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夫婦に「トリセツ」は、いらない。

夫婦はオンリーワン

「妻のトリセツ」が売れる一方で、「レッテル貼りしないで」という
女性側の反論がTwitter上をにぎわしているが、夫婦関係はこれまでも
心理学的セオリーや、ときにはビジネスマネジメント的手法からの、
あたかも「これを実行すれば成功」的なトラブル対策ばかりが論じられて
きた。
「妻のトリセツ」はそれらの単なる亜流に過ぎない。

夫婦とは、それぞれの夫婦に固有の関係を構築したオンリーワンの存在で、
一般的なトラブル対策など無意味だ。

そもそも「トリセツ」とは、例外なく均一に製造された商品を円滑に利用するための予定調和の世界のガイドだ。個々に異なる妻との夫婦関係に用いる言葉ではない。

狐と狸とも言うべき不可思議な関係

私は「結婚についての格言は、信じない方がいい。」で、かつての人気番組「唄子・啓助のおもろい夫婦」のナレーションを紹介しながら
「これこそが結婚という営みの奥深さと歓び」と書いた。
なかでも「もつれ合い、化かし合い、許し合う、狐と狸。
というフレーズは、夫婦を見事に語っている。

もとは他人同士だから、「もつれあう」ディスコミュニケーションはある。しかし、それを折り合っていきながら夫婦は生まれていく。
それが「化かし」「許し合う」夫婦に固有に生み出される
コミュニケーションの流儀だ。
化かす」とは、良好な関係を保つために伴侶の特性に応じて醸し出される考えあるいは行動である。そこには互いの欠点を許し許され「許し合う」
ことも含まれる。しかし夫婦が「許し合う」のは、一般的な人間関係の
ように紆余曲折を経てたどり着く感情ではなく、許し合うことそれ自体が
夫婦の日常になるような心の状態だ。
それぞれの夫婦が日々の暮らしのなかで編み出す、そうした
コミュニケーションの流儀は、まさに個々の夫と妻の阿吽の呼吸から
生まれる。だから極論すれば“公然と浮気が許される”関係も成立するし、
そのように他者が理解できない関係こそが夫婦なのだ。
「唄子・啓助のおもろい夫婦」は前述のように、「狐と狸」で結ばれるが、この「狐と狸」とは、この夫婦ならではのコミュニケーションの愛すべき
流儀を捉えた、軽妙な表現に他ならない。
もちろん狐と狸がペアになることはないのだが、その狐と狸が、
互いに分かり合えるゾーンを共有するという不可思議さこそ夫婦固有の
流儀であり、繰り返すが一般的な人間関係論では語れない点なのだと思う。

夫婦という固有の関係

夫婦にトリセツは無意味だ、と書いた理由は、このように一般的な
人間関係とは全く別の独立した関係だからである。
四本(よつもと)裕子・東京大准教授は、「妻のトリセツ」を
「データの科学的根拠が極めて薄いうえ、最新の研究成果を反映して
いない」と指摘している(朝日新聞)。また「集団を比較した平均値の差を
もって、男性の脳はこう、女性の脳はこうと一般化することはできない」と批判した。この視点は、「妻のトリセツ」が一般化に値しない、という点では私の主張と同じだが、四本准教授が別の一般化の可能性を論じる限り、
夫婦には通用しなくなる。

四本准教授は、「男性でもできそうな家事として『米を切らさない』
『肉を焼く』などごく簡単な仕事だけをリストアップしたりする記述は、『ニューロセクシズム的』」とも指摘する。男にとっては援軍となる
話かもしれないが、私はこの指摘に対し、夫婦はさらに奥が深いと言いたい。
例えば私は、肉じゃがをレシピなしで作れる程度の料理の心得はあるが、恐らく私の妻は「肉を焼く」のは任せてくれない。それは、妻に「私が焼いた方がスムーズで亭主の好きな焼き加減も心得ている」という自負があるからである。仮にこのような妻がいれば、「肉くらい俺の勝手に焼かせろ」と
言う旦那様方が大勢いらっしゃるだろう。そして、肉を焼く度に喧嘩が
始まる、なんてことになり兼ねないかもしれない。肉を焼く際の私と妻の
関係が特異なのかもしれないが、しかしそれこそが我々、夫婦が編み出した流儀なのである。

