大賞を受賞すること。「受賞した芸人は一発屋で終わる」などと嘲笑され、なんとも不名誉な賞だとも思うが、私は「まいう〜」が成し遂げられなかった悲願を是非とも果たしたい。
 それに大賞さえ取ってしまえば、あとはとんとん拍子で私の望む未来まで進んでいく気がする。がんばれ、「美味ざるを得ない」。

 うむ。こうして考えてみると、広辞苑に「美味ざるを得ない」を載せることも不可能ではなさそうだ。
 手前味噌だけど、やっぱりいいなあ、「美味ざるをえない」。
 え? そんな言葉を作らずとも、「美味いと認めざるを得ない」でいいだろって? へえ〜、まあ、あー、確かに、意味は同じだね。うん、えー、ふうん………
 
 
 
 
 

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