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エッセイ 三島由紀夫はなぜ腹を切ったか(改題)

 私は特別三島由紀夫が好きではない。そんなに読んでいるわけでもないし、人間的に勉強したわけでもない。しかし、気になる作家ではある。
 三島に関して、ひとつ自慢したいことがある。それは三島が戦争に行っていないことを予測したことだ。予測という言葉はおかしいかもしれないが、調べる前に、たぶん三島は戦争に行っていないだろうと予感したのだ。そしてそれは当たった。
 三島は大正15年生まれ。昭和の年数と年齢が同じである。二十歳で終戦を迎えている。戦争に行っていてもおかしくない年齢である。しかし行っていない。
 三島は昭和45年、45歳の時に割腹自殺と遂げた。なぜそんなことをしたのかを私なりに考えた時に、もしかしたら三島は戦争に行かなかったのではないか、と考えたのである。「行かなかった」、のではなく、「行けなかった」、「行きたくても行けなかった」、のではないかと。
 体が弱くて徴兵検査ではじかれた。これは三島にとって耐えがたい屈辱であったに違いない。太宰なら「よかった。戦争にいかなくて済む」と喜んだだろうが、三島はそういうわけにはいかなかった。体が弱くて検査に落ちたというのは、戦争に行く資格がないと言われたことであり、当時の男としては、欠陥人間と言われたに等しい。わざと落ちるようにしたのだ、とごまかすほうが、どんなにかましだった。それほどまでに、天皇大好き人間の三島にとって、天皇陛下のために死ねなかったことは屈辱だったのだと思う。
 戦後の三島は死に場所を求め続けたのだと思う。絶対的天皇制の復活に役立つためには、いつどんな死に方をしたら一番効果的かを自分の美学と照らし合わせて、考えに考えたのだと思う。その結果があの死に方だったのではないか。誰にも見劣りしないぐらい体を鍛え上げ、満開となった自分の文学の花を見届け、大阪万博閉幕の余韻さめやらぬ11月25日に腹を切ったのであった。


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