妻は夫を、夫は妻を見つめる

先日、あるFM番組を聞いていて、靴下から下着までを並べながら
脱ぎっ放しにするが如きだらしない亭主をどう説得したらいいか、という
妻であるリスナーからの相談があった。
「私は手紙を書きました」や「洗濯するのをやめました」などの
アドバイスが寄せられていたが、これらの助言に欠けているのは、この妻が亭主をどう見つめ、どんな亭主の性格を好み、逆にどんな性格に耐えて
きたか、など、いかに亭主を見つめてきたか、という視点である。
“夫婦関係”を取りあげる世の夫婦のハウツー番組や書籍には、この視点が
根本的に欠けている。

「妻のトリセツ」には、「名もなき家事がふたりを分かつ」という項が
あって、「実現可能なタスクを自分で決める」などいう、いかにも
ハウツー的な“教え”があるが、私はこの「名もなき家事(トイレットペーパーを取り換える、乱れた靴を揃える、など目には見えないが誰かがやらねば
ならない家庭の営み)」の多くを自らの判断で行っている。しかしそれは、
自分の「タスク=果たすべき作業」だからやっている訳ではない。
この「タスク」という言葉こそ、世の夫婦のハウツー番組や書籍が垂れ流し続ける似非解決策の軽薄さをよく言い表している。

実は新婚当時の私は、休日に自分が寝そべってテレビを観ている時間に、
妻一人がスーパーの買い物に行き重い荷物を下げてきても何も感じいない
ダメ亭主だった。
しかし私の記憶で妻に厳しく何かを言われた記憶がない
にも拘わらず、私たち夫婦は、この「名もなき家事」を何となく分担できている。当然100%ではないが、漏れた分は明らかになった時点でどちらかが行う。そこでは、夫婦で行う家事のハウツーでよくやる「リスト化」など
もちろん無縁だ。いま私は、私なりに妻の苦手な作業、それを担えば妻が
苦痛になる作業を行うが、それは別に話し合って決めた訳ではない。
理由は、日々顔を合わせて会話し、喧嘩などした結果、それがいいと自然に思ったからだが、それで妻は快適なのだから、これを「化かす」と言って
よいのかもしれない。
このように書くと、まるで私がいい亭主のようだが、こと「名もなき家事」においては、妻が(どのように考えたかは知らないが)耐えながら私をうまく仕向けた結果であり、負担は遥かに妻の方があった。しかし、恐らく妻には一方でそれを可能にする何事かがあったはずなのである。それは、あるいは何らかの「感謝」に似た気持ちかもしれないが、その気持ちはもちろん
私だって同じだ。

ベストセラー「一切なりゆき 樹木希林のことば (文春新書)」で希林さんは、次のような言葉を残している。

「内田には感謝しているんです。
彼と一緒にいると、自分は意外とまともなんじゃないかと、楽な気持ちになれた。だから、実は救われたのは私のほうなんです。」

これはもちろん、夫・内田裕也を見つめ続け、耐えながら笑いながら悲しみながら醸し出した希林さんの想いだ。これを読んで「自分は意外と
まともなんじゃないかと思える喜びを目指してやりましょう」などと
ノウハウにしても無意味なのである。
そのように“一般化”したがる世の夫婦のハウツー番組や書籍に惑わされてはならない。

よりよき夫婦関係を生み出すのは、相手を見つめる、この一点しかない。

見つめれば、妻のよさに気づくし、弱さに気づくし、自分のどの欠点を
許し、どこを許さないかの判別がつくし、どこが長所と思っているかも
分かる。そんなことを重ねるうちに、嫌なことも「許せる」ようになる、

それこそが他人同士が一つの屋根に暮らす、夫婦という固有の人間関係の
不思議である。

